107.エリカ(フリッツ視点)

 クロス・フリッツは、目の前にいる親友と元婚約者を交互に見て、何度も目を瞬いた。

 エリカはこぼれんばかりに目を見開いたあと、朱で染め上げたように顔を真っ赤にしてしまう。


「ち、痴話げんかって……。お兄様たち、一体いつから……」

 ワナワナと震えるエリカに、トムは何でもないような顔で口を開いた。

「大丈夫かって、アルが聞いたあたりからかな?」

「それって最初からじゃないですかぁ」

 そのオロオロとする姿は、いつも彼女がエリカ・・・らしくない・・・・ところを見られたと思ったときに見せていた姿で、なんとも言えず懐かしくなった。かつては彼女が、フリッツやデボラにだけ見せていた内緒の顔だ。


 ――記憶はなくても、やっぱりエリカなんだな。


 そのことにフリッツは、自分でも不思議なほど安堵した。


   ◆


 テーブルに戻って和やかに昼食をとる間は、主にトムを中心に他愛のない会話が交わされる。やがて食後のお茶が用意されると、彼はおかしそうに妹の頭を撫でた。

「そろそろ機嫌を直さないか?」

 エリカは皆の話を聞きながらにこやかにしていたものの、トムの言葉に微かに目を伏せて小さく唇を尖らせた。

「だって、お兄様ひどいです。すぐ声をかけてくれたら、あんなおバカなところ、フリッツさんたちに見られずに済んだのに。初対面での印象が最悪じゃないですか」

「初対面……」

 そうか。初対面……か。


 少しだけショックを受けながらも、エリカの仕草に少しだけ頬が緩んでしまうのをフリッツはどうにか堪える。

 「まあ」という呟きが聞こえてデボラを見ると、彼女もやわらかな笑顔でエリカを見ていた。

「エリカが可愛いわ。それにアルバートさんも」

 フリッツにいたずらっぽく囁くデボラに、フリッツも軽く頷いた。

 エリカを見つめるアルバートの表情は、あきらかに愛しいものを見る表情だ。


 ――いったい何がどうなってるのやら。


 相変わらず疑問が解消されないままのフリッツの前で、エリカがちらりと恥ずかしそうにフリッツを見て慌てて目を伏せた。


 ――うん。本当に可愛いな。


 さっきアルバートが怒っているエリカに「毛を逆立てた子猫みたいだ」と言っているのが聞こえてしまったが、たしかに今の彼女の印象は小さな子猫のようだ。


 目の前にいるのは、フリッツがかつて婚約していた女の子でありながら、そのすべてを忘れたエリカだ。トムたちの話では、彼女は事故の影響で言葉以外のすべてを忘れたという。

 本来なら一番最初に知っていなければいけなかったはずなのに、今のフリッツの立場では蚊帳の外に出されたことに文句を言う権利などない。ましてやそれを寂しく思う資格さえない。


