42ページ目 ようこそ、街の印刷屋さんへ!
ふと自分の今の姿に体中を真っ赤にさせて、私は慌てて服を着る。
下着姿に大き目のライダースジャケットだけなんて、どこまでもエッチすぎる。マキちゃんなんて、私の薄手のカーディガンだけだ。辛うじてパンツは見えないけれども、その下に胸を隠す薄い布切れもない。
お爺ちゃんのRockers仲間の厳ついおじさんが、マキちゃんの着れそうな服を持ってきてくれた。ホッとして、自分たちの身に降りかかった事を思い出して、私とマキちゃんはきつく抱き合って少しだけ泣いた。
サカエくんが来てくれなかったら、私たちは本当に心までも壊されてしまっていたかもしれない。
サカエくんの大切なバイクは壊れちゃったけど。
「え――っと、マキちゃんだった、かな? まず病院へ行こうか。知り合いの病院だからおかしな事は聞かれないから安心しなさい。で、今日はウチに泊まるといい。事情は全部親御さんに話しておくから」
お爺ちゃんはマキちゃんの肩を優しく抱き寄せた。
こんな時、お爺ちゃんに革ジャン先輩を重ねて見てしまう自分が少しイヤだった。
革ジャン先輩は優しくて、頼りになって、ちょっとエッチで……
「ちょっと、お爺ちゃん! そんなにマキちゃんにくっつかなくてもいいでしょ!」
「あ、や、彼女の不安な心をだな、落ち着かせるために……」
「もうッ!」
マキちゃんとお爺ちゃんを引き剥がす。
お婆ちゃんに全部話しちゃうからね。
「ヒナ、オレはマキちゃんをウチに連れて帰るから、お前はそこの小僧にでも送って貰うといい」
お爺ちゃんがサカエくんを一瞥する。
サカエくんは大きく目を丸めると、すぐに肩を竦めて首を振った。そして、少し寂しそうに顔を歪めると、壊れたバイクを振り返った。
私たちを助ける為に、スクラップになってしまったバイク。古いバイク。もう、手に入らないであろう昔のバイク。
タイヤを支える二本の金属の棒が折れて、ガソリンタンクがべコリと凹んで、とても走れるとは言い難い。直せるとも思えない。
「ヒナを送れって言ったって、オレのバイクは……」
「やるよ」
「「は!?」」
私とサカエくんの声が重なった。
お爺ちゃんは何を言ってるの? 「やるよ」って何を?
「オレのバイクをやるって言ってんだ。オレは仲間の車でこの子を送ってくから」
「え、あ、いや、そんな大切な……」
「いらねぇのか? もう二度と、こんな事言わねぇぞ?」
「あ、ありがとうございます!」
サカエくんが深く深く頭を垂れる。
おおよそそんな事をするような風貌じゃあないのに、それがとても可笑しかった。
まさか、お爺ちゃんがサカエくんにバイクをあげるだなんて。
何十年も大切にしてきたバイクを。バイク屋のお爺ちゃんのお友だちの所で、お友だちのおじさんたちと油だらけになりながら整備していたバイクを。サカエくんが引き継ぐのか。
ちょっと寂しくもある。お爺ちゃんがバイクを降りるなんて。
物心ついた頃から、お爺ちゃんとバイクはセットみたいなものだったから。
「さてオレは、ヨシオカん所で新しいバイクでも物色するか」
高らかに笑うお爺ちゃん。
何だ、乗り続けるんじゃない。ちょっとしんみりして損しちゃった。けど、お婆ちゃんはともかくお母さんが許してくれるかなぁ? 毎日枕詞のように「いつバイクを手放すの?」なんて言っているような人だし。
サカエくんはお爺ちゃんのバイク見たさに、誰よりも早く工場を飛び出る。工場から出る瞬間、ふと立ち止まって、壊れてしまったバイクを寂しそうに見つめる目が印象的だった。
サカエくんだって、壊れてしまったバイクを大切にしていたに違いない。だって、今はもう、手に入れようって言ったって、中々手に入れられるもんじゃあないから。
お爺ちゃんと同じように、大切に整備してきたんだと思う。いくら、お爺ちゃんのバイクが貰えるからって、そんなに簡単に割り切れるもんじゃあないと思う。
や、けどサカエくんがそういう人でよかった。
お爺ちゃんのバイクをきっと大切にしてくれるから。
お爺ちゃんとマキちゃんも続いて工場を後にする。
私は一人壊れたアルミサッシの前で、ガランとした工場をグルリと見まわした。
今はもう何もない空間に、印刷機や、そこを縦横無尽に駆けまわる革ジャン先輩の面影がチラつく。
