第180話
マーズ・リッペンバーは交番に居た。理由は単純明快、現実と乖離している恰好をしていたからである。普通はコスプレの類かと思われるかもしれない。しかしそれも時と場合による。実際問題、マーズ・リッペンバーの恰好をどう思うかと言われれば、この世界の感性からしてみれば、それは間違いであると言えるだろう。少なくとも、この時間にうろつく人間が着ていい恰好では無い。
交番に居る警察官は欠伸を一つして、調書を取っていた。調書と言っても、個人情報や何をしていたかなどを記載して、それによって判断を下すものである。大抵はそのまま返すのだが、今回は違った。
あまりにもマーズの恰好が奇特だったのか、或いは警察官の勘というものが働いたのか、このまま彼女を置いておこうという結論に至ったのである。ほんとうならば、直ぐにでも署に送り届けたいところだが、もう時間も遅く、今そこに居る彼だけが交番を守っている形になる。彼がマーズを送り届けたところで、交番がすっからかんになってしまっては話にならない。だから彼女と時間を潰すしかないわけだった。
「ねえ、どうして早く出してくれないの? 私は早く元の世界に戻りたいのよ!」
「はいはい、元の世界ねえ。そんなもの、ほんとうにあるのかい? あるのなら僕だって移動したいものだよ。最近は退屈で……。もっと何か面白いことがあればいいのに、って思うよ。LTEやインターネットが発展したせいかもしれないが、世界の情報をこの手のひらにある端末で集めることが出来る。普通に考えれば素晴らしいことなのかもしれないが、平和そのものが愛しいと思う人間も居れば、平和に飽きが来ている人間だっているわけだ。君はどう思う?」
「私ですか……。私は平和が好きですね。やはり、戦うのは良くないですよ」
自分はいったい何を話しているのだろう――と思った。急いでこの世界の存在を調べなくてはならないのに、このような世間話をしていること自体時間の無駄であることは理解していた。
「あの、ですから……。出していただけないでしょうか?」
「だめだ。そもそも君は身分証を出していないだろう。それで身分を確認しないと、ダメだ」
「身分、ねえ……」
そもそもポケットが無いスーツなので、身分証なんてあるはずもなかった。
というより、どうしてこの二人は言葉が通じているのだろうか?
マーズもそれは不思議なところだと考えていたが、あまり考える必要も無いと思った。考えたところで何かが生まれ何かが解決するとは思えないからである。
「そうだ、身分だよ。それが明らかにならない限り、私は君をここから出すことは出来ない。それくらい解ってもらえないだろうか」
出す気が無いことくらい、マーズにも解っていた。
だからここからどう脱出するか――それが一先ずの課題となっていた。
「いいから! 早くここから出してください。そうじゃないと、大変なことに……」
「そう何度も言っているけれど、警察だって君の戯言を対応する暇なんて無いの。解る? いい年齢して、そんなぴちぴちの服着てさ、何がしたいのか解らないけれど、東京だって平和な街では無いのだよ? たとえば麻薬の売買、或いは売春、果てには強姦だってありうる。……まあ、さすがに最後は言い過ぎだけれど。東京という街が、治安の良さで有名とか、けっしてそういうわけでは無い。東京もほかの都市に例が漏れず、ただの街だということだよ」
「だから、そういうことではなくて……」
「失礼する」
二人の会話に割り入ったのは、大男だった。
交番の入り口程はあるかと思われる身長の男は、少し屈みながら中へと入っていた。夏の暑い時期であるというのに、白いトレンチコートを着ていた。
変な男だな、とは警官も思ったが、それ以上は何も考えず、立ち上がる。
「どうかなさいましたか?」
「彼女の保護者だ」
それを聞いて一番に驚いたのはマーズだった。当然だ、右も左も解らないこの世界で保護者なんているわけがない。だから、それは嘘であるとすぐに解った。
(敵なのか、味方なのか……?)
マーズは考え、そちらを見る。
大男はマーズの視線に気づき、ウインクする。
(一先ず、信じていい……ってことか?)
