42ページ目 本の消えた街
西暦2050年、本は私達の街からその姿を消した。
今から三年前――私が十七歳になった頃の話だ。
印刷物としての書籍の出版が一切なくなった。
それは、近現代文学と印刷技術の歴史の授業で私が散々勉強してきた、非情なまでの現実だった。
1990年代――まだネットの普及も始まったばかりで、携帯電話も一般的でなくポケットベルだった時代。
商業デビューを目指す作家たちは、漫画賞や小説賞へ応募するか、同人誌即売会などのイベントで発表するしか、自作を人の目に触れさせる方法がなかった。
仕事やアルバイトで得たお金を、自費出版の本につぎ込んだり即売会でお気に入りの漫画や小説を購入する資金にしたり、とにかく本に対して一生懸命だった。
作家はみんな、読んでもらう事に飢えていた。
自分の面白いを人に見て貰いたかった。
それが、僅か十年後には掌を返すように覆された。
接続が高額だったり、パソコンが一般的でなかったアナログ・ISDN時代を経て、インターネットが安価高速のブロードバンド時代に突入した。
90年代中ごろから開発されたPHSは、その後たった10年でスマートフォンへ移り変わっていった。
あまりにも早すぎる情報進化――それは明らかに人の想像を超えていた。
誰もが手軽にインターネットに接続できるようになると、自作の漫画や小説をWeb上にアップする人達が現れた。サイトを閲覧する読者の人口も急増した為だった。
そして、漫画や小説の投稿専用のサイトが生まれる。
今まで自腹を切り、遮二無二に本を作る事だけを考えていた作家達は、挙ってインターネットを利用するようになった。
本を作る時のように、お金をかけなくとも自作を読んで貰える。作家たちはWeb上でいかに自作をアピールするかに神経を注いだ。
この時すでに、本の衰退は始まっていた。
革ジャン先輩が同人誌印刷をしていた街の小さな印刷屋さんを退職して数年後、印刷業が特定業種――いわゆる不況業種に指定された。それは、印刷業の衰退を国家が認めた事になる。
印刷業だけじゃない。製版業、製本業、印刷物加工業も同じく特定業種に指定された。そしてそれは、その先延々と更新される事となる。
インターネットが普及するにつれ、新聞を読まない家庭が増えていった。当然、新聞折り込みのチラシも少なくなった。
自社を宣伝したい企業も、読まれない、見られないチラシをわざわざ印刷しようとは思わなくなったし、たとえ新聞折り込みのチラシを印刷したとしてもレスポンスは雀の涙だった。
まだ革ジャン先輩が街の小さな印刷屋さんにいた頃、沢山の人達が利用していた年賀状印刷も、パソコンの周辺機器――プリンターの性能の向上で、まるで崖を転がり落ちるように激減した。
印刷会社から仕事が零れ落ちていった。
元々殆どの印刷会社が家内工業のような弱小企業であり、一般家庭に当たり前のようにパソコンが普及し始めると、印刷会社への客足は遠のいた。もちろん、広告やパンフレットを依頼していた企業も同様だった。
オフィス用の周辺機器も充実し、自社で事が足りれば、わざわざ予算を割いてまで印刷会社に印刷を頼む必要がなくなった。
小さな印刷会社はまるで自然淘汰のように姿を消し、それでも生き延びた印刷会社ですら方向転換を強いられた。
紙以外への印刷がまさにそれだった。
キーホルダーやマグカップなど様々なグッズを取りそろえ、印刷会社は生き残りを試みた。けどそれも、所詮は風前の灯だった。
それに輪をかけて、紙媒体は年々その数を減らしていった。
本が売れないと言われた時代だ。
出版社は本と並行してデータ販売を開始した。それは、出版社生き残りの諸刃の剣、電子書籍の出現だった。
世代が若ければ若い程、物に対する執着心が薄く、本のような嵩張るものを嫌う傾向があった。
読めればいい。
本の衰退とは逆に、電子書籍はその数を急激に増やしていった。
自宅の本棚にある本でさえ、電子書籍化してくれる会社も現れた。
けど、電子書籍化には不安要素が残されていた。それは、違法コピーだった。
データ化された漫画や小説は、悪意のある人間によって世界中にばら撒かれた。お金を払って購入している人々が馬鹿を見る。そんな時代に突入した。
