38.こ、こんなの……あ、頭がおかしくなるぅ……

 眠りにつく前に絶えず聞こえていた暴風や雷の音は、今はもう聞こえない。

 嵐が止んだ静けさの中、薄っすらとした闇に溶けるようなアモルの息遣いだけが嫌に耳に届く。


 え、え、え。待って待って……本当に私夜這いされてるの……?

 な、なんで? アモル、もう改心してくれたはずじゃ……。


 ……あ、いや……そういえば……。

 最初にアモルに魔眼を使われた時も、アモルは「お礼」と言って私にえっちなことをしようとしてきた。

 いわく、気持ちいいことは良いことだから、気持ちいいって呼ぶんでしょ、と……。

 まるで人が人に贈り物をするように、それが本当にお礼になるのだと信じ切って。

 あの時はシィナが助けてくれたことで有耶無耶になったけど……そうだ。

 そういえばまだ、アモルにちゃんとした人間社会の常識を教えていなかったような気が……。


 つまり、アモルはまだ、私を気持ちよくすることがお礼になると思ってる……?


 …………や、やばいのでは?


「……ふふ」


 緊張しているのか、はたまたこれから自分がする行為に高揚を感じているのか、少し熱がこもったアモルの吐息が、ゆっくりと私の肌を撫でていく。

 まるで私に自分の匂いをつけるかのように。


「ア、モルっ……」


 すぐにアモルにやめるよう言い聞かせなくてはいけないとわかってはいた。

 わかっていたはずなのに、あまりに唐突な出来事に思考ばかりが先走って、実際に静止の声を上げるのが遅れてしまっていた。


「んっ、ぅ……!」


 アモルの吐息が首元にまで達し、そっと触れられるようなくすぐったさから、私はたまらず瞼をぎゅっと閉じる。

 そしてそんなくすぐったさが収まり、次に瞼を開けた時には、目と鼻の先にアモルの顔があった。


「ふふ。お姉ちゃん……」

「っ……!?」


 今度こそ「やめなさい」と言わなきゃいけなかったのに、言うつもりだったのに。

 誘うようなアモルの表情を間近で見て、私は言葉に詰まってしまった。


 朱に染まった頬。美味しそうな桜色の唇が、艶やかに弧を描く。

 ほぅ、と漏れる熱のこもった彼女の吐息が私の頬を撫でると、ドクンと心臓が大きく高鳴った。


 あ、あれ……? な、なんだこの感じ。

 なんか急に顔が熱くなってきた。心なしか胸もドキドキと苦しくなってきた気が……。


「……顔、赤くなってる……よ? ……お姉ちゃんも、興奮してくれてるんだね」

「……へ……?」


 赤くなってる……? こ、興奮してる? 私が?

 今からアモルにえっちなことをされるかもって、意識しちゃって……?

 え…………えっ?


 ……い、いやいや! いやいやいや!

 こ、興奮なんかしてない! 断じて!

 そもそも私、攻められるより攻めたい派だし!

 アモルの色っぽい顔を見て、その、私もちょっとえっちな気分になっちゃっただとか……そんなこと絶対ありえない!


 私の好みはフィリアとかシィナとか、そういう健全な範囲だ!

 アモルは私より一回りも小さいし、実年齢だって一桁のはずだし……!

 そうだ。私はそんな幼い子に欲情するような、どうしようもない変態なんかじゃない……!


「よかった……わたしみたいな、出来損ないでも……色気なんて少しもない、こんな体でも……お姉ちゃんは、興奮……してくれるんだね」 

「そ、それは……」


 そ、その言い方はちょっと卑怯じゃないかっ……?


 もちろん、私はロリコンじゃない。ロリコンなんかじゃないけれど……もしここで否定してしまえば、アモルは心底落ち込んでしまう。もしかしたら泣いてしまうかもしれない。

 仮にもお姉ちゃんと呼ばれる身として、妹を泣かせるようなことはすべきじゃない。

 だからと言って肯定なんてしてしまえば、アモルの未成熟な体に欲情したことを認めることになり……とどのつまり私はロリコンということになってしまう。


 アモルを傷つけず、私の尊厳も守るためには、必然的に黙らざるを得なかった。

 そんな風に密かに葛藤する私を置いてけぼりにして、アモルの行為はどんどんエスカレートしていく。


「続き、するね? ……わたしがお姉ちゃんを、もっと気持ちよくしてあげるから」


 すでに至近距離にあったアモルの顔が、さらに近づいてくる。


 ま、まずい……!