マーズは思った。
大男は話を続ける。
「わたくし、こういう者でして」
下手に出て、警察官の警戒を少しずつ解いていく。
警察官は男が渡した名刺を受取る。
「……やや、同業の方でしたか。ならば、問題ありません」
敬礼をして、マーズに近寄る。
「君も人が悪い。同業と知り合いならば早めに言ってくれればいいものを。おかげでこんなに時間がかかってしまった」
「……ええ、それは、申し訳ないわ」
そしてマーズは交番から解放された。
時刻は午前一時。もう夜も深いが、未だ車も人も疎らに居る。東京は眠ることのない街だ。ネオンサインが夜中ずっと点いているし、深夜でも自転車や車が往来している。
その道路を走る一台の黒塗りの車。それにマーズと大男は乗っていた。
マーズは窓から見える景色を眺め、改めてこの世界が彼女の生きてきた世界とは違うことを実感した。
「……未だ理解できていないだろうが、そろそろ自己紹介といこうか」
言葉を切り出したのは大男の方からだった。
大男はトレンチコートを脱いでいて、黒いカーディガンを着用していた。それでも暑そうに見えるが、大男は暑がる様子を見せていない。
マーズは大男の様子を観察する。
大男は茶髪で、鬣≪たてがみ≫のようにぐるりと彼の輪郭を覆っていた。眼鏡をかけており、その中から蒼い目が窺える。少なくとも、見た限りでは恐ろしい人間ではなさそうだ――マーズはそう認識した。
「どうやら、私のことを味方だと認識してくれたようだね」
大男は溜息を吐く。
「何を言っているの。未だ私はあなたを信頼したつもりはない。だって、誰も味方が居ない世界に一人放り投げられて、『私は味方だ、信用しろ』と言われて信用する方がおかしな話でしょう? それはきっと、あなたの世界でも同じ価値観であると認識しているのだけれど」
「それもそうだ」
ニヒルに笑みを浮かべる大男。
車は右に曲がり、建造物の中へと入っていく。スロープを降り、地下の駐車場に車が停車した。
「降り給え。自己紹介はまた後で行うことにしよう」
「……ここは?」
マーズの質問に大男は答える。
「君を匿う場所だ。安心してくれ、ここには味方しかいないし、秘密も当然守る」
そう言って、大男は車の外に出る。
少し考えてマーズもその後を追った。
◇◇◇
警察庁神霊事象調査課第一倉庫。
それがその場所の名称だった。マーズは大男から軽い解説を受けるが、そんなこと聞いても理解できなかった。具体的には専門用語が多かった――ということだろうか。
「ここは警察庁という場所だ。ええと、君たちのいた世界ではなんと言えばいいのか……。治安維持部隊? いいや、そうじゃないな。でも、それが一番近いのかもしれないな……」
と、そんなことをぶつぶつ話しながら大男は歩いていた。マーズは俯きながら――正確には考え事をしながら歩いていた。
この世界から自分は戻ることが出来るのか。
それが彼女にとっての最重要課題だった。
そもそも戻ることが出来るのか?
戻るためにはどうすればいいのか?
