28ページ目 製版機
「ふぅ、すっきりしました」
狭く古びたトイレを後に、私は流しで手を洗い小さく息をつく。
ちょっとインキの事を聞きに行くつもりが、思いの外革ジャン先輩が詳しく教えてくれたので、思わず長居しちゃいましたよ。
胸の奥に引っ掛かっていたモヤモヤが消え、雲一つない青空のように澄み渡ってます。
えっと、ハンカチ……ハンカチ……
印刷機の向こうから、革ジャン先輩が顔を覗かせる。
「いっぱい出た?」
「なー、何て事言うんですか!? セクハラですよ、セク……」
なんて、怒ったりしませんよ、私は。
今やもう、目の前であくせく印刷機を操作する革ジャン先輩よりも、インキの事を知ってるんですから。インキマイスターですよ、博士号です。
フフンッと鼻歌を歌いながら、上機嫌で革ジャン先輩の隣に寄る。
革ジャン先輩は怪訝な表情で僅かに身を引いた。
「何だよ、気持ち悪いな」
「女の子に向かって、そんな事言っちゃあ、ダ、メ、で、す、ヨッ」
革ジャン先輩の脇をツンと突っつく。
ブルッと身震いして、自分の両腕を抱きかかえるように、何度も上下にさする革ジャン先輩。眉を八の字に歪め、その目には恐怖の色が浮かんでいる。
怖がらなくてもいいですよ。今の私は革ジャン先輩よりも凄いんですから。ちょっとやそっとの事じゃ怒ったりしません。
「トイレで何を出すとそこまで機嫌よくなるんだ? あっ、詰まって……なるほど、なるほ……」――ドスッ!!――「ど」
「サイテーです! 私、女の子ですよ? 普通家族にも言いませんよ、そんな事」
私の肘が革ジャン先輩の鳩尾にめり込み、体をくの字――つの字に曲げる革ジャン先輩。くの字よりも角度がきついんです、つの字は。
私は腕を組み、お腹を押さえて小さく蹲る革ジャン先輩を、柳眉を釣り上げ冷ややかな目で見おろした。
女の子に向かって、男の人がトイレの話をしちゃ駄目です。お花摘みに行ってるんですから。あっ、実際は未来へ行ってたんですけど。
「ちょっと未来へ行ってきます」なんて言ってトイレへ行く女の子は、世界広しと言えど私くらいのもんです。
「イタタタ……いつから女の子は鼻の穴おっ広げて、男に肘鉄食らわせるようになったんだ?」
「鼻の穴なんか広げてませんよッ! ほんっっっっとに、口の減らない人ですね」
「わかった、わかったから、そんなに怒るなって。それよりどうする? さっき、インキ練り終わっちゃったから、印刷するだけなんだけど」
印刷機に手を添えて、フラフラと立ち上がる革ジャン先輩。肩眉を下げ、口をへの字に曲げる。
そうですね。学んできたインキの知識を踏まえて、もっとこの時代の特色練りも見ておきたい所ですけど、もう一度作ってもらうのも革ジャン先輩に悪いですよね。
それに、私の方がインキに詳しいですし。
自然に緩む口元。
「そうですね。特色は今度また見せてください。その印刷が終わったらでいいので、製版の事が知りたいです」
「ん? いいの、それで? じゃぁ、ちょっと待ってて」
インキスキルがアップし得意満面な私は、すぐに革ジャン先輩との格の違いを思い知らされる。
革ジャン先輩は作った特色インキをローラーに送り、水の入ったボトルを定位置に差し込む。そして、紙を乗せる台に10㎝ほどの高さの紙を積むと、給紙部分のボタンを押した。
ブオーっと大きな音を立てる印刷機。
紙を一枚機械に通し滑り台の上の滑車の位置を調整した後、排紙部で何やらゴソゴソとやっていたかと思うと、すぐにエッチングの機械に紙版を通した。
紙版を吸版装置に差し込みボタンを押す。
機械音を響かせ動き出す印刷機と、勢いよく吸い込まれていく紙版。そして滑り台の上を紙が流れ、あっと言う間に印刷終了。要した時間は僅か10分。
印刷は知識だけじゃ駄目だ。革ジャン先輩のような流れる様な動きが、自分に出来るとは到底思えない。完全にナメてました。
「お待たせ~。ん? 今度は肩を落としてどうした? さっきの上機嫌は?」
「いえ、(天狗になって)すいませんでした」
「は? 何? 何か謝るような事したのか?」
革ジャン先輩は不信感いっぱいに、自分の体を見まわす。そして、気持ちシュンと項垂れる私を見おろし、小さく首を傾けた。
「浮き沈みが激しいな。もしかして、せい……おっと」
「せい?」
「いや、何でも」
「せ~い~?」
「よしっ、製版の話をしようか!」
もうッ! 尊敬して損しました。生理じゃないですから。
ホント、若い頃からセクハラ大王ですよ、革ジャン先輩は。