耳を澄ませばほら、声まで聞こえてくるくらい鮮明に。
ハンドリフトに乗り床を蹴り、まるでキックボードのように工場を移動する革ジャン先輩。そんな彼を見ながら私は呆れたように小さなため息をつくんだ。
「革ジャン先輩ッ……遊んでる暇があったら、私に色々と教えてくださいよ」
「どけぇ、どけどけぇ! 革ジャン先輩のお通りだ~!」
機械の熱気とオペレーターのアツい想いと、そんな心を激しく揺さぶる残像が、私の瞼に浮かんでは消える。
革ジャン先輩には、もう二度と会う事はない。
世界で唯一存在した『ようこそ、街の印刷屋さんへ!』のVRファイルは、私のピジョンと一緒に粉々に砕け散ってしまった。
もう、革ジャン先輩に印刷を教わる事は出来ない。
声も聞けない、触れる事も出来ない、微笑みかけて貰う事も……
でも――でも、いいんだ。
私は沢山の事を学んできた。
今は虫の息の印刷業界も、この先きっと息を吹き返す。
お爺ちゃんが言うように、本を愛する人がいる限り、印刷はきっとまた私の目の前に現れてくれる。そう信じている。
「おーい! 何やってんだ、帰るぞー!」
工場の外、暗がりを星のように埋め尽くすヘッドライトの中から、お爺ちゃんの呼ぶ声が聞こえる。
振り返り、工場を背にした私の肩が、トンッと押される。
『大丈夫だ。印刷を、本を、信じればいい』
ふと背後から聞こえた声に、私は勢いよく工場を振り返る。
「革ジャン先輩ッ!」
そこには誰もいなかった。誰もいる筈がなかった。
私はギュッと胸を押さえ、一度だけ小さく頷く。
私以外、誰の中にもいなかった革ジャン先輩。私の中にだけは、確かに実在した革ジャン先輩。そんな彼に想いの総てを届けるように、何もない工場に向かって、外のバイクのエンジン音に消え入りそうな声で呟いた。
「私、印刷の勉強が出来て、本当に幸せでした」
そして、工場を後にする。
沢山の想いが詰まった過去を胸に深く刻み込み、明日を真っ直ぐ見据え。
私は印刷を勉強して、沢山のものを得て、沢山のものを失った。
世の中はいつだって、そう言う風に動いている。それをどうやって噛み砕き、消化するのかは人それぞれだ。
本を必要としない人だっている。本に焦がれる人だって確かにいる。
私のやるべき事は、決まった。
本を知らない人たちに、印刷を知らない人たちに、その素晴らしさ、大切さを広めて行こうと思う。
それが、革ジャン先輩の元で印刷を学んできた私の使命なのだから。
沢山の、駐車場を埋め尽くすほどのバイクが、大きな音を立てながら幹線道路へ走り去る。お爺ちゃんとマキちゃんは一足先に、Rockers仲間の乗って来たクラシックな車で工場を後にした。
そして、たった一台残ったバイクの脇で、私を待つサカエくん。
何十年も、壊れては直し、お爺ちゃんが大切にしてきたバイクの横で、サカエくんが私を待っている。
さぁ、行こう。ここからが本当の、私だけの物語の始まりだ。
サカエくんがライダースのポケットからピジョンを取り出して鼻骨に乗せる。その瞬間、ヘッドライト以外の光がない暗がりの中、ピジョンが淡く明滅する。不思議そうに首を傾げ、指先を宙に這わせるサカエくん。
そして、訝し気に眉を顰め小さく首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや、地図を立ちあげようと思ったら、トップ画面に何か変なファイルが……」
「変なファイル? ちょっと借りていい?」
サカエくんが首を縦に振る前に、彼の鼻骨の上のピジョンを取り上げ自分の鼻にかける。
サカエくんの、ピジョンに映し出された沢山のフォルダの中に、文字化けした変なファイルがひとつ……
『、隍ヲ、ウ、ス。「ウケ、ホー??イー、オ、?リ。ェ』
ザザッ……
鼻骨を伝い、頭の中にまで響く短いノイズ。視界にモノクロームの砂嵐が走る。
実際には存在しない、私の目の中だけの画面が揺れる。霞む。滲む。そして一瞬のブラックアウト。
すぐにブンッと音を立てて、元の画面に復帰する。元――の?
ファイルが……
『ようこそ、街の印刷屋さんへ!』
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