30.婚約解消⁈①(アルバート視点)
約七か月前。
その日、大事な話があるとクロス・フリッツに呼び出されたのは時間制貸出の個室だった。ちょっとした外部での会議で使うような机やいすがある程度の部屋だが、たまに友人同士で酒類抜きのカードゲームなどの社交場として使うこともある。
そこでフリッツはアルバートたちに、エリカとの婚約を解消すると言ったのだ。しかも、愛している人がほかにできのだ、と。
あのまじめなフリッツが、婚約者がいる身にもかかわらず他の女性に心変わりをした!
それはアルバートにはもちろん、エリカの兄であるトムにも大きな衝撃を与えた。
「まさか、だろ? 嘘だよな?」
普段穏やかな笑顔を絶やさないトムが蒼白になり、フリッツの襟をつかんだくらいだ。だがフリッツは「いや、本当だ」と短く答えた。
もうすぐ十八歳の誕生日を迎えるエリカは、誰が見ても美しいと言える女性に成長していた。そのエリカの婚約者であるフリッツが、どれだけ羨まれ妬まれたか、彼女を苦手なアルバートでさえ知っている。
エリカに何か非があったのかとトムが尋ねるのも当然のことだろう。だがフリッツはそうではないと否定した。そんなことはありえないのだ、と。
「じゃあ、なぜ! エリカはどうなるんだ? 十年! 十年だぞ! それだけの間婚約してきて、さあこれから結婚の準備に入るってときに、お前何考えてるんだ!」
温厚なトムがブルブルと震えている。殴るのを我慢するので精一杯なのだ。
エリカたちの婚約は元々フリッツの親族から持ち込まれた縁談だったという。エリカに非があったというならともかく、申し込んだ側からの婚約解消するなど本来有り得ない事態だ。本人たちの意志は二の次だったとは言え、フリッツも納得していたはずだ、と!
だがフリッツは、ただ「すまない」と繰り返すだけ。
そして重い沈黙が落ちる。
貸し切りにした部屋の時計の音が、やけに大きく響いていた。
それを打ち破ったのは軽やかなノックの音だった。ルームサービスも頼んでいない上、まだ制限時間内。いったい誰だと始めは無視していたものの、
「エリカです、開けて下さい」
とエリカの落ち着いた声が聞こえ、慌ててフリッツがドアに駆け寄った。
「エリカ、どうしてここに」
「まずは入れて下さいます?」
細く開いたドアの隙間から、少し呆れたようなエリカの声が聞こえたかと思うと、彼女はフリッツを押しのけるようにして部屋に入ってきた。しかも、その後ろにはなぜかエリカの先輩であり友人でもあるモリ・デボラと、ルームサービスの茶のセットを乗せたワゴンを押したメイドを連れて。
「エリカ」
トムはエリカの名前を呼んだものの、何を言ってよいのか分からなかったようで、そのまま黙り込む。彼女がどこまで把握しているのかわからないため、下手なことが言えないのだろう。
まだ何も知らないなら絶対に聞かせたくない。妹を傷つけないよう、何もなかったようにしておきたい。トムならそう考えるはずだ。
エリカは軽く周りを見回し、苦笑いのようなものを浮かべると、
「皆さん、とりあえず座りましょうか」
と、女主人よろしく全員をローテーブル側のソファーに誘導した。彼女はテーブルの長辺の片側にアルバートとトムが横並びに座らせ、その正面にフリッツとデボラを座らせる。そしてエリカはテーブルの短辺側の背もたれのないスツールに一人で座った。
それに対してトムが何か言おうとしたが、エリカは
「これでいいのよ、お兄様」
とニコリと笑った。
その笑顔に、アルバートはいつものような落ち着かない気分になる。エリカは心の奥底では一体何を考えているんだ? と、思わずにはいられないからだ。
いつもなら周りに笑い飛ばされることだが、今日に限ってはトムも同じことを感じているに違いないと、アルバートは半ば確信していた。
メイドが全員分の茶を淹れて出ていくと、エリカはそれを一口飲んでホッと息をつく。そしてカップを皿に置くと、首を傾げるようにしてフリッツを見た。
「フリッツ、お兄様たちに話したの?」