睨みつける私の視線を逸らし、両面機の横、細い通路を挟んだ反対側にある背の高い機械を指差す革ジャン先輩。
「製版機はこれ」
「知ってますよ、関さんが製版してましたから。ピカッて光るんですよね?」
腰の辺りの高さの台に、上に開くタイプの蓋のようなガラス板がある。
私はガラス板の上に頭を突っ込み、正面からは見えない上部を覗き込む。そこには角度のついた大きな鏡があった。その鏡に向かって、蛇腹の黒い物体が機械からのびている。
革ジャン先輩は後ろの棚に積まれた原稿――8ページ掛けの原稿を上から一枚取る。そして、ガラス板を持ち上げ、台一面に記された方眼に合わせるように原稿を置いた。
「製版機はカメラだ」
「は?」
「原稿を撮影して写真の代わりに紙版に現像する。それが製版機なのだ」
「どうだ」と言わんばかりに、ドヤ顔で製版機に向かって手を広げる革ジャン先輩。
その癪に障るドヤ顔はともかく、これ以上ないくらい簡単でわかりやすい説明ですね。
革ジャン先輩は正面のボタンを操作する。すると、横並びの7セグメントLEDが81の数字を表示して、何がゆっくりと動く機械音が耳に飛び込んできた。
「今、カメラが動いて縮率を変えている所。ほら、ここ」
革ジャン先輩は下から覗き込み、蛇腹の黒い物体を指差した。
ああ、これがカメラなんですね。そう言えば、古いカメラの写真で、こんな形のカメラを見た事があります。
「縮率を変えるって、何でですか?」
「おいっ! 面付けしたのにわからないのか? この貼り合わせた4枚の原稿の内、1枚の原稿の大きさは?」
「えっと、B5ですね」
「じゃぁ、8ページ掛け――貼り合わせた片面4枚の原稿の大きさは?」
「B3です」
「ウチの印刷機はB3の紙が印刷できると思う?」
革ジャン先輩はチラリと両面機を見る。そして、ふと思い出したように眉をしかめ首を傾げた。
「ん? 印刷機の最大紙サイズの話をした記憶がないぞ? 紙の説明をして、モルトン機の説明をして……あっ、途中で自己製本のお客さんがおりてきたから最後まで説明してなかった」
「もうッ、革ジャン先輩ったら。な~んて、今まで教えてもらった事だけで、B3が印刷出来ない事くらいわかりますよ」
「ゴメン、ゴメン。ここでさらっと教えると、ウチの印刷機の最大用紙サイズはA3。最小サイズははがきサイズ。なんだけど、滑り台がある片面機と両面機は、小さいサイズの紙は面倒なんだ。だから、だから小さい印刷機――モルトン機を使う。これを説明したくて紙のサイズを教えたのにな。何やってんだオレは」
申し訳なさそうに首を窄め、ポリポリと頭を掻く。
私に教えている最中でも、お客さんは待ってはくれないですものね。いいですよ、許してあげます。だから、優しく教えてください。
「え――っと、どこまで話したっけ? そうだ、印刷サイズだ。A3の紙に4
枚の原稿が入らなきゃいけないとなると、1ページの大きさは?」
「A5ですね」
「ん、もうサイズはバッチリだね」
「革ジャン先輩のおかげです!」
「さて、じゃぁここからが本題。B5の原稿をA5にするには?」
「ああッ! そこで縮率って訳ですね? えっと、B5からA5だから…」
ジャケットのポケットから小さなメモ帳を取り出す。見えない所でちゃんとメモしているんですよ。シッカリした女の子なんです、私は。
えっと、B5が257㎜×182㎜でA5が210㎜×148㎜だから、どうすればいいんだろう? 取りあえず長い方で計算すると、210÷257=0.817だ。短い方は、148÷182=0.813だから……原稿が大きくなると、断ち切りサイズからはみ出ちゃうかもしれないから、この場合は切り捨てで、縦も横も0.81――81%!
「革ジャン先輩ッ! 81%になりました! 表示と同じです!」
「そういうこと。原稿のサイズを、実際の印刷サイズに縮小、または拡大して製版しなきゃいけないんだよ」
カメラと言っても、ただのカメラじゃないんですね。
印刷サイズに合わせて、紙版に原稿を現像する機械。それが製版機です。覚えました、バッチリです。
ん? 製版機はカメラ――なんですよね? いい事、思いついちゃいました。
私はしゃがみ込み、カメラとガラス板を交互に見る。そしてガラス板に両手を掛けたまま、革ジャン先輩を振り返る。
「カメラって事は、私も写せるんですよね? 愛くるしいこの顔を、パシャッと紙版に現像して印刷したら、きっとアイドルの写真以上にみんなが欲しがりますよ」
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