平成の時代、それまで違法ダウンロードの対象と言えば映像や音楽に限定されていた。けどそれも、私が生まれた頃になると、いよいよ政府も重い腰を上げる事になる。違法ダウンロードの対象がデータを含む書籍にまで拡大された。
ちょうどその頃、都市伝説で、政府が国際的ハッカー集団を高額報酬で招き入れたという噂が立った。それが本当かどうか定かではなかったけど、有料配信される電子書籍に
他にも画像データをプリントアウト出来ない
そして、違法ダウンロードは激減した。たかが千円程度で、そんなに危ない橋を渡ろうと考える人はいなかった。
出版社が、そして作者が、その大切な財産を国から守って貰えるようになった。
最後に残された不安要素を除いて。
それは、書籍化された漫画や雑誌、そして小説だった。
最初からデータ化されている電子書籍は守られる。けど、本から取り込んだデータは完全に法の網を掻い潜った。
そして出版業界は、作者を、それを愛する読者を守る為に、本の出版を縮小させていく事になる。
インターネットの飛躍的な発展が、本を、そして印刷業界を闇に葬り去った。
誰もが本は絶対になくならないと思っていた。
まさかそんな事などあり得ないと考えていた。
もうずっと昔から、警鐘は鳴らされていたんだ。
数える程しか残らなかった印刷会社は、印刷から最先端の広告配信へと仕事の内容をシフトした。それは、電子機器業界との合併だった。
情報手段が紙媒体から映像媒体に切り替わった。
有機ELディスプレイは年々その薄さを増し、ついには本当に紙程の薄さになった。そこに広告をスライド表示させる商品で街を飾りつけた。けどそれも、通信業界の猛威には勝てなかった。
たった十年でポケットベルからスマートフォンに進化した通信業界は、その後バーチャルリアリティ――VRに目をつけた。
1991年、アートとテクノロジーを融合させた展示会が開かれた。そこで発表されたVRと立体ホログラムを組み合わせ、ゲーム会社が先だって商品化していたヘッドマウント式VR機器を改良してグラスィズを作り上げた。
グラスィズ――眼鏡型通信デバイス。いわゆるオールドタイプのスマートフォンの後継機だった。
平成以前はVRと言えば映像だけだったけど、それは真の意味でのVRではなかった。
通信業界はゲーム業界との共同開発で、鼻部分のパッドと耳にかけるモダンを介して脳に直接信号を送り、人の触覚をコントロールする事に成功した。
それによってグラスィズは、スマートフォンを持たなくともレンズを通して同様の作業を熟す事が出来た。
大手ゲーム会社に勤務するお父さんが開発に携わっていた事もあって、もちろん私も使っていた。学校や移動中など使用制限される事もあって、オールドタイプのスマートフォンも持っていたけど。
そしてグラスィズは、ピジョンへと更なる進化を遂げた。
ピジョンはレンズ部分とテンプル、モダン部分を取り除いた、パッドのみの通信機器だった。
鼻骨にかける程の小さな機器が触覚だけでなく視覚をもコントロールした。そして、VRや集音マイク、カメラ、骨伝導を利用した通話も可能にした。
目の前に何もないのに映像が見えるし、触る事も出来る。
人はついに、無から有を生み出した。
今やピジョンさえあればサイトの閲覧どころか、本も読めるし音楽も聴ける。
人はみんな、口を揃えたように言うんだ。
「便利な世の中になった」って。
本の消えた町で。
お爺ちゃんは寂しそうな顔をしていつも零していたっけ。
『インターネットだスマホだ、何をするにも手元に残らない仮想空間の物に何の価値がある? 音楽データ配信? Web漫画、小説? 新聞もいらない、手紙もいらない。味気ない……味気ないなぁ』
私は小さい頃から、お爺ちゃんのその言葉と共に育った。
だから余計、本に執着するようになったのかもしれない。
* * *
「ヒナ……ヒナ……ヒナ……」
どこか遠くで私を呼んでいる。
「ヒナ……ヒナ……」
今度は男の人の声。
目を開けているのか閉じているのかもわからない暗闇の中で、私は暖かい何かに包まれているような気がした。
「ヒナ……ヒナ……」
「ヒナ……ヒナ!」
「ヒナッ!」
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