27ページ目 色とクレーム

「あれって、インキですよね? 革ジャン先輩が練った」

「そう。オレが作った特色インキの取り置き」



 私は小走りでステップを駆けあがると、膝に両手をつき腰を屈める。

 ステップに上ってなお、私の背丈ほどある木製の棚。

 三段に分けられたその棚は総て、インキの缶が並べられていた。よく見ると番号で分けてあるのがわかる。

 100番台まで、200番台まで、300番台まで、そしてそれ以降。後は誰かの苗字? 会社の名前? で区分されていた。



「やっぱり、インキを取ってあるんですね? じゃぁ、何でバキュン年前の革ジャン先輩は作ったインキを捨てちゃっていたんですか?」

「あー、同人誌はよっぽど人気がないと重版しなかったし、重版するほど人気のある同人誌はカラーの表紙ばかりだったからな。特色を使った表紙はリピートが少なかったんだよ。それに基準色がセット価格だったから、同人誌で特色を使うお客は数えるほどしかいなかった。0ではなかったけどね」



 そう言えば、バキュン年前に革ジャン先輩が働いていたお店は、同人初心者のお客さんが多いっていっていましたよね? 初めてで勝手もわからず、お金だってかけられない。わざわざ特色を選んで注文するお客さんは、確かに多くなさそうです。



「けど、この取ってある特色のインキとお客さんの文句と何の関係があるんですか?」

「今の仕事は色に拘る一般のお客が多いからね。それに今までのインキの話を思い出してみればわかるんじゃないか?」

「今までの話――ですか? 明るい色は中間色のインキがないと作れない――とか、紙によって色の見え方が違う――とかですか?」



 革ジャン先輩はパンッと大きく手を叩いて人差し指を立てた。私は小さく肩を弾ませる。ちょっとビックリしました。

 期待に満ちた視線で私を見つめる革ジャン先輩。

 ごめんなさい。自分で言っておいて何ですが、そこからまったく答えに辿り着けません。

 私は気持ち俯き、恐るおそる革ジャン先輩を見あげる。



「仕事のリピートがあった時にインキを取ってあると便利だから?」

「それもある」

「他にもあるんですか? えっ――と、……インキがあると、仕事のリピートが来た時に便利だから?」

「もっしもーし、ヒナさーん? それは同じ答えですよー?」

「えっと、あの、その……」



 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる革ジャン先輩。あの笑い方は絶対に楽しんでいるに違いない。幼気な美少女が困っているのを下卑た笑みで見ているだけなんて、悪趣味にも程がある。ドSですよ、ドS!

 そんな革ジャン先輩の視線の矢にチクチクと刺されながら、私は深く深く眉間に皺を寄せる。絶対にから煙が出てるに違いない。何か頭の中でプスプスと回路が短絡している音が聞こえる。私は大きく髪を振り乱し、両拳を太ももに打ち付けた。



「もうッ! 意地悪しないで教えてください!」

「えー、ヒナちゃんならわかる筈だからもう少し考えてみなよ」



 革ジャン先輩は小さく息を吐き肩を竦める。

 私の答えを――期待している? 私、期待されてる? ちょっとヤル気が出てきちゃいました。意地悪なんて言ってごめんなさい。

 鼻息を荒くして、革ジャン先輩に頭をさげる私。革ジャン先輩は私の頭にポンポンと手を置いた。



「お客から預かった、上質紙に印刷された見本があったとします。その色をカラーチャートで調べたら255番でした。さぁ、カラチャートを調べてみよう」



 カラーチャートを広げ255番を確認する。

 中間色のインキ――藍と紅と墨の%が記された紺色だ。



「紺です」

「うん、その通り。じゃぁ、インキをどうやって作る?」

「は? どうやってって、ここに%が書いてあるじゃ……」

「ヒントは上質紙」

「えっ? 上質紙だと何か違いが……あっ! 色が薄く暗くなっちゃうんだ」

「そう、で?」

「で? 上質紙の見本を見て255番だったんですから、上質紙に印刷した時に255番になる色を作らなきゃいけないんですね?」



 パァッと頭の仲が冴え渡る。回路が突然自己修復し、もの凄いスピードで演算処理を始める。頑張れ私のスーパーコンピューター。

 なのに、回路の一部の流れが滞り、突然集中電源がバツンと落ちた。思考回路の停止。



「でもそんな色、どうやって作るんですか? 薄くなるだけなら濃く印刷すればいいんでしょうけど、明るくするには? 墨を減らせばいいんですかね?」

「それでもいいけど、インキは濃くしても暗くなる。濃度をあげた上に明るくするには、書いてある配合のインキじゃなくて中間色のインキを使うんだ」

「うわっ……面倒ですね。それじゃあ、作った人にしかわからないじゃないですか。あっ……」



 だから取っておくんだ。

 リピートがあるとわかっている仕事の場合、どうやって作ったのか一つ一つ管理できない。それは、この棚に並んだインキの数を見ればわかる。

 インキさえ取ってあれば、同じ色で印刷することが可能だ。もしインキが足りなくなっても、革ジャン先輩なら色の変化が少ないコート紙で、追加のインキを作る事が出来る筈。さっきやったようにペタペタと。私じゃ到底同じ色にはならないでしょうけど。

