32ページ目 ヒナのお部屋

「はぁ~、いいお湯でした~」



 私は自分の部屋に戻るなり、ドアから一番離れた部屋の隅のシングルベッドに飛び乗った。一度大きく跳ねて、フカフカの布団に沈み込む私の体。


 熱いお風呂にゆっくり浸かり、つま先から太ももにかけて、揉み解すようにマッサージをした。濡れた髪にアウトバストリートメントを丹念に浸透させ、フワフワのお日様の匂いがする白いタオルで、優しく押しつけるように水気を拭き取る。そして、ドライヤーを使い時短で髪を乾かし部屋に直行。


 一日の終わり。のんびり出来る時間、ホッと一息つける場所。

 お母さんは今日、お爺ちゃんの病院へ行っている。

 病状が悪化したという訳ではないけれど、眠り続けるお爺ちゃんのそばから離れようとしないお婆ちゃんを、連れ帰りに行っていた。

 放っておくと、お婆ちゃんは毎日病院へ泊まり込む勢いだった。

 私も毎日病院へ顔を出している。お婆ちゃんも喜ぶし、きっとお爺ちゃんだって喜んでいるに違いない。可愛い可愛い孫が顔を見せに来るんだから。

 私はお婆ちゃんが病室を離れた隙をついて、眠るお爺ちゃんに革ジャン先輩の話をする。革ジャン先輩に教わった印刷の話を。

 毎日、それが日課だった。


 ベッドの上に無造作に転がる三つのモフモフクッションの内の一つ、大きく長い抱き枕クッションを引き寄せ、ギュッと抱き締める。そして、ベッドの上を左右にコロコロと転がった。

 クッションのモフモフが気持ちよくて、回す腕に力が入る。

 木にしがみつくコアラのような格好で両足を絡め、腕から飛び出したクッションにポフッと顔を押し付けた。

 ふと、学校で友達に言われた台詞が頭を巡る。



「で、気になる男でもいるの?」



    *    *    *


 今日の人文学科の講義は、思わず笑いが込みあげてくるくらい面白かった。

 近現代文学と印刷技術の歴史。

 それは、革ジャン先輩に教えてもらった事ばかりだった。

 私は一人、教室の片隅でほくそ笑んでいた。この講義を受講している誰よりも、私は印刷の事を知っている。もしかしたら、目の眩む光を頭頂部から放つ講師よりも、詳しくなってしまったかもしれない。――なんて、優越感があった。

 そもそも講師ですら、間近で印刷機なんて見た事がないかもしれないのに。

 フフッと時折漏れる鼻息に、周りの子たちが訝し気に私をチラチラと見ていた。


 講義の後、キャンパスの中央に建つ時計塔を囲むように並ぶベンチで、私は家から持参したハードカバーの小説を上機嫌で読み耽っていた。

 本を読んでいると、誰にも声をかけられない。本に没頭できるから、私にはそれが好都合だったけど。

 三十年前――私が生まれる前の、アメリカ人作家の書いた小説の翻訳本。

 端が少し黄ばんだカラーの表紙カバー。総ページ数400ページ。



「ヒナ~! ま~た、レトロチックな事やってんの~?」



 後ろからの呼びかけに、私は振り返りもせず淡々と字面を追っていた。

 声で誰かはわかっている。昔から本ばかり読んでいる私の、数少ない友達の一人、マキちゃんだ。

 レイヤードカットのライトブラウンの髪に蜻蛉の眼鏡をかけ、細身のブルージーンズとTシャツを合わせたボーイッシュでラフな格好。粗雑にも見える服装も彼女にかかれば、媚びない女のCool Styleと称されるのだ。

 マキちゃんは私と違って誰とでもすぐ仲良くなり、男の子達にも人気があった。可愛さは私の方が上だけど。男の子はマキちゃんのような明るい娘がいいんだよね?

