18ページ目 百二十万のタコヤキ

「何か俺の顔についてるか?」

「あっ、いえ何でもありません」

「ん、じゃあ今日はカラー印刷を教えよう」



 そう言うと、革ジャン先輩は一枚のカラーの印刷物をオぺスタの上に広げた。

 大きい紙。A判半裁のコート紙に、一、二、三……沢山面付けされた回数券タイプのチケットが並んでいる。

 カラーの印刷物に顔を近づける革ジャン先輩の背中をジッと見つめる。穴が開くくらい、ジッと見つめる。

 仮想現実はあくまで仮想の世界だ。けど、仮想現実の世界があるという現実もある。私に取って、目の前にいる革ジャン先輩は間違いなく現実だ。抱きつくことだって出来る。革ジャン先輩は、目の前にいる。



「ヒナちゃん、こっちおいで」



 私は尻尾を振る子犬のように、喜々として革ジャン先輩の隣に寄る。

 難しい事を考えるのはやめよう。今は印刷の勉強の時間だ。



「では質問です。カラー印刷とはなんでしょう?」

「は!? 何ですか、その質問? カラーは、カラーですよ。写真だったりイラストだったり、フルカラーなんです」



 自信満々にふんぞり返る私を見て、革ジャン先輩はブハッと吹き出す。

 何ですか、その失礼な態度は。もしかして、人を馬鹿にしてません?



「何で笑うんですか! あってますよね!」

「や、別に笑った訳じゃ……ふふっ」

「笑ってますよ!」

「ああ、ごめんごめん……ふふっ」



 私の顔をちらりと見ては、口元をゆるめて笑いを漏らす革ジャン先輩。

 もう、いいですよ。どうせ私がトンチンカンな事を言ったんですから。どこがトンチンカンなのかわかりませんけど。

 私は腕を組んでソッポを向く。



「いや、可愛いと言うか、微笑ましいと言うか、幼いと言うか、幼稚園児みたいな答えが、ね」

「言いすぎです! こんなに大人な私を捕まえて、幼稚園児とは何事ですか! 色気も山盛りありますよ! お子様と一緒にしないでください!!」

「色気って……そう、色だよ、色。カラー印刷は何色なんしょく印刷の事だ?」



 唐突に印刷の話に戻るんですね。話の振り幅が大きすぎて、ついていくのがやっとです。えっと、カラー印刷の色数なんて、考えるまでもないですよね。



「4色です。CMYKの」

「そう、正解。じゃあ、家庭用のプリンターと、印刷機だとどっちが綺麗に印刷できると思う?」

「そんなの、当然印刷機なんじゃないんですか? プリンターなんて、安いのだと一万円くらいで買えますよね? 印刷機がいくらかは知りませんけど」



 私の時代はもっと安い。それどころか、プリンター自体がこの時代より少ない。

 写真だってアルバムだって、データで済む時代だから、当然と言えば当然なんだけど。



「ん、印刷機の値段? 俺が使っているこの菊半裁5/0、4/1反転機で五千万円くらいかな?」

「ごごご、五千万!?」

「印刷機って、工業機械の中でも高額な部類に入るんだよ。この機械はまだ安い方。メーカーにもよるけど同じ仕様で億を超える機械だってある」

「はぁ~、凄いですね。そりゃぁ、印刷機の方が綺麗に印刷出来て当然です。何てったって、プリンターの五千倍の値段なんですから」



 家が買えますって。ウチはそんなに高くないですよ。お爺ちゃん――革ジャン先輩が買った家を建て替えただけですから。土地代はかかってませんし。もちろん、私のお金じゃありませんけど。



「何か盛りあがってる所、大変申し訳ないんだけど、間違ってるから」

「何がですか?」

「プリンターの方が綺麗に印刷出来ます」

「えっ!? 嘘ですよね? プリンターの五千倍ですよ? これが近所のタコヤキ屋さんだったら百二十万個のタコヤキが買えますよ?」

「や、タコヤキの話はいいから」

「ちょっと意味がわかりません。タコヤキは……」

「そっちかよ!? タコヤキは置いておいて、家庭用のプリンターは何色なんしょくだかわかる?」

「あっ……」



 六色だ。CMYKの他にライトシアンとライトマゼンタがある。

 でもそれって、綺麗にプリントアウト出来ないから六色あるんじゃないんですかね? 印刷機は綺麗に刷れるから4色で十分――とか。



「色数が多いと綺麗に印刷できるんですか?」

「ただ単純に多いって事じゃなくて、六色って事に意味があるんだ」

「意味?」

「特色を教えた時の事を思い出してみなよ」



 私は口に手を添えて、オぺスタの電気を見あげる。すぐに目が眩んで、蛍光灯がない天井へ視線を移す。

 以前、プロセスインキのイエローМマゼンタを混ぜた時、出来あがったオレンジ色は少しくすんでいた。綺麗なオレンジ色にならなかった。だから、インキには中間色があって……中間色?