 トムはエリカの事故があった日をなかなか教えてくれなかったが、それが自分とデボラの婚約発表の日だったと聞いて、胸がズキリと痛んだ。

 本当だったら、彼女のマムであるデボラも、本当だったら婚約者だった自分も、一番そばにいるべきだった二人が共に、エリカの力になることが出来なかった。

 すべてが順調で幸福に酔いしれ、何も知らなかった。

 今のエリカの顔を見た瞬間、フリッツは申し訳なさに呼吸さえ苦しくなった。


『馬鹿ね、フリッツ。そう思わせないために教えなかったんじゃない』

 心の奥で、かつてのエリカの声がする。

 だめな子ねとでも言わんばかりに呆れた口調で、幼い子を諭すような、優しく深い声。


 いつも「エリカらしい自分」でいようと頑張っていた女の子を、フリッツは改めて見つめた。


 フリッツにとって、かつてのエリカは自慢の婚約者だった。

 綺麗で優秀で、なのに身内にしか見せない、ちょっとした素顔が可愛くてたまらなかった。

 フリッツが何かと頑張れたのは、彼女に恥ずかしくない自分でいたかったからだ。


 かぎりなく恋に近い感情を抱いたこともあった。

 実際とても愛している自覚は今もある。ただそれが家族に対する愛でしかなかったことに、フリッツは長いこと気づいてなかった。

 事実、その程度の感情で結婚しても問題はなかったと思う。

 和やかに温かい家庭を築けたという自信もある。


 でも自分の心が、まったく別の女性に惹かれていることに気づいてしまった。

 しかも自分の婚約者の側にいる女の子に。

 フリッツにとってデボラは、陽だまりのような女性だ。

 温かくて、その温かさに触れると心からホッとする。


 街で男たちにしつこく絡まれていたデボラを偶然助けた日、デボラは誰かが守ってやるべき女の子で、その立場にフリッツが立ちたいのだと、唐突に自覚してしまった。

 エリカに抱いている感情とは全く別の、経験したことのない強い感情に飲み込まれそうだった。

 否定して打ち消して、何でもないように振舞って。

 エリカなら強いから一人でも大丈夫だと、そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさした。


 実際エリカは強い。

 優秀すぎるくらい優秀で、もしかしたら伝説の聖女かもしれない彼女の隣に自分が立つことに、初めて恐怖した。フリッツは臆病な卑怯者だ。


 そんな自分を否定するようにある日、フリッツはエリカに激しく口づけた。

 いつもなら抱擁と、礼儀正しく軽い口づけしかしたことがないのに。

 第二子同士でも、長子と同じく扱われるにふさわしく恋人としての情熱をぶつけるべきではないと、きちんと付き合ってきたはずなのに。


 貪るように口づけたフリッツは、自身の内に渦巻く嵐が収まったとき、ふと目に入ったエリカの目にショックを受けた。彼女は明らかに傷ついていて、そんな姿を見ることが出来ずに逃げようとした。

「待って」

 背中に抱き着いたエリカの顔は見えなかったけれど、「大丈夫だから」と囁く彼女の声はどこまでも優しくて、罪悪感で気が狂いそうになる。

「いいのよ、フリッツ。大丈夫。それでいいの」

 すべてうまくいくから。大丈夫だから。

 そう繰り返す彼女の意図を、当時は何も気づかなかった。まさかフリッツの気持ちに気づかれているなんて、夢にも思わなかった。


 彼女を裏切れば、周囲はフリッツを許さないだろう。

 でも誰よりも、フリッツ自身が自分を許せないと思った。

 エリカのことが大事なのは本当なのに。どうして自分が愛したのがこの子じゃないんだ。


 それなのに、気付くとフリッツの横にはデボラがいた。

 同じように傷つき苦しみながらも、彼女がフリッツを愛してくれているという事実に震えた。

「フリッツ、デボラさん。私が悪役になるわよ」

 そういって艶やかな笑みを見せるエリカに巻き込まれるように、本当にすべてがうまくいってしまった。

「私はフリッツを兄みたいに思ってる」

 そしてデボラのことも同じくらい大事だと。


「年が明ければ、一年の間に色々なことが変わってしまうかもしれないの。だから私の側には誰もいないほうがいい」

 だからすべてが落ち着くまで連絡は取らないと、そう約束をしたエリカ。

 エリカなら本当にすべてうまくやると思っていた。

 たとえエアーリアが戻ってきたとしても、優雅に手を振って人々を魅了してしまうのだろうと。




 トムたちが言うには、記憶を失ったエリカはそんな「聖女エリカの自覚なしに育った場合の、素のエリカ」――なのだそうだ。

 事実、今のエリカに以前の威圧感のようなものは一切ない。

 目を惹くのは以前と同じだけれど、以前よりある意味大人っぽい。以前にはなかった匂い立つほどの色香と清純さが絶妙に融合していて、涙目で見上げられた時には目を見張らずにはいられなかった。

 自分が知っているエリカではない寂しさと、よく知っているエリカだという矛盾した感じ。

 自分が何か時間や空間を超えたような、説明できない不思議な感覚に陥った。


 その後化粧室に立ったエリカと、それを追いかけたアルバートに戸惑い、その後について行こうと提案したメラニーにさらに驚いた。

 でも何よりも驚いたのは、覗き見てしまった二人の姿にだ。



「やだもう。いっそ穴を掘って埋まりたい。ああでもここは天空だから、穴を掘ったら海に落ちちゃう? 私、泳げないのに?」


 フリッツ達に見られていたことを知ったエリカが、小声だけどそう言うのがはっきり聞こえた。その恥ずかしがっている姿が愛らしく、アルバートがそんなエリカを見てクスリと笑う。

「よく分からないけど、もしそんなことになったらすぐに助けに行くから」

 そのとろけそうな笑顔に、フリッツは目を瞬いた。

 あれは本当にアルバートなのだろうか?


