星刻の鍵

十九．真相は記憶の海へ

　事の起こりは六日前。

　出国前に会っておきたい旧知がいて、あの詰め所を訪れた。

　帰ろうとした矢先に尋問を受けているルティリスを見掛け、放っておけずに身柄を引き受けたのだ。その際、保証のつもりで出した家名が、足取りを追う手掛かりになったのだろう。

　そういえば、ルティリスが尋問を受ける切っ掛けになった襲撃者。あれは聖地からの追っ手だったのだろうか、それとも――……。

　思考が逸（そ）れそうになるのに気づき、考えるのをやめる。可能性だけなら幾らでもあり得るし、調査するにも日が経ちすぎている。誰が差し向けたにせよ、再襲撃の可能性は心配しなくていい気がするのだ。

　森での野宿、守護獣の襲撃と戦闘。説明のため思い起こすだけでも、動悸（どうき）がして息が苦しい。

　視界が暗いせいか、向かいで聞いているユイスの顔色が悪いように見える。時々起きる過呼吸の発作だと気づいた途端、隣に座るルウィーニに肩を強く叩かれた。

　思わず見れば、自分を見つめる紅玉（ルビー）の目。

　相応の年を重ねた髭面（ひげづら）に柔和な笑みを浮かべ、ルウィーニは何も言わずにうなずく。それだけで、少し息苦しさが緩和（かんわ）された気がした。

　改めて顔を上げれば、ユイスの顔は傍目（はため）にも判るほど青ざめていて、傍らの娘に腕を回し強く抱きしめていた。

　愛娘が命に関わる危険にさらされたことを知らされたのだ、当然の反応だろう。もっと巧（うま）く説明できれば良かったのだろうけど、そんな余裕がない自分の精神状態が申し訳なく、ロッシェは震える息を吐き出しながら目を閉じる。

　わずかな沈黙の間に思考を巡らせ、話は雨の中の出会いへ。

　リト、と言う名前は伏せた。十中八九偽名あるいは略称だろうし、彼の身分についても心当たりがなくはないが、証拠があるわけでもない。

　魔族（ジェマ）の魔術師（ウィザード）、とだけ告げる。必要であれば、ルティリス本人が後から自分で話すだろう。

　伏せっていた間のことは、あまりよく思い出せない。ルティリスが心配してずっとついていてくれたことは、覚えている。

　鍵についてのやりとりと、彼の目的。閉塞（へいそく）された状況が一転したのは、ルベルとセロアが訪ねてきてからだ。

　事実上の解放。それでも彼に同行したのは、ルティリスが心配だったのと、彼の目的を見届けたかったからだった。

　勝算がほとんど見込めない守護獣との再戦。ルベルに、リトに、そしてルティリスに助けられた。

　聖域で会った、世界樹（ユグドラシル）と願い星（ラヴェール）。

　時々乱れる呼吸に発声を邪魔され時間を要するロッシェの話を、ユイスはじっと聞いていた。

　折々に質問を挟むこともあったが、声を荒げたりすることはなかった。

　そうしてようやく長い話が終わると、ルティリスが傍らの父を見上げて囁（ささや）くように言った。

「お父さん。わたし、いいつけ破っちゃった」

　おそらく、守護獣に弓を射かけた時のことだろう。あのお陰で自分は隙を見出し、勝利を収めることができたのだけれど。

　果たしてユイスは、不安そうに耳と眉を下げて見上げる娘を愛おしそうに見返し、優しく頭をなでて抱き寄せた。

　低い声が語るのは、優しい肯定（こうてい）の言葉。

「ああ、解ってるよ。ルティリス、よく頑張ったね」

「……うんっ」

　彼女に戦闘参加を促したのは、恐らくルベルかセロアだ。

　これでルティリスが叱られるようなことになったらどうしようかと心配していただけに、ロッシェはほっと胸をなで下ろす。

　そうして、自分を見るユイスの視線に気がついた。

「辛いことを話してくださり、感謝します。大体の状況を知ることができ、助かりました。後は帰宅してから娘にもゆっくり事情は聞きますが――…」

　彼は立ち上がり、ロッシェの方へ身体を向けてゆっくり深く頭を下げた。

「娘を守ってくださり、本当にありがとうございました。このご恩を、私も妻も生涯忘れることはないでしょう」

「随分（ずいぶん）と大変なことになっていたようだね」

　二人が帰った応接室で二杯目のコーヒーを飲みながら、ルウィーニが言った。

　ルベルは学院の旧知と会っているらしく、セロアは図書室に籠（こ）もっている。彼と二人きりで話すのはもうずいぶん久し振りだ、と思いながら、ロッシェは冷め切ったコーヒーを眺めてぽつんと呟く。