「ああ、話した」
「そう」
そしてアルバートとトムを見て柔らかく微笑む。それはドキリとするような大人びた笑みで、アルバートは奇妙に胸がざわめき、心の中で眉根を寄せた。
「お兄様。フリッツからお聞きになった通り、わたくし達は婚約を解消します」
まるで「今日はいい天気ですわね」とでも言うような軽い口調で話すエリカに、トムは目を見開いて「どういうことだ!」と怒鳴る。
彼が妹に大声を上げたところなど見たことがないアルバートとフリッツは驚いた。だが怒鳴られた当のエリカはどこ吹く風だ。
「どういうことも何も、そのままの意味よ。フリッツはデボラさんと愛し合ってるの。――あらやだ。フリッツ、まだそこまで話してなかったの?」
相手の名前を伏せていたフリッツは申し訳なさそうに目を伏せ、そんな彼をデボラは気遣うように見つめる。
「エリカ、お前」
「お兄様、今お話ししますから、最後までそのお口を閉じていていただけますか?」
わなわなと震えるトムを遮り、エリカはフリッツに仕方のない子とでも言いたげな視線を向けて、小さく息をついた。
「デボラさんのことはご存知よね? わたくしがラピュータでの学園生活で三年間同室だった
その言葉にトムは頷いて見せる。
デボラはエリカより二歳年上の二十歳だ。ラピュータで十二歳から五年間過ごした学園の寮では、
子を受け持った母生徒は、母として子である年下の生徒の面倒をみるのだが、デボラはエリカの「
デボラは艶やかな栗色の髪と同色の瞳がおとなしい印象の女性だ。少しふっくらとした体形に似合う柔らかい空気感を持っていて、けっして自己主張しないであろうおとなしやかさが見て取れる。
フリッツを心配そうに見つめる姿には確かに彼への愛を感じられるが、それだけにデボラが自分の「
「お兄様には話したことがあると思うのだけど、デボラさんは十六歳の時に婚約者を亡くされています。まあ、相手の方はご高齢でしたし、おかしなことでもないですけど」
肩をすくめるエリカに、デボラは「コラ」とでもいうような視線を向け、それにエリカは素直に謝った。
デボラの亡くなった婚約者は、亡くなった時七十歳だったそうだ。ずいぶんな年齢差ではあるが、政略結婚なら珍しい話ではない。生まれる前からの約束であったものの、彼女は三人目の妻の予定だったという男の名前を聞き、たしかその男には内縁の妻が複数いたことをアルバートは思い出した。
「デボラさんとフリッツはわたくしを通して古くからの友人ですけれど、恋に落ちたのは一か月ほど前、ですわね?」
確認するエリカにフリッツたちが頷き、再びトムが口を開こうとするのをエリカが目線だけで制する。
「きっかけは……どうでもいいことですから割愛します。とにかく二人が恋に落ちるのは必然だったと、わたくしは確信しています。ただそれが、せめてもう少し早ければと、それだけが残念なのですけど」
心底残念そうにエリカは頬に片手を当て、ほおっと悩まし気に吐息をつく。それでも結婚前でよかったわ、と。
エリカとフリッツはうまくいっているように見えた。だがそうではなかったのだろうかと、アルバートは心の中で首を傾げる。自分には婚約者がいないからわからないが、つい先日までフリッツがエリカを見る目は恋する男のもののように見えたし、彼を見るエリカの目にも愛情を感じられたように思う。いや、エリカに関しては今もそれは変わらないように見えるのだが……。
しかし次に発せられた言葉に、アルバートは思わず飲みかけた茶を吹くところだった。
「だからフリッツに言ったのよ? 一番簡単なのは来月のわたくしの誕生会で、「イチジョー・エリカ! お前のような性悪な女とは、この場をもって婚約を破棄する」と言いなさいって」
「エリカ!」
フリッツは慌ててエリカの言葉を止め、デボラはオロオロし、アルバートは盛大にむせ、トムは「はあ?」っと言ったまま硬直してしまった。
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