49.兄たちと(2)

 萌香がわざと黙ったままジッと見ていると、トムが何かフォローしようとするので片手をあげて止める。

「別に嫌いでもいいんです」

「え?」

「絵梨花を嫌いでも、アルバートさんは私を助けてくれましたし、嫌な態度も取らないですし。ちゃんとお兄さんみたいだと思います」

 実際大人だな、と思う。昼間あれだけ迷惑をかけたのに、彼は嫌な顔一つ見せていない。直後に萌香のために手鏡を買ってくれるなど、相手に気を使わせない心遣いがサラリとできる男性だ。絵梨花がアルバートも兄のように慕っていたのなら、基本二人は仲が良かったのだろう。


「でもどこが嫌いなのか教えてくれたら、なおせるところもあるかもしれませんよ?」

 萌香を嫌いなら、恩人に初対面で嫌われるのはかなり悲しい。だが、彼が昼間『萌香のほうがいい』と言ったのは、記憶がなくてもいいという意味ではなく、萌香に絵梨花の嫌だった部分がないという意味だったのだろう。


「嫌ってなんかいない。ただ、エリカは……何を考えているのかよく分からなかったからな……」

 言う気がなかったのか、ポツリとこぼれたアルバートの声はとても小さかった。

 だが萌香が今日見つけた手紙のことを思い出すと、あれを書いたのが本当に絵梨花だったと考えると、

 ――私もそう思う……

 と、同情をもって深く頷くことしかできない。奇妙な仲間意識が、萌香の心にムクムクと湧き出してきた。


「その点萌香の人格だと、そういうことがないから可愛いなと……」

 酔っているのか、さりげなくアルバートから可愛いと言われたことに、萌香は思わず吹き出しそうになった。

 いや、女の子としてなら頬を染めるべきところかもしれない。だが今の言葉は、生意気な妹が可愛げのある妹に変わったという意味にしか聞こえないし、十中八九間違いないだろう。異性に対する色のようなものが欠片もないのだ。

 トムも同じことを感じたのだろう。少し呆れたような表情だ。

 結局二人の前では萌香らしくいればいいとのありがたい言葉を貰った。


 その上で、萌香は結婚についてどう考えているのか聞かれた。

 絵梨花は婚約解消の後、大叔母の屋敷でひっそり暮らしたかったらしい。だが実際はイチジョーの屋敷に引きこもり、あちらにはあまり行ってなかったという。だが二十歳になれば、屋敷は絵梨花に譲られる予定だということに萌香は少しだけ驚き、それについて考え込んだ。

「誰もそんなことは教えてくれませんでした。立ち入り禁止だと言われたので、門の中も見たことがありません」

 知っていたら、ゲイルたちに見せてあげることもできただろう。きっと喜んだに違いない。


「絵梨花は、誰とも結婚したくなかったのでしょうか」

「そうかもしれないな」

 兄夫婦がイチジョーを継いだ後も、絵梨花には自分の家がある。それは、絵梨花を見つける時間の猶予がさらに増えたということだと萌香は考えた。


「お兄様たちは、どうして色々と教えて下さるんですか?」

 誰も教えてくれなかったこと、メイドたちの噂話でさえ耳にすることがなかったことを考えると、おそらく口止めされていたと考るのが自然だろう。それは兄も例外ではないはずだ。だがトムはアルバートと一瞬顔を見合わせると一つ頷いて、

「エリカには全部打ち明けておいた方が、逆に安心だと思ったからだよ」

 と言った。

「安心?」

「そう。おまえは事故の前まで、なんでも一人で考えて行動していたから、何をやらかすかわからなかった」

「そ、そうなんですね」

 少し咎めるようなトムたちの視線に、萌香は少しだけ身を縮こませる。


「でも今のエリカは何も知らないだろう。父上たちはお前を普通の女の子の生活に戻すため、色々隠している。知らないほうがエリカのためだと。でも俺は今日お前と話した上で、知ったほうがいいと思ったんだ。だからおまえが知りたいことは何でも教えようと思った」