 革ジャン先輩は小さく頷き口の端をあげた。

 


「わかった? まぁ、全部が全部その理由って訳じゃないけど。企業のロゴのようにシビアな色の場合もあれば、注文が多い色ってのもある。リピートの多い、指定ナンバーにない色とかもある。印刷した物にクレームが来ないよう、インキの保管は必要なんだよ」




************


 革ジャン先輩です。

 色のクレーム――結構多いです。

 カラー印刷の色のクレームはある意味簡単なんです。何故なら4色しかないから。写真が赤くなっているとか青くなっているとか、そんなクレームですね。

 それに比べ、特色のクレームはたちが悪いです。


 指定ナンバーの注文なんて難しくもなんともないんですよ。

 怖いのは添付された色見本です。

 そもそも見本として添付された色が、何色で作られているのかわかりません。そこはオペレーターの経験とセンスです。

 インキは印刷したばかりと乾いた時でも、微小ですが色が変わります。

 使用するインキ、紙の種類、乾いた後の色の変化まで想定して特色を作ります。


 以前テレビの専門職番組で、とある印刷会社が放送されました。その番組でナビゲーターが、さも驚いたように語っていました。

『このオペレーターは指定番号の間の番号(例えば198番と199番)の間のインキを作る』と。

 翌日、それを見た会社の新人が笑っていました。



「そんなの、革ジャン先輩は当たり前のようにやっているって思いましたよ」



 まぁ、それが出来なきゃ仕事になりませんから。

 それでもクレームになった例はいくつもあります。

 今でも忘れられない仕事の一つになっているのが、A3サイズの塗りつぶし――ベタ印刷です。

 それは指定ナンバー161番(超シビア)のベタ印刷の仕事でした。

 ベタを印刷するには、印刷面が多い為にインキを沢山出さなければいけません。インキは濃度で暗くなる(色が変わる)のを踏まえて考えてみてください。

 私はベタが薄くなるのを恐れるあまりインキを出しすぎ、ベタの色が161番よりも濃い160番に近くなってしまったのです。

 もちろんクレームです。刷り直しです。

 最悪な事に、ベタの表紙はマットPP加工され、本文と一緒に製本された後でした。恐ろしい話です。


 オペレーターの特色の経験は、失敗から学ぶ事だと私は思っています。

 なかなか失敗が許される世の中ではないのですが。


************




「何か考えるだけで恐ろしい世界ですね、インキの世界って」

「今までどれだけインキを練ってきた事か。まぁ、インキに関してはまだまだ話す事はあるけど、取りあえずはこんなもんで満足?」

「はいッ! とても勉強になりました」



 深く深く頭をさげる。

 この大きな棚に並んだ何百ものインキは、印刷オペレーターとして歩んできた革ジャン先輩の努力の結晶なんだ。

 インクで汚れたラベル。ミミズが這ったような読めない字で書かれた番号。見てくれはとても綺麗とは言えない缶の山。それでも、とてもとても大切な物に思えてくるから不思議だ。


 あっ、もしかしたら私、バキュン年前の革ジャン先輩よりインキの事が詳しくなっちゃったんじゃないですか? どうしましょう? 私が優しく教えてあげるっていうのも手ですけど……



『ありがとう、ヒナちゃん。お礼に何か食べに行こうか? 好きな物ご馳走するから何でも言って。あっ、お酒飲める年だっけ?』



 なんて言われちゃったり。

 ええ、お酒飲めますよ。実は結構好きですよ。

 そんな、男の人と二人で飲みに行くなんて――駄目ですよ。お父さんやお母さんに怒られちゃいますから。ちょっとだけ、ちょっとだけなら……イヤだなぁ、革ジャン先輩。酔った私に何するつもりですか?



「何、ブツブツ言ってるんだ? ニヤニヤしてるし、怖いぞ?」

「ハッ!? なっ、何でもありません!」

「まぁ、あの頃のオレは経験が少ない訳だから、そこは許してやってよ」

「経験!? 何の!?」

「んあ? インキの事だろ? 他に何かあるのか?」

「いえ……何でもない……です」



 俯く私。多分、顔は真っ赤だ。触ってわかる位、顔が火照っている。

 まったくもって、自分が恥ずかしい。

 可笑しな妄想を巡らせている場合じゃないですから。

 さぁ、バキュン年前に戻りますよ! 

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