第40話 暗殺
すずは、自分のために、はるばる海を渡って来てくれた女の子に申し訳ないような顔を向けて、口を開きかけたが、やはり止めて、押し黙った。
「どうしたんだよ! 何か言えよ! 何だ、俺たちとは一緒に帰りたくないってのか! おい! すず!」
剛士が怒鳴るたびに、翔一の腕をひねる力が強くなった。
翔一は「痛い! 痛い! 先輩! 痛いったら!」と、剛士の太ももをバンバンとタップした。
剛士を止めることができず、
すずが黙っていると、友香子が静かに言った。
「すずちゃん、ありがとう……。いいのよ。私たちのためなのよね。いいから、あなたは家族の元に帰りなさい」
友香子が言うと、すずは泣きそうな目をして彼女を見つめた。友香子は武井に言う。
「お父さん、ごめんなさい。わたしは帰りたくても、帰れない。日本に行ったら、もう主人とは二度と会えない。それに、もしわたしが日本へ帰れば、彼は拷問されたり処刑されるかもしれない……」
「友香子……」
武井は、それ以上言葉を続けることができなかった。英女はちらりと翔一を見てから言った。
「わたしも日本には行ってみたいけど、ちょっと無理かな。行ったら二度と戻って来られないし、お母さんに会えなくなっちゃうしね」
武井は、悲しそうに笑う英女を見て、死んだ妻を思い出した。
武井は、日本へ帰ったら娘と孫をつれて芳江の墓参りに行こう、そう思っていたが、それが無理だと分かり、目頭を熱くさせた。
すずは言う。
「友香子さんや、ヨンニョだけじゃないの。他にも帰りたがっている日本の人がいっぱいいるの。わたし、みんなを置いて、ひとりだけ帰れない」
それを聞き、剛士は、すずの気持ちを痛いほど理解した。翔一の腕をつかむ手の力が抜けた。
「お願い! 剛士くん、翔くん。みんなも助けてあげて。この通り! 一生のお願い!」
すずは深く頭をさげた。
「これは、ただ連れて帰るだけじゃすまないな。国に帰りたいが、帰れないとは……。さあ、どうする。剛士君、翔一君」
カザルスが言葉を投げかけると、剛士と翔一は、厳しい顔つきで思案した。しばらく部屋に沈黙の時間が流れた。
翔一は考えた。
日本に帰りたい人だけ、密かに船に乗せて帰ったとしても、本当の解決にはならない。
このまま日本へ行けば、国交が断絶しているのだ。北朝鮮にいる愛する人に、二度と会えなくなる。それに、日本へ帰っても、日本の家族が生きているかどうかも分からない。帰った時、知っている人が誰もいなかったら、どうするのだろう。生活はできるのだろうか。幸せになれるのだろうか。
翔一が考えあぐねていると、剛士が口を開いた。
「分かった……。すず、俺にまかせろ」
剛士は、覚悟を決めた表情で、静かに言った。すずは「剛士くん……」と、まるで救世主を見るように彼を見つめた。翔一も「先輩……」と剛士を頼もしく思った。
剛士は、すずに微笑み、翔一の肩を軽くたたくと、真剣な顔をして、部屋の扉へ向かって歩いて行った。エラリーが、彼の背中に声をかけた。
「ねえ、どうするの?」
剛士は足を止め、振り返らずに言った。
「ジョンウンをぶっ殺してくる」
その瞬間だった。
英女が、剛士に走り寄り、彼の後頭部にドロップキックをお見舞いした。
剛士は大きな木製のドアに突っ込み、「ゴォン」と大きな音をたてて貼りついた。彼は受け身をとる間もなく、額をひどく打ちつけた。
音を聞き、貴賓室の外に待機していた警備員と役人が、「何ごとか」と、固く閉ざされているドアを凝視する。
「痛ってえ!! 何すんだ! てめえ!」
「ヨンニョ!」と友香子も驚いた。
剛士は怒鳴ったが、一方、英女もまた怒っていた。
エラリーとマリオは、プロレス技を間近で見て、はしゃいで喜んでいる。
「この筋肉バカ! あなた脳みそ持ってるの! ちょっとは頭を使いなさい!」
英女は剛士に言った。
「何だと! このガキ!」
「レディに向って、ガキとは何よ。このノータリンのアンポンタン! いい! 聞きなさい! この国は、首領制の独裁国家よ。そのトップを殺したら、どうなると思うの!」
