28.ノート

 侍女と共に何度も手を振りながら帰っていくゲイルとミアを見送り、その姿が見えなくなるとエリカ・・・はそっと息をついた。目を閉じ、体のずっと奥のほうに沈めていた萌香の自我を浮上させ、エリカの仮面を薄くする。


 演技をしているときは、どこか違うところから舞台を見ているような感覚になる。それは自分の体でありながら違う人物であり、違う人格だ。ミアには、萌香のことがきちんとエリカに見えていただろうか? 憧れていたエリカじゃないなんて思われていないといい。あんなにキラキラした目をした女の子を失望させたくはないと思い、萌香は殊更慎重に「エリカ」の仮面を付けたのだから。


「あの、お嬢様……」

 ゆっくり萌香が目を開けると、ハンスがおずおずと声をかけてくる。

「なに? ハンス」

 何か失敗しただろうかと少し不安になると、ハンスは目を大きく見開いたまま、何か期待するような表情になる。

「もしかして、何か思いだされたのですか?」

「……そう見えましたか?」

 つい敬語になってしまったが、ハンスは気付いてないようで、興奮したように身を乗り出した。

「はい!」


「ハンスは、事故前の私のことを知っていたの?」

「はい。あ、といっても、いつも遠くから見たことがあるってだけなんですけど」

 少し照れたようににっこり笑うハンス。

 萌香がベニの方を見ると、彼女は目を丸くしながら「少し驚きました」と言った。

「いつものお嬢様とは、なにか雰囲気が違ってました。ミア様とお話をして、何か思いだされましたか?」

 二人の言葉に、萌香はエリカの立ち居振る舞いがうまくいったことを感じ、心の中でホッとする。


「残念ながら何も。ただ、ミアさんをがっかりさせたくなかったから、ちょっと頑張ってみたの」

 正直に打ち明けた萌香に、もしかしたら二人は少しがっかりしたのかもしれない。だが二人はそんな様子はおくびもみせずに、そうでしたかと頷く。

「覚えていなくても、体が何かを覚えてるのでしょうね」


  ◆


 ミアと別れてからも、萌香たちは少しだけマーケットを散策してから屋敷に戻った。だが萌香は自分で考えている以上に無理をしてしまったようで、部屋に戻るころには顔色が悪いとベニに叱られてしまった。

「ちょっと無理をしすぎましたね。お夕食の時間までゆっくり休んでください」

 自分がついていながらとベニが少し落ち込んでいるので、萌香は申し訳なくなる。

「ベニとお出かけできて、とても楽しかったのよ。ついわがままが過ぎたわ。ごめんなさい」

 萌香がしゅんとすると、ベニは優しく笑った。

「私も楽しかったです」

「本当?」

「ええ、もちろん。内緒ですけど、少し仕事を忘れてました」

 ベニがこそっと秘密を打ち明ける口調で笑う。だが、それは萌香への気づかいだと分かるため、萌香もいたずらを共有したものの顔でくすりと笑った。


 部屋に一人になると、萌香はライティングデスクの椅子に腰を掛ける。

 そして、まだ物がほとんど入っていない抽斗を開け、数冊のノートを取り出した。今朝イナにもらったものだ。萌香が普段日本で使っていたノートとは質感が違う。どちらかと言えば和紙に近いノートだった。


 本当はエリカが使っていたノートも欲しかったのだが、なぜか一冊も見つからず、かわりにまっさらなノートをもらった。これから学ばなければならないことがたくさんあるし、字も練習しなければいけないと思いねだったのだが、

「なんで私、エムーアの字が書けるのかなぁ」


 ペンでさらっとイチジョー・エリカと書いた萌香は、ふっと苦笑いした。

 読めるのだから書けて当たり前なのかもしれない。だが、

「恵里萌香、と。日本語も忘れてないわ」

 漢字でも問題なく名前が書けることを確認する。


 ペンは万年筆のようなものが主流らしい。はじめて使うため、はじめはインクが出すぎないよう力加減に気を使ったが、物がいいらしく軽い書き心地で字を書くのが楽だ。


 少し考えて、ノートにはあえてエムーアの文字を使うことにした。

 日本語を見られても、ほぼ間違いなく誰にも読めないだろうから、日記を書くならちょうどいいのかもしれない。だが、万が一誰かに見られた時面倒そうな気がする。自分がエリカではない証明になるならいいが、エムーアの文字の読み書きまで問題ないとなると、覚えていないだけでやっぱり自分がエリカなのかとも思うし……

