第51話《クランクイン》
ここは世田谷豪徳寺・51(さくら編)
《クランクイン》
クランクインは大阪だ。
まあ、舞台の大半が大阪なんだから、当たり前。
最初は鶴橋駅でのシーンから。
はるかが初めて母といっしょに鶴橋の駅経由でアパートに帰る道すがら、ホームにまで、立ちこめる焼き肉の匂いに母子もお腹の虫もびっくりするところ。
「日本で一番おいしい匂いのする駅だ」
はるかの独白から始まる。で、エスカレーターの乗り方が東京と逆で、歩く人のために左側を空ける。それを知らずに左側に立ち、邪魔になってオッサンに怒鳴られる。
「大阪っておっかなーい」
この十数秒のカットと、他に5カットのために、終電が出たあとの鶴橋駅を借りる。エキストラは50人だけど、CG処理で、数千人に見せるそうだ。で、この撮影に、あたしは参加していない。鶴橋駅では出番がないから。
二日目の志忠屋の撮影から参加した。
志忠屋が実在の店であることは知っていたけど、15坪15席の店内が、広く見えるようにレイアウトしてあるのにはビックリ。撮影用じゃなくて、普段からそうだと、マスターの滝川さんに聞かされて感心した。
マスターの滝川さん役は、監督と作者の大橋先生が相談して、リアル本人にやってもらうことになっている。
本人を見て納得した。シェフのナリをしていなかったら、どう見ても、その道の玄人。子分の百人もいようかという風格。それに若い頃は役者の真似事もやっていたようで、芝居も上手いらしい。
「お、はるかちゃん……やな?」
これがマスター……がっしりした上半身がカウンターの中で、ロバート・ミッチャム(親の趣味でわりと洋画とかにもくわしい)の顔をのっけて振り返る。ただしチョンマゲ!
「母がお世話になっています。ご……坂東はるかです。マスターさんですか?」
「まあ、お座り」
「あ、はいっ!」
すると、奥のトイレからジャーゴボゴボと音をさせて、お母さんが出てきた。
「あ、はるか。思ったより早かったじゃない」
「初日だもん。でも中味は濃かった!」と、立ちかける。
「タキさん。トイレ掃除完了。あとやることあります?」
「ないない、トモちゃんも落ち着こか」
タキさん、トモちゃん……初日から、もうお友だちかよ。
「お母さん、これから教科書と制服いくんだよね……!」と、ドアに向かう。
「え、ああ、あれね……」
あ、また忘れたってか……!? 自動ドアに挟まれそうになって止まる。
「あれ、行かなくってもいいことになった」
「え、どういうこと(まさか、また学校替われってんじゃないでしょうね)!?」
「送ってもらうことにしたから。今夜には家に着くわ」
「だったら、言ってよ。わたし友だちのお誘い断ってきたんだからね!」
「あら、もう友だちできちゃったの!?」
「さすが、トモちゃんの娘やなあ」
「原稿の締め切り迫ってるからさあ……」
「まあ、昼飯にしよ。はるかちゃんも、口さみしいやろから、これでも食べとき。それから、オレのことはタキさんでええからな」
タキさんは、サンドイッチを作って、オレンジジュ-スといっしょに出してくれた。
そして、タキトモコンビの前には、毛糸にしたら手袋一個と、セーター一着分くらいのパスタが置かれていた。想像してみて、セーター一着ほどいた毛糸の量のパスタを!!
ここで怒っても仕方ないので説明。
目の前で、アッケラカンとパソコンを叩いている坂東友子。つまり、わたしの母は、つい一週間前に離婚したばっか。
離婚の理由は、長年夫婦の間に蓄積されてきたもので一言で言えるようなもんじゃない。
でも、離婚に踏み切れた訳はこのパソコン。
わたしが、まだお腹の中にいたころに暇にまかせて書いた小説モドキが、ちょっとした文学賞をとっちゃって、以来、この人は作家のはしくれ。
「ハシっこのほうで、クレかかってるんだよね」
そう言って、怖い目で見られたことがある。だって、本書きたって年に二百万くらいしか収入がない。最初はよかった。お父さんはIT関連の会社を経営していて、お家だって成城にあって、住み込みのお手伝いさんなんかもいた。
でも、わたしが五歳のときに会社潰れて、お父さんは実家の印刷会社の専務……っても、従業員三人の町工場。で、そのへんからお母さんの二百万が、我が家にとって無視できない収入源になってきて、あとは、世間によくある夫婦のギスギス。
かくして夫婦の限界は、先週臨界点を超えてしまい決裂。
「よーく分かったわ。はるか、明日この家出るから、寝る前に用意しときなさい」
二人の最後の夫婦げんかは、明日の天気予報を確認するように粛々と終わっていた。わたしも子どもじゃないから、ヤバイなあ……くらいの認識はあった。でも、こんな簡単に飛躍するとは思っていなかった。
そして、まさか大阪までパートに来るとはね……。
作家というのは意表をつくものなんですなあ……って、タキさんもなんか書いてる!?