 私は一度フィリアにキスされかけたこともあり、幸いにもその意図にはすぐに気がついた。

 淫魔の価値観はわからないけど、少なくとも人間の価値観、特に女の子にとってファーストキスは大事なもののはずだ。

 アモルのそれを、こんな一時の間違いみたいなもので使わせるわけにはいかない……!


 私はキスをされないよう急いでアモルから顔を背けた。

 しかし私はそれが悪手だったとすぐに後悔することとなる。


「ぁっ……」


 キスを避けるべく顔を背けた際、代わりにアモルの息が私の耳に触れた。


 うぅ……! 自分で触る時には平気だからすっかり忘れちゃってたけど、そうだ。

 この体は人に耳を触られるのが大の苦手だった!


 どうにか声を抑えて感づかれないようにしたつもりだったが……お互いの体が密着している今は、どんなか細い声も聞こえてしまう。

 そもそもこういうことに関し、仮にも淫魔であるアモルをそう簡単に騙せるわけもなかった。


「ひぅ」


 アモルは私が必死に快感を抑えようとしている様子を見ると、妖艶に、それでいていたずらっ子のようにクスリと微笑んだ。

 そして再び私の耳に唇を近づけて、「ふっ」と私の耳に息を吹きかけてくる。

 何気なく吐息が触れただけのさきほどと違い、意図を持って向けられたそれは耐え切れるものではなかった。

 背筋を伝うゾクゾクとした感覚に思わず声が漏れてしまう。


「ふふ……どうしたの? まだ、どこも触ってないよ……?」


 耳を刺激された時の恥ずかしい顔を、正面から見られた。

 それを意識してしまうと、これでもかというくらい顔が熱くなってきた。


 意地悪そうに笑うアモルへと、私はどうかもうやめてほしいと必死に視線で訴える。

 視線だけじゃなくて、声に出すべきだと言われればまさしくその通りなのだが……もし声を上げるタイミングとアモルが息を吹きかけてきたタイミングが重なってしまった時、今度はもっと大きな声で淫らな悲鳴を上げてしまいそうで、どうしても躊躇してしまったのだ。


 当然、それもまた悪手であったことは言うまでもない。

 どうやら彼女はなにを間違えたのか、私の視線をさらなる行為への催促と捉えてしまったようだった。


 彼女は一度私から体を離すと、人差し指を自身の口に咥える。

 そしてその指先を私に見せつけるようにしてペロリと舐め取ると、宙へとかざした。

 唾液で湿った指先が、窓越しの月光で乱反射して妖しく光る。


「……知ってる? 淫魔の体液……特に唾液には、淫魔以外の他の生き物の興奮を促す効果があるの」


 そのことを私が知らないわけがない。

 どうにかこうにかフィリアとえっちなことをしようと、淫魔のエキスが詰まった液体薬を、フィリアが飲む予定だったジュースに仕込んだ経験は記憶に新しい。

 そして私はその計画を途中で失敗してしまい、あまつさえ自分でそのジュースを飲む羽目になってしまった。

 あの時の、自分ではどうしようもないくらい際限なく湧き上がってきた情欲の熱を、今も鮮明に覚えている。


 ……な、なんだか嫌な予感がするぞ……?


「肌に直接つければ、その部分をすごく敏感にして……体内に取り入れさせれば、その人の心を、気持ちいいこと以外なにも考えられなくさせちゃう」

「っ、お、お願いだアモルっ。そ、それだけはっ……!」


 あの時私が体に取り入れたのはジュースに仕込んだ、ほんの一滴に過ぎない。

 それも、人の手によって加工された薬として。

 けれど今私の耳に少しずつ近づいている、彼女の指についているものは、その原液である。

 一切の配合も、薄めることでの効果の調整もされていない、淫魔のエキス。

 それを直接使われた時、どれほどの効果を発揮するのか――想像もつかなかった。


「まずはお姉ちゃんが好きな、耳からね」


 私の懇願は当然のごとく聞き入れられない。

 少しずつ少しずつ、アモルの濡れた指先が私の耳に迫ってくる。


 こ、これだけは絶対にまずい!

 あの日に飲んでしまったたった一滴でさえ、服が擦れるだけでも快感を覚えるほど、どこもかしこも敏感になってしまったのだ。

 それ以上の効力を持つ原液を、それも正真正銘の弱点である耳になんて塗られたら……。

 ……ど、どうなっちゃうんだ……?