 ちょっと――ちょっとだけ、理不尽に感じる。



「ヒナッ! 聞こえてる癖に無視すんな!」

「うっさい、あっち行け! 私は本を読みたいの!」



 別にマキちゃんの事が嫌いな訳じゃない。むしろ、人付き合いの悪い私でも、気にかけてくれる事はありがたいと思う。けど……

 私はマキちゃんが言う『レトロチック』って言葉が嫌いだ。大嫌いだ。

 今で言うレトロは、古きよき時代を愛するなんて意味はなく、ただひたすら『古い物を珍しがり懐かしむだけの単なるデカダンス』としか見ていない。

 本が好きと言うだけで、なんて酷い言われようだ。



「何よぉ~、相変わらずつれないなぁ~。今時、本なんてなくない? ヒナだってそんなのポーズじゃないの? 今は誰もがこれでしょ?」



 マキちゃんはそう言うと、上下左右に指先を細かく動かす。

 わかっている。私だって使っているし。けど、ネットで本を読むよりも、実際の本を手にしたいんだよ。

 私はマキちゃん言葉をさらりと受け流し、再び本へ視線を落とした。



「ねぇ、ヒナぁ? 合コン行かなぁい?」

「行かない」

「彼氏欲しくないのぉ?」

「いらない」

「そっかぁ……で、気になる男でもいるの?」



 ボッっと火を灯すように、一瞬にして高揚する私の顔。

 スライドショーのように脳裏を横切ったのは、無邪気に笑う革ジャン先輩の顔だった。

 私は勢いよく顔をあげて、頬がプルプルと揺れるほど激しく首を振った。



「なっ、そんな事……」

「いいよ、わかってるから。最近のヒナ、人当たりがよくなったし、凄く優しい顔になったよ? 自分では気づいてないかもしれないけど、前よりずっと可愛くなった。私は男が出来たんじゃないかって踏んでいるんだけど……」

「ないから! 絶対に、ない! 革ジャン先輩は……あっ」



 慌てて両手で口を押さえる。

 たまたま――普段一緒にいる事が多いから口をついて出ただけで、革ジャン先輩は何でもない。余計な事を口走ってしまった。

 マキちゃんは耳ざとく、ピクッと片方の眉を上げる。



「革ジャン先輩~? だ~れ、その男? ヒナは私の認めた男以外……あっ、ちょっと!」



 こんなに火照った顔を見られたら、また何を言われるかわからない。

 マキちゃんの顔を見もせず、台詞を最後まで聞きもせず、私は一目散に逃げ出した。



    *    *    *


「革ジャン先輩……」



 急に革ジャン先輩の所へ行きたくなった。印刷の事を教えてもらいに。けど、この場所ではPaFウォッチはピクリとも動かなかった。

 私はクッションから目だけを覗かせ、思い出すようにグルリと視線を彷徨わせる。そして、自分の口から漏れた言葉に思わず恥ずかしくなり、再びモフモフに顔を埋めた。


 コンコン……


 不意にドアが小さな音を立てる。

 私はクッションを抱いたまま立ち上がり、息をひそめドアの横に寄った。

 お母さんはまだ帰って来ていない。シックな焦げ茶色のドアの向こうにいるのは、お父さんに間違いない。ノックしてまで私に用があるなんて、一年で二度もない事だ。今年はもう、お爺ちゃんが倒れた時に一回聞いた。もう、この先一年はないはずなのに。



「ヒナ、ちょっといいか?」

「何?」



 私はドアを開けず、お父さんの言葉に耳を傾ける。

 私からドアを開けなければ、無暗やたら部屋に入ってくる事はない。年頃の娘を抱えた父親なんてそんなもんだ。



「まだ印刷の勉強なんてしているのか?」



 お父さんが部屋に来た段階である程度の予測はついていた。けど、この話をお父さんとするつもりはない。お母さんもそうだけど、反対されるのは目に見えている。

 私はただ、沈黙を貫いた。



「俺は反対している訳じゃないんだ。けどそれは、ヒナの将来に取って本当に必要な事なのかな? だいたい今さら印刷なんて、この先消えてなくなる物だろ?」

「そんな事ないから!」

 ドンッ!!



 私はドアの横の壁を背に、握り拳をドアに向かって振り抜いた。

 確かにお父さんの仕事は時代のニーズに沿った、最先端の仕事かもしれない。

 今の時代、日本のゲーム業界から派生したコンピューター周辺機器産業は、日本のみならず世界を席巻している。机の上に置かれた対話型の家庭用デバイスやピジョンもその内の一つだ。

 だからと言って、印刷をガラパゴス現象の一部として考えるのは早計極まりない。以前はゲーム業界だって、あんなに印刷に依存していたのに。



「すまなかった。俺が悪いんだ。ヒナに革ジャン先輩の話なんてしたから……」

「ヤメて! そんなの関係ないから! 私はただ印刷の事が知りたいの!」

「関係ないなんて事ないだろ? 革ジャン先輩に印刷の事を教わってるなんて、馬鹿な事を言い出すから。だって、革ジャン先輩はもう……」

「Hi! nanny! 90'sのHRかけて! ボリューム60」

「かしこまりました」



 机の上の対話型デバイスから流暢な声が返ってくる。その声の後を追うように、8ビートの重低音が部屋をビリビリと揺らす。

 私はベッドに飛び乗って、丸い大きなクッションに顔を沈める。そして、手探りで残り二つのクッションを引き寄せ、両手で頭に押し付けた。

 ドアの向こうからお父さんの声は聞こえない。何かを言っているのかもしれないけど、部屋に充満した音の粒が他の総てを消し去っていた。 

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