「ああ、これか……おっちゃんも、お母さんと同業……かな」
「タキさんは、映画評論だもん。ちょっと畑がちがう……」
カシャカシャカシャと、ブラインドタッチ。
「せやけど……それだけでは食えんという点ではいっしょやなあ……」
シャカ、シャカ……と、老眼鏡に、原稿用紙……なんというアナログ!
「おれは、どうも電算機ちゅうもんは性に合わんのでなあ」
ロバート・ミッチャムはポニーテールってか、チョンマゲをきりりと締め直した。店を見回すと、壁のあちこちに映画のポスターやら、タキさん自筆のコメント。
「……ところで、はるか、学校はどないやった? もう友だちはできたみたいやけど……」
百年の付き合いのような気安さで、タキさんが聞いた。
「うーん……ボロっちくって暗い。でも人間はおもしろそう。今日会ったかぎりではね」
「どんな風にボロっちかった?」
原稿用紙を繰りながら、横目でタキさん。
「了見の狭い年寄り。ほら、こめかみに血管浮かせて、苦虫つぶしたみたいな」
「ハハハ、ええ表現や。たしか真田山やったな?」
「あ、わたし演劇部に連れてかれちゃった」
「え、はるか、演劇部に入んの!?」
お母さんが、目をむいて聞いてきた。
「図書の先生がね、演劇部の顧問。でね、本を借りたら、そういうことになっちゃって」
「演劇って、根性いるんだよ。その場しのぎのホンワカですますわけにはいかないんだよ」
「なによ、その場しのぎのホンワカって!」
当たっているだけに、むかつく。ちなみにホンワカは、東京以来のわたしの生活信条。
「はるかは、本を読んではおもしろがってるしか、能がない子なんだよ」
あ、暴言! それにはるかの苦労は、あなたが元凶なんですぞ。母上さま……!
「で、どや、おもしろかったんか?」
「大橋っておじさんがコーチ。変なオヤジかと最初思ったけど、わりとおもしろそう」
「大橋て、ひょっとして大橋むつおか? 字ぃのへたくそな」
「うん、有名な人なの?」
「オレのオトモダチや」
「え!?」
母子は同時に驚いた。
これだけのシーンが、ランスルー、カメリハ、そして本番は一発で決まった。
あたしは、次のシーンに備えて見てるだけだったけど、このシーンの柱になっているのがタキさんだということがよく分かった。
「いやあ、タキさんは若い頃から、極道寸前の人生やったから、並の役者では味が出えへん」
大橋先生の弁。いや、おっしゃる通りです。
大橋先生は、見学に、新幹線で出会った車内販売の岸本というオネーサンを連れてきていた。先生は、とっくに現役の教師は辞めていたが、アフターサービスの行き届いた人だ。休憩中なんかには、岸本さんの話をよく聞いていた。どうやら、夫婦関係で悩みがありそう。
気になったあたしは、午後の休憩で聞いてみた。
「あの、岸本さん、夫婦関係の悩みだったんじゃないんですか?」
「せや。でも撮影現場見て決心しよった」
「どんな風に?」
「別れよる」
「別れさせたんですか!?」
「あいつは最初から結論持っとった、俺は後押ししただけや。年寄りの仕事。しかし、さくらも、人間に興味があるようで結構やな。役者は、こうでないとな。せやけど、今の話は内緒な」
知り合って、まだ三回しか会ったことのない先生だけど、もう百年の知り合いのよう。はるかさんの人生は、こういう距離感の取り方の人たちの中で決まっていったんだ。
自分の、鈴木由香という役が、一歩近くなったような気がした。
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