 くっ、やむをえまい……!


 これだけはできることならしたくなかったのだが、最早猶予は残っていない。

 これ以上は取り返しがつかないことになる!

 こうなったらもう、アモルを強引にでも引き剥がす……!


「……お姉ちゃん……」

「っ……」


 ――嫌われたくない。嫌われるのが怖い。

 ――嫌いにならないで。捨てないで。私を一人にしないで。


 ……そんな心の声が聞こえてくるかのような、切なげな呟きと瞳に、またしても私は躊躇してしまった。

 こんな大事な場面で。


「――ふわぁああっ!?」


 その一瞬の躊躇のうちに、無情にもタイムリミットは過ぎ去ってしまった。

 直接耳を触れられて、声が漏れる。


 初めはただ、少し湿った感触がした以外、特になんともなかった。

 しかしアモルの唾液は少しずつ私の肌に染み込んで、塗られた箇所がジンジンと敏感になっていく。


「……ひぁっ……はぅ、ぅぅ……」


 アモルの指は、もう私の耳から離れている。

 なのにまるで、常に耳に小さく息を吹きかけ続けられているかのような、そんな感覚がし続けている。


「っ、あ、もる……」


 襲いくる快楽の濁流から逃れるように、私は必死になってアモルの肩を手で押した。

 今度こそ、ちゃんとアモルを突き飛ばそうとした。

 ……だけどどうやら、彼女の唾液を塗られる前に拒絶できなかった時点で、もう遅かったようだ。

 どんなに力を入れようとしても、体がビクビクと震え、脱力してしまう。まったく力が入らない。


「ん……ふふ……お姉ちゃん、大胆……」


 それどころかアモルは、私の方から触られたことでなにか勘違いしたらしく、頬を染めながら嬉しそうに微笑んだ。

 そして彼女は私をさらに喜ばせようとすべく、再び私の左耳に手を伸ばしてきた。


「っ――――!?」


 アモルの指が私の耳を摘む。

 たったそれだけで、今まで一度として味わったことのない凄まじい快楽が全身を駆け巡る。

 抗えるはずもなかった。

 人目も憚らず大きな声を上げ、視界と思考が真っ白に弾ける。


「…………ぁ……」


 数秒か。数十秒か。もっと長かったかもしれない。

 いつの間にか、意識が飛んでしまっていたようだった。


 意識を取り戻した時、私は荒い息を繰り返しながら、ベッドの天蓋をぼんやりと見つめていた。

 視界は滲み、全身汗でぐっしょりで……流れる汗さえ快楽を呼び込む呼び水のように感じ、痙攣を止められない。


「ふふ……お姉ちゃん、気持ちよさそう……」


 それからしばらくの間、不自然にもなにもされない時間が続く。

 だからと言って、なにができるわけでもなかった。著しく体力を疲弊させた私は、その時間をただただ回復することに費やしていた。

 やがて思考が少しずつ正常さを取り戻してくると、私は、ぼやけた眼でアモルを見上げた。


「……あ……もる…………」


 未だ、アモルからの追撃はない。

 もしかして、やっとわかってくれたんだろうか……?


 半ば無意識のうちに、アモルの方へと手を伸ばす。

 わかってくれたのなら、きっとこの手を取ってくれるはずだと思った。


 だけどその手が取られることはなかった。

 アモルがなにもしなかったのは単純に、次の行為に移る前に私の体力が回復するのを待っていただけだった。


 アモルの顔が、私が伸ばした手の横を過ぎ去って、段々と私の方へと近づいてきて――。


 彼女の唇と、私の唇が重なった。


「んぅっ……!?」


 アモルにキスをされた。

 目の前のその現実を正しく認識するのに、私は数秒を費やした。


 アモルの肩に手を置く。必死に押して、押しのけようとするけれど、やっぱり力が入らない。されるがままだ。


「ちゅっ……ん、ふふ……おねえ、ちゃん……」

「ぁ、んんっ……あ、も……!」


 ――気持ちよかった。

 アモルの柔らかな舌。お互いの舌が唾液とともに絡め合う、とろけるような感触。

 甘い味。香り。

 私の舌と脳を溶かして、侵していく。


 ――……あれ……。

 ――なんで私、アモルでえっちな気分になっちゃいけないって、思ってたんだっけ……?