「中間色ってヤツですか? 4色だと表現しきれない」

「その通り! ここ見てごらん」



 革ジャン先輩の指さす先、カラーで印刷された回数券の金額部分に顔を寄せる。

 赤い文字で100円と印刷されている。少し黄みがかった赤。



「ここはM100%とY100%――要するにマゼンタのベタとイエローのベタが重なった赤色なんだけど、どう? 鮮やかな赤ではないだろ?」

「鮮やか――じゃないんですかね? よくわかりません」

「じゃあ、こっちはどう?」



 オぺスタの横に積まれた損紙の山の中から取り出した1色の赤い印刷物をカラーで印刷された回数券の隣にならべる。



「わぁ、本当だ! 全然鮮やかさが違います。特色を作る時だけじゃなく、カラー印刷でも色の三原色が関係してくるんですね。重ねれば重ねるほど暗くなるって所が」

「そう。だから4色印刷よりも、明るい青と明るい赤をプラスしたプリンターの方が、より複雑な表現が出来るって訳。素人目にそこまで違いはわからないと思うけどね」



 素人でした。スイマセン。

 乾いた笑いをもらしながら、頭をかく。そして、気がついた。印刷の需要が少なくなった理由を。

 私の時代ではインターネットやコンピューターの急速な発展によって印刷物が少なくなった。けど、その前から――ここの時代にはすでに、印刷業界は下火だったはず。大学の印刷の歴史で習ったのに、すっかり頭から抜けていた。

 百聞は一見に如かずではないが、机上で勉強するのとは訳が違う。



「言い辛い質問いいですか?」

「トイレ?」

「違いますよ! 場所は知ってますし!」

「……結婚してるよ」

「はぁ、知ってますけど。何ですか、それ?」

「や、付き合ってる人いますか? とか聞かれるんじゃないかと思って」

「どれだけ、自意識過剰なんですかッ! 何で私がそんな事を聞くなんて思ったんですか?」

「たまに背中にアツい視線を感じるから?」



 バレてる。一瞬で血が沸騰する。

 言葉をなくし、慌てて革ジャン先輩に背を向ける私。間違いなく顔が真っ赤になってる。や、きっと全身が真っ赤だ。

「ははは、この工場あついですねー」なんて呟きながら、パタパタと手で顔を扇ぐ。実際に印刷工場は常に30℃以上あって暑いんだけど。

 けどきっと、こんな行動ですらバレてるんだろう。

 もういいや。どうせなら顔赤くしてちょっと俯いて、モジモジしながら質問しちゃおうかな? なんて、考えた私が馬鹿だった。そんなの、絶対に恥ずかしい事を聞く時のシチュエーションだ。そんな妄想ですら恥ずかしい。

 消えろ、消えてしまえ、煩悩!



「そんな目で見てませんよ。尊敬はしてますけど」

「尊敬してくれてるんだ。そりゃあ、嬉しいね。で、質問って何?」



 振り返った私の前で、ご機嫌真っ直ぐに鼻を鳴らす革ジャン先輩。ちょっとした事で一喜一憂してる姿を見ると、おじさんなのに少し可愛く見えるのは何ででしょう?



「あ、はい。家庭用プリンターの性能が良くなってくると、印刷機のメリットって何なんでしょうか?」

「ああ、いい質問だな。小さいサイズの少部数に印刷機のメリットはあまりないな。昔、年賀状印刷で儲けていた印刷屋はこぞって廃業しちまったし。プリンターで十分だから」

「そう――ですよね」

「ただし、家庭用プリンターだと小さいサイズしかプリント出来ないし、大部数だとコストパフォーマンス的に印刷の方が遥かにいい。写真だって、言っただろ? 素人目にはわからない程度の綺麗さだって」



 確かにカラーのチラシとかチケットとかを見て、綺麗じゃないなぁなんて思った事ありませんから。



「むしろ、色調を合わせやすい。そこは印刷会社の営業の手腕なんだけど」

「はぁ、色調って何ですか?」

「そうだな……」



 革ジャン先輩はオぺスタの正面ボードにマグネットで張り付けてあるクリアファイルを取り、中から二枚の紙を取り出した。

 それは、広げてある印刷物と同じ柄がプリントアウトされた紙だった。

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