 ――あんな顔、初めて見たぞ!


 長い付き合いの中で、十代後半からのアルバートは、お世辞にも表情豊かとはいえない男だった。彼と付き合う女性は何人も見てきたけれど、アルバートが彼女らに向ける笑顔も、少し斜に構えたようなものが多かったと思う。

 なのにさっきからエリカに向ける表情は衝撃の連続だ。どう見ても今のアルバートは、エリカに鼻の下を伸ばしてるようにしか見えない。


 ――トムは苦笑してるけどいいのか? 俺が口出せる立場じゃないけど。


 そんなことを考えていると、エリカがアルバートを見上げながら、ふと寂しそうな笑顔を浮かべた。

「やっぱり私にはもったいないかな……」

 その言葉と表情に、ズキリとフリッツの胸が痛む。


『大丈夫よ、フリッツ。私、絶対あなたに恥をかかせないって約束するから』

 常々そう言っては、時折見せていた笑顔。

 私はエリカらしくあり続けるから。

 そう言い続けていた彼女にふいに手を伸ばしたくなったが、実際彼女に触れたのはアルバートだった。


「だからそれ止めろって」

 呆れたようにエリカの頬を軽くつねる真似をして、アルバートは親指で彼女の頬を撫でる。

「ああもう、早く指輪作ろう。中途半端だから駄目なんだ。いっそ首から俺のものだと看板下げておきたいくらいだ。いや、逆のほうがいいのか?」

 その少し不貞腐れたようなアルバートの声に、彼が確実にエリカに想いを寄せていることを確信して、ポカンとする。俺のものだって?


 エリカに想いを寄せる男は今までにもたくさん現れた。

 自分に乗り換えないかと言う男さえ何人もいた。

 あの潤んだような澄んだ目を間近で見つめたい、自分だけに微笑みかけられたいと願う男は後を絶たなかったけれど、アルバートだけはいつも呆れたように肩をすくめるだけだった。

 フリッツも大変だな、と。

 あれが妹や婚約者でなくてよかったと。

 確実にあれはアルバートの本心だったはず。


 アルバートはエリカが少し苦手だったのか、常に一定の距離を開けるようにしていた。『何を考えてるのかよく分からない』とエリカのことを言っていたけれど、フリッツからすれば苦笑するしかない。エリカは素の顔をほとんど外に見せなかったから。そんな姿を知ってるのは、フリッツを含めたほんの一握りだった。


 その素の姿を今のエリカは、トムやアルバートの前でも見せている。

 それは彼女の記憶が消えたせいだろう。

 それがアルバートを変えたのか?

 あまりにも見慣れない風景に、どうも脳みそが考えることを放棄しかけている。




 自分が言えた義理ではないが、フリッツはエリカに幸せになってもらいたいと願っている。

 もし彼女を傷つけるなら、それがアルバートであっても許せないと思った。

「トム。あれは本当にアルなのか?」

 食事中ずっと我慢していた疑問をトムに問うと、エリカが「えっ、そっち?」と驚いたような声を上げ、トムがククッと笑った。


「ああ。信じられないだろうが、間違いなく我らが友、ダン・アルバート本人だよ」

 しかし、フリッツは信じられないと言うように首を振った。

「だって、デレデレしてるぞ。あの、アルが、女の子相手に」

 しかもエリカ相手に?

 見たこともないような甘やかな視線で?


「してるな。あの二人だといつものことだけどな」

「いやいやいや、いつもじゃないだろう? ええ?」

 普段女の前にいるときのアルバートはもっとこう、余裕があってかっこつけた感じだったじゃないか。こんな一途な目を女の子に向けるところなんて、絶対想像できなかった。記憶がないエリカよりも信じられない。


「うるせーよ」

 ニセモノ扱いされたアルバートは、少し耳を赤くしてエリカの肩を抱きながらトムたちを軽く睨む。

「逃がさないように必死なんだよ、ほっとけよ」


 ――本当にどうなってるんだ?

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