 アモルにだけは欲情してはいけないとずっとずっと自分に言い聞かせていたのに、その瞬間、なにか。

 なにか、越えてはいけない一線を越えてしまったような気がした。


 これが、キス……?

 気持ちいい……もっと、もっと欲しい……。


 淫魔のエキスを直接体内に取り込まされて、かつて例の液体薬を飲んだ時と同じように、いやそれ以上に体中が敏感になっていく。

 だらしなくよだれを垂らしながら、気がつけば私は、口の中で広がる快楽を自分から貪っていた。


「ぷはぁっ……ふふ。気持ちよかった……ね」


 アモルが唇を離すと、混じり合ったお互いの唾液が糸を引き、私の首元に垂れた。


 幼くて、小さくて……だけど確かに淫魔としての色気も放っている。

 そんなアモルとキスをしてしまった。

 その背徳感がどうしようもなく私の劣情を刺激する。

 気持ちいい。もっとしたい。そう思うことを止められない。


 ……だけど、それ以上に……。


「……え……お姉、ちゃん?」


 私が、アモルのファーストキスを奪った。

 気持ちいいと思う以上に、その事実が私の心に重くのしかかる。


 アモルはお姉ちゃんと呼んでくれた。

 会って間もない私を信頼して、心から慕ってくれた。

 なのにそのアモルの大切なものを、私が奪った。


 その事実を認識し、ズキリと胸の奥が鋭く痛んだ。後悔と罪悪感が一気に押し寄せてくる。

 普段ならなんてことないように振る舞ってみせただろうけれど……快楽で思考能力が低下している今、その胸の痛みは耐え切れるものではなかった。


「……ひっぐ……ぅ、ぐすっ……」

「お、お姉……ちゃん? ど、どうして泣いて……」


 涙が頬を伝うたび、どうしようもなく快感が走って、ビクンッと体が跳ねてしまう。

 アモルの唾液を直接体の中に入れられたせいで、どこもかしこも敏感だ。

 止めなきゃいつまでもこれが続いてしまうのに、わかっているのに、それでも涙が止まらない。


 そんな折、廊下の方から慌てたような足音が近づいてくるのがわかった。

 バンッ! と勢いよく扉が開かれる。


「な、なにしてるんですか!」


 フィリアの声だ。

 涙で視界が滲んでよくわからないけれど、フィリアが来たらしい。


「お師匠さまの大きな声が聞こえた気がしたので来てみたら……アモルちゃん、これはどういうことですか」

「わ、わたし……お、お姉ちゃんの、や、役に立ち、たくて…………わ、わたし、これくらいしか、で、できない、から……」

「だからお師匠さまを無理矢理……お、押し倒したんですか?」

「無理、矢理……? ……気持ちいいことは、皆、嬉しいんじゃないの……? わたし……悪いこと、しちゃった……の? わ、わたしが……悪い、の……?」


 なにか、フィリアとアモルが言い争っている。

 よくわからなかったけれど、アモルが泣いているのはわかったから、アモルには泣いてほしくなくて、アモルの涙を拭ってあげようと手を伸ばした。


 アモルは、私の手を震えたまま受け入れようとして……だけど直前で、怯えた様子で後ずさった。


「っ……」

「アモルちゃん!」


 逃げるようにして、アモルは部屋から走り去っていく。

 フィリアはそんなアモルを一瞬追いかけようとしたようだが、私の方を振り向いて、すぐに立ち止まる。

 フィリアは優しいから、今の私を放っておくことができなかったらしい。


「その……お、お師匠さま……大丈夫ですか……?」


 フィリアが少しずつ近寄ってくる。

 その瞬間、フィリアにキスされかけた時の光景が頭の中に蘇った。


 み、見られたくない。こんなみっともなくて恥ずかしい姿、フィリアにだけは……。


「フィリアぁ……み、みないでぇ……」

「あ、ご、ごめんなさいお師匠さまっ! 見ません……! ……み、見ません……見ません……」


 私が必死に懇願すると、フィリアは慌てて両手で自分の顔を覆ってくれた。


(……さ、さっきまではアモルちゃんを叱るので頭がいっぱいだったので気づきませんでしたが……い、今のお師匠さま……す、すごくえっちです……)


 たまにチラチラと指の隙間からこちらを覗いてきていた気がしたが、いつも素直に私の言うことを聞いてくれるフィリアがそんなことするはずがない。

 きっと淫魔の体液で興奮した私の妄想が生み出した、いやらしい幻覚なのだろう。


(あんなとろけた顔のお師匠さま、見たことありません……か、可愛いです……たまにビクビクしてて、汗で下着も少し透けちゃってます……あ……パンツが一番湿ってるってことは……そ、そういうことなんでしょうか……?)