 トムの真剣なまなざしと、それに同調するようなアルバートが深く頷くのを見て、萌香は感謝を込めて頷く。

 とてもありがたいと思った。

「だからな、おまえも隠さないでくれ。どんな荒唐無稽なことだって、絶対に聞くから。笑ったり怒ったりなんて絶対しないと約束する」

「お兄様……」

「おまえが忘れていても、本質は変わらないと思ってるよ。だから心配なんだ。知らないでいることで、しなくていい危険をおかさないかと。頼むから、もう一人で動かないと約束してほしい」


 その訴えに、絵梨花の行動が彼を傷つけていたことを痛感する。

 萌香がしたことではないと思うが、実際にはどうだかわからない。

 ただ、妹の身を案じ、真剣に考えてくれるその姿に胸打たれ、萌香は自身の胸元をぎゅっと握りしめた。

「もしかしたら私が、絵梨花とは違う人かもしれなくても?」

 思わずこぼれた言葉に、トムは少し微笑んだ。

「おまえが自分をエリカだと思えなくても、俺はお前をエリカだと思ってるんだ。萌香だと言うなら、それでも構わないよ。受け入れる。おまえは俺の、ただ一人の妹だ」

 だから約束してくれるね?

 そう言ったトムに、萌香は深く頷いた。

「約束、します」


 そして萌香は少し頭を整理しながら、今の自分の考えを告げた。

 自分は就職を考えていること、そのために今勉強していること。

「だが……」

「私は、自分が絵梨花なのかそうでないのか確信が持てないまま、誰かと結婚することなどできないです。もし私が絵梨花ではなくて、本物の絵梨花が戻ってきたら困りますよ?」

 真剣な話だが、萌香を絵梨花だと思っている二人の顔は微妙だ。そこで、フィンセントから聞いた記憶喪失説を説明する。

 もし絵梨花の記憶が戻った場合、忘れていた間のことはすべて忘れてしまう可能性が高いのだ、と。

「ああ、気が付いたら見知らぬ相手が夫だった――みたいなことになってる可能性があるってことか。それはぞっとしないな」

「萌香の人格ままでいられた方が平和だろうけどなぁ」

 主に俺にとって――と、アルバートの声にならない主張が聞こえた気がするが、萌香はただ微笑むにとどめておいた。よほど絵梨花が苦手だったことが分かるボヤキ具合にトムが眉をしかめているが、萌香としては理由がわかった分、素直で可愛いものだと思う。


「お父様は結婚をお望みのようですが、お母様には働きながら、対外的には理想の相手を探していることにすればいいと言われています」

「母がそんなことを?」

「はい」

 トムは意外そうな顔をしたが、この一月半萌香のそばで萌香自身を見ていたのはイナだ。萌香を新しく生まれ直した娘として、彼女なりに色々考え苦しんだであろうことを萌香は知っている。


「お兄様の婚約者も、あと何年かは働くんですよね。こちらには遊びにいらっしゃらないのですか?」

 話の矛先を変えると、トムは婚約者のことを思い出したのか、ふわりと柔らかく微笑んだ。

「メラニーに会いたいかい?」

「絵梨花とは面識があるんですか?」

「もちろんある。今回はおまえに気を使ってこちらには来ない予定だったが、もし会いたいなら呼ぶよ」

「ご迷惑では無ければ是非」

 トムはどうやら婚約者にベタ惚れらしい。萌香は、働く若い女性の先輩としての話も聞きたいと思っていたが、デレデレしたトムを見るのも楽しそうだと思った。


「顔色が悪くなってきたな。そろそろ休んだ方がいいんじゃないか?」

 もっと話していたかったが、萌香の疲れに気づいたのはアルバートだ。

 体力が回復しきっていないので、日本にいたときに比べて無理がきかない自覚がある萌香は素直にうなずき、兄たちにいとまを告げた。


 実際部屋に戻ったときにはベッドに倒れ込みたいほどの疲労感に襲われ、無理をしたことを少しだけ反省した。


  ◆


「目の下にクマが出来てる。コンシーラーがほしいけど、代わりになるものはあったかな」

 顔色をよくしておかないと、今日の茶会を見ることもかなわなくなる。

 ちょうど入ってきたメイドに蒸しタオルを貰い、萌香は念入りに身支度を整えることにした。

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