「みんな幸せになるに決まってるだろ! 悪いヤツをぶっ殺して何が悪い!」
「はっ! これだから、脳筋は救いようがないわね。あなた脳味噌、腐ってんじゃないの。いえ、ごめんなさい、そもそも無いのかしら」
剛士の顔は、怒りで真っ赤になり、友香子は「ヨンニョ! 言葉をつつしみなさい!」と叱った。
英女は母を見ると、すこし言葉のトーンを下げた。
「いい、この国は、すべての権限がひとりに集約されているの。急にトップがいなくなったら、どうなるか分かる? 政府機能がストップするだけなら、まだマシよ。軍事独裁国家はね、ほぼ確実に内乱になって、たくさん人が死ぬの」
剛士は呆気にとられ、彼女の話を聞いていた。
「核兵器やミサイルはどうなるか分かる? 今まで、第一委員長の言いなりだった部下たちが、それらを奪い合うわ。そしたら、それに危機感をいだく国が武力介入してくるでしょうね。アメリカは確実よ。米軍が侵入して来れば、国境を接する中国、ロシアは安全保障に関わるから、ためらいなく出動するでしょうね。国連の常任理事国がこんな状態になったら、安保理は機能を停止して、下手したら第三次世界大戦よ」
翔一は、内心「えっ、うそ、そうなの?」と聞いていたが、英女は突然、翔一の方を向いて、子犬のような顔つきで言った。
「ですよねっ、翔一さんっ」
英女は、生まれてこのかた、同世代だけではなく、年上の先輩や教師、特に男性には、知能で負けたと感じたことはなかった。が、翔一との頭脳勝負で、はじめて心から負けたと痛感した。
それは彼が、超高度な難問を解いたからだけではない。
日本暮らしにも関わらず、まるで北朝鮮で生まれ育ったかのように流暢に朝鮮語を話す語学力を持つことに、彼女は畏敬の念を覚え、翔一のことを万能の天才のように思ったのだ。
それだけなら、彼女は翔一に対してライバル心を抱くだけだったが、英女は、彼に、すずのために命がけで日本から密入国して来るという、男気あふれる勇気を感じ、またその一方、車中、女性に挟まれて顔を赤くするようなウブなかわいさを感じた。
彼女は翔一を尊敬するだけでなく、彼に対して、とてつもない好意を抱いたのだった。
ちなみに、翔一が金月成の誕生日の問題をパスしたことは、すっかり忘れている。
突然、英女に話をふられた翔一は、内心「えっ? ええっ!?」と、あたふたしたが、彼は今日一日ずっと威厳を持った言動をしようと心がけていたので、動揺を隠そうと、ついボディーガードのように喋ってしまった。
「当然だ。少しは考えたまえ。剛士クン……」
翔一は「はっ!」と手で口を押さえた。
剛士が鬼の形相で翔一に詰め寄る。翔一は、あわててカザルスの椅子の後ろへ隠れると、英女が剛士を阻んだ。
「やめなさい! この暴力脳筋! 翔一さんに手出ししたら、わたしが許さない!」
剛士が「こ、この野郎ぉ……」と英女を睨んで腕まくりすると、すずが割って入り「まあまあ、剛士くんは年下の女の子に乱暴なんてしないよね」と彼をなだめた。
剛士は、「コ、コイツは、俺にドロップキックした上に、言葉の暴力ふるいまくりじゃねえか! ちきしょーっ!!」と、すすに猛抗議した。
それではどうするべきか。
皆が悩んでいると、英女が不思議そうな顔をして言った。
「何を、そんなに悩む必要があるの?」
「て、てめえ、 偉そうに」
「ヨンニョ、何かいい考えがあるの?」すずは期待して英女を見た。
「考えるまでもないじゃない」英女は、すまして言った。
「このガキ、ちょっとばかし頭いいと思って……」
剛士は悔しそうに言ったが、すずがいるから何もできない。
すずが英女に手を合わせて「教えて」と頼むと、英女は翔一を頼もしそうに見て、言った。
「翔一さんが、
翔一は、あんぐりと口を開けて、英女を見た。一方、彼女は、褒めて欲しいような顔で、翔一を見つめていた。
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