 淫魔の体液を取り込んでしまった影響なのだろう。体の奥底が疼いてたまらない。

 それなのに自分で自分を慰めようとしても、動こうとした時のわずかな刺激による快感で、ろくに力が入らない。


 ……慰める? あ、あれ? なに考えてるんだ私……。

 フィリアがいるんだぞ? そ、それなのに、今無意識に……。

 ……でも、フィリアも今の私の状態はきっとわかってくれてるだろうし……私が一人で、えっちなことし始めても、きっと引いたりとかしない……。


 ………………い、いやダメだ! 本当になに考えてるんだ私は!


(わ、私、ここから出てった方がいいですよね……? で、でも、お師匠さま……苦しそうです。気持ちよくなりたくても、なれないみたいな……だ、だったら……わ、私が、私がお師匠さまが気持ちよくなるお手伝いをしてあげた方がいいのでは……?)


 うぅ、寂しい……気持ちよくなりたい。

 なのに体がうまく動かない……こ、こんなの……あ、頭がおかしくなるぅ……。


(……って、なにを考えているんですか私は! そ、それじゃあお師匠さまを無理矢理襲うのと、アモルちゃんがやったこととなんにも変わりないです! こ、こんなの私がしたいだけです! 私なんか、いつもみたいにお師匠さまにもらったボロ服の匂いを嗅いで、夜中に一人でこっそりしてるのがお似合いです!)


 こ、これ以上は正気が持たない。

 魔法を……魔法を、唱えるんだ。

 魔力を循環させて、頭に式を描いて……少しずつ……。


(……でも……でもですよ……? もし私がここでお師匠さまに手を出しても……お師匠さまは優しいから、きっと許してくれますよね……? 苦しんでた私のためを思ってやってくれたことだからって、明日からも普段通りに接してくれる……つ、つまり今ならお師匠さまのためを口実に、あんなことやこんなことが……)


 どこからか、ごくり、と生唾を飲み込むような音が聞こえた気がした。

 フィリアの方から聞こえたような……いや、気のせいだろう。だってフィリアはこっち見ずにずっと立ち尽くしてるし……。


(…………お師匠、さま……)


「んっ……フィ、リア……?」


 なんだ? フィリアが近づいてくる……。

 あいかわらず視界が滲んで顔がよく見えないけど……どうしたん、だろう。

 私が疑問に思っている間に、フィリアは私に手を伸ばしてきて――。


(――あぁああああああっ! ダメですダメですダメです! ダーメーでーすーっ! い、いくら許してもらえるからって、そんなお師匠さまからの信頼を利用するようなことだけは、絶対ダメですーっ!)


「!?」


 ベッドを支える柱を掴んだかと思うと、突然ガンガンとその柱に頭を打ち付け始めた。

 あまりに唐突すぎる奇行に唖然としていると、彼女は私に背を向け、二歩三歩とフラフラと部屋の中を歩いた後、その場にぶっ倒れた。


(こ、この痛みはお師匠さまに不義理を働こうとした罰です……あ、意識が……ちょ、ちょっと強く打ちつけすぎたでしょうか…………お師匠、さま……私、こんなえっちで、悪い子になってしまって……ごめん、なさい……)


 ……な、なんだったんだ……?

 快楽で思考が乱されてるせいか、状況がよくわからない……。

 よくわからないけど……なにはともあれ、魔法は完成した。


「スリー、プ……!」


 ふ、ふふふ、私はいつだって前回の反省を活かせる優れた魔法使いなのだ。

 以前淫魔の液体薬を私が飲むことになってしまった時のことを反省し、同じことが起こっても対処できるよう、あらかじめ新しい魔法を作っておいたのである。

 それこそがこれ、スリープ……!

 単純明快、その名の通り眠気を加速させる魔法だ。

 これで私は、淫魔の体液の効果が切れるまで、眠り続けることが……できる、のだ……。

 ……アモ、ル……に……明日、謝ら……ないと…………。


 …………。


「…………はぅ……ひぁっ、んん………」


 ――そうして私の意識は途切れ、薄暗闇に包まれた部屋の中、眠ったままの私の小さな声だけが、いつまでも響き続けた。

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