「だめだ。堂々巡りになっちゃう」


 ふうっと息をつき、ミアと会ったときのことを考える。

 どことなくヘレンを彷彿させる少女だったと、萌香はクスッと笑った。

 ヘレンを思い出したせいで、一瞬だけホームシックにかかりそうになるが、意志の力で押し込める。

 ミアの希望は問題ないとのことで、ホテルの方へ承諾の連絡をしてもらった。彼女が言っていたのは、来週行われるお茶会の実習のことだったのだ。お客様を招いて実践をするティーパーティーは、イチジョーの学生たちの卒業試験にあたるらしい。


「エリカは、将来をどう考えていたんだろう」

 萌香はノートに将来と書く。

 もちろん二十歳までに嫁ぐつもりだったはずだ。だが、婚約破棄されたからそれは白紙になった。

 半年も引きこもったうえ、どこかに行こうとしていたエリカ。どこに行こうとしていたのかは誰も分からない。誰にも打ち明けてなかったそうだし、日記一つメモ一つ残っていないからだ。


「結婚はなし」

 ノートに結婚と書きバツを付ける。

 エリカの代わりに結婚するのは、さすがに問題だろう。そもそも萌香にとって結婚なんて、夢よりも遠い蜃気楼のようなものだ。政略結婚でもないかぎり、自分には全く縁のないものと言える。イナの話から考えると、とりあえず、おそらく、政略結婚はないはずだ。元婚約者は条件のいい人と結婚するらしいが、まあ、何か事情もあったのだろう。元気になった今なら、全くの他人として(実際他人だし)、そのあたりの事情をエリカの元婚約者本人から聞いてみたい気もしていた。

 あんな愛おしそうにエリカを見てた人から突然婚約破棄された時、エリカがどう思ったのかも気になる。だが今は、その時の彼の考えを知りたいと、そちらのほうが気になり始めていたのだ。

 婚約破棄の経緯がどんな展開だったのかまでは、さすがに誰も教えてくれない。実際誰も知らないのかもしれない。だが萌香の頭には、ふと思い出してしまった悪役令嬢ものの婚約破棄の場面が浮かんでしまい、エリカが誰かに悪いことをしてないといいな、などという心配もしていたからだ。


「ま、そのあたりも、もしかしたら新聞でわかるかもしれないよね」

 ファンクラブの会報では悪口は書かれてないと思うものの、客観的な記事が多いといいと思うのだ。


 ――イチジョー・エリカが悪役令嬢ではありませんように。

 萌香は、わりと本気でそう祈った。


「それはさておき、必然的に選択肢は就職、よね」


 エムーアでは第一子が跡を継ぐということだし、エリカには兄がいる。

「お兄さんが結婚したら、こちらの学園はその奥さんが引き継ぐんだよね」

 イチジョーを継いだイナの夫が、新たにラピュータで上級学院を開いたように、夫婦で協力して盛り立てていくはずだ。

 来週の卒業試験には、父の兄も帰ってくるという。兄とは初対面だと考え、そういえば兄の呼び方は何なのだろうと頭をひねった。

 父がおととさま、母がおかかさま。兄は……

「おににさま? まさかね。兄上様とか、お兄様かしら」

 これは後で聞いてみようと頭の隅にメモをする。小説ではお兄様が一般的だったが、エリカがそう呼んでいたとは限らないからだ。


「働くことを考えると、やっぱりイチジョーの中を見たほうがよさそうよね」

 ある意味就職に強い専門学校が自宅なのだから、学ばない手はないだろう。イナの手伝いをしつつ、学生と共に学べるか聞いてみようか。

 それと同時に、エリカが学んできたものも知っておきたい。


 いくつかメモをし、今度は違うノートを開いた。


 今日は初めて屋敷の外に行った。見るものすべてが新鮮で驚きの連続だったが、気になることもあった。それは日本人的感覚のせいかもしれないが、

「これはメモしておいて、あとでお母様に相談してみようかな」

 そう考え、萌香はノートに気づいたことや考えたことを書き綴っていった。

 聞くだけ、話してみるだけならタダだ。


 夢中で書き綴るうちに、少し部屋が薄暗くなってきた。

 ふと、目の端で何か動いたような気がして、萌香はそちらを見てみた。美しいドレッサーが目に入り、つい笑みがこぼれる。


「鏡に何か反射したのかな……?」


 自分以外誰もいない部屋だ。鳥か何かが鏡に何か映ったのだろう。

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