「煩（うるさ）いルウィーニ」

　途端、盛大に吹き出された。

「悪態つける元気があるなら安心だ、ロッシェ。これでも俺は、きみのことを心配していたんだよ」

「ご免（めん）」

　消え入るように応（こた）えられた台詞が意外だったのだろう、ルウィーニが目を瞠（みは）る。

　うつむくロッシェを彼はしばし眺めていたが、不意に腕を上げて肩に乗せ、軽く数度叩いて言った。

「謝ることはないさ。それできみの気が済むなら、ともかくも。きみには被害者意識が足りなさすぎるよ。ユイス氏だって、きみを責めたりはしなかっただろう？」

　慰めの言葉がいかにも彼らしく思えて、ロッシェは何を言っていいか解らず曖昧（あいまい）に笑う。

　誰が加害者で誰が被害者だとかいう思考は苦手だ。昔はそうでもなかったように思うが、ここ数年ずっと自分のことだけを考えて生きてきたからかもしれない。

「それにしても、きみはその魔族（ジェマ）が誰か見当が付いているんじゃないのかい？　いくら本名を名乗らなかったにしても、【制約（ギアス）】や【隠蔽（カモフラージュ）】の魔術具（マジックツール）を作成できる人物なんて……ティスティルでも限られているだろう」

　ロッシェは一度瞬き、うなずく。

　リト、という名前でははじめ思い出せなかった。確信したのは二度目の夜、手錠を調べた時だ。素材に使われていた結晶石という鉱物は、魔力との親和性が高いが加工が難しく、扱える機関も限られてくるのだ。

「リトアーユ=エル=ウィントン」

　確かめるように呟いた名前を聞いて、ルウィーニの目が少し険しくなる。

「ティスティル王立魔術具（マジックツール）開発部の所長じゃないか。ロッシェ、きみが望むなら俺はこの件を女王に伝えることもできるが？」

　穏やかな口調ながらも台詞の中身は結構不穏だ。

　そうなった時にリトが被（こうむ）るであろう処遇を思い浮かべ、ロッシェは小さく笑って首を振る。

「いや、いいんだ。最初はともかく、彼の目的に付き合うと決めたのは、僕自身だからさ」

「そうかい。……きみがそう言うなら仕方ないが、俺としてはこのまま無かったことにするのは、随分（ずいぶん）と癪（しゃく）に障（さわ）るがなぁ」

　ルウィーニはきっと、怒ってくれているのだ。

　彼が自分に対して行なった仕打ちと、そのすべてに対し何も償われていない現状は、彼が持つ倫理観からすれば許しがたいのかもしれない。

「それなら、灼虎（しゃっこ）君を連れて彼に会ってくればいいさ。てか、あの様子からしてやる気なんだろ？　灼虎君（かれ）は」

　自分を激しく叱り飛ばした、炎の虎精霊。

　下手な人間（フェルヴァー）より人間（ひと）臭い彼なら、自分には語れない道理や道徳といったものを彼に言ってやってくれるに違いない。

　そしてきっと彼には、そういう当たり前の道義を当たり前に説いてくれる存在が必要なのだろう、となんとなく思う。

「ああ、そうだね、そうしようか。ゼオを連れて行けば、護衛にもなるしね」

　提案がお気に召したのか、ルウィーニは楽しげに言って口もとに笑みを浮かべた。それを確認し、ロッシェは立ち上がる。

「僕はそろそろ行くよ。今回は色々ありがとう、ルウィーニ。感謝してる」

「珍しく素直じゃないかい。何、俺にできることくらい任されてあげるから、きみたちはちゃんと旅を楽しんできなさい」

　まるで父親みたいな言い方がおかしくて、ロッシェは表情を緩（ゆる）める。いつもの皮肉も今日だけはやめておこうと思う。

　ルベルに戦い方を教えたのは、魔法の使い方という技術的なことだけでなく、怯えることない勇気と仲間を見捨てない優しさを教えたのは、彼なのだ。

　それは決して当たり前のことではないから。

「ああ。そうするよ」

　感謝の気持ちを込めてそう応じたら、年嵩（としかさ）の魔術師は満足したように頬を緩（ゆる）め、うなずいた。