思いが彼女の中で揺らいでいく。そしてその中心にはいつも――崇人が居た。
「着いた」
大男の言葉を聞いて、マーズは立ち止まる。
そこは会議室のような部屋だった。とはいえ、その広大な部屋に居る人間は一人だけ。
小柄な青年が座っていた。年齢は解りづらいが、おそらくマーズより年下。しかしながら、その纏っているオーラは完全に彼女よりも年上だ。
青年はマーズが入ってくるのを見て、笑みを浮かべる。
「はじめまして、マーズ・リッペンバーさん。僕の名前は信楽瑛仁。この神霊事象調査課……長いから僕たちは『虚数課』って呼んでいるけれど、その課長をしているよ。どうぞよろしく」
「虚数課……?」
「まあ、先ずは腰掛けなよ。取り敢えずは安座で構わない。……っと、安座の意味って解るかな?」
「安座……?」
「楽に座る、ってことだよ。変に緊張しなくていい、ってことだ」
そうなら早くそう言えばいい、とマーズは呟きながら床に座る。
「改めて、挨拶と行こう。僕の名前は信楽瑛仁。警察庁神霊事象調査課の課長を務めている。以後、よろしく頼む」
そう言って信楽瑛仁は彼女に手を差し伸べる。
そのまま彼女は彼の手を握り返す。
「さて、君が思っている疑問を一つずつ解決していくこととしよう。……先ず、この時間軸は何なのか、ということだ」
「時間軸?」
「そうだ。この時間世界はどこに所属しているのか、それを知りたいだろう。だって君は異世界人なのだから」
その指摘に彼女は驚いた。
と同時に、信楽瑛仁は微笑んだ。
「驚いたかい? 僕はこう見えても何でも見ることが出来る。それが過去であっても、未来であっても、別の世界であっても……。最後は言い過ぎたかもしれないが、いずれにせよ残りの二つは事実だよ。アカシックレコードというものがあってね、それを見ることが出来るんだよ。アカシックレコードには過去から未来まで……この世界の凡てが書かれている」
「予知能力者……ってこと?」
予知能力――正確には、予知の魔法だが――を使う人間はマーズの世界にもいる。そういう人間の大半は予知能力とは言っても広い期間の予知は出来ない。せいぜい数日が限界なので、その程度の予知能力を使って商売をする人間が大半だ。結局、予知などはマーズの世界ではあまり役立たないことになる。
しかし、今の話を聞くと、マーズの世界の人間は驚愕することだろう。世界には過去も未来もこれから起きる凡てのことが書かれた何かがあって、それを見ることの出来る人間が居るということを知れば――きっと、それを求めて争いが起こる。
「きっと、君はこう思っているだろう。争いが起こる、と。その通り。だから、僕はあまりこの能力を使いたくない。それは警察庁も良く思わないが……。まあ、そこは何とかしてもらっている。確かにあちらもあちらで、予防できる犯罪が解るのならばその能力を使いたいのだろうが、僕としてもこれはあまり使いたくない。肉体にも精神的にもそれなりのダメージを与えるものでね。それも、なかなか回復しない。厄介な能力だよ」
「……つまり、その能力≪ちから≫はあまり使わないほうがいいということ?」
「そうだね。けれど、使わないといけない時もある。そのためには僕自身の命も厭わない。それが結論だよ」
「……あなたには、何が見えていたというの? この話の流れならば、私がここに来るよりも先の未来も読めていたように思えるけれど」
それを聞いた信楽瑛仁はフフと鼻で笑う。
「そうだね、そうだ。確かにその通りだ。……だから、言える。君がこの世界にやってきたことで、この世界は大いなる局面を迎えることとなる。君がどうするか、それは決めてくれ」
決めてくれ。
その一言で、マーズは何も言えなくなった。
彼女が知らない世界の終末を、彼女が選ぶ。それがどれほどに滑稽なことであるというのか。
「君は、それ程に重く運命を受け止める必要は無い。けれど、この世界と君の住む世界、どちらかを選択することで、最終的に後悔のない選択をすればいい。それによって僕が死のうが、それは構わない」
「課長、それは……」
大男は信楽瑛仁の言葉に反論する。
しかしそれよりも先に、信楽瑛仁は手を出して彼の言葉を制した。
「いいのだよ、いいのだ」
「世界は……!」
「滑稽なものだろう。我々の上の階層に居る存在は、我々の世界と彼女が住む世界を競わせるために、彼女の住む世界と戦う相手に彼女を選択した。世界がなぜこのような選択をしたかは知らないが……、いったいどうなのだろうね? この世界は変わってしまうのか、それとも我々の世界が打ち勝つのか。見てみるのもいいかもしれない」
「……課長は結末も見ているのでは?」
「見ることが出来るだろうな。だが、あえて見ないよ。物語の結末を冒頭に見てしまっては、つまらないだろう? 人間の力と言うものを見てみたいとは思わないか? だから私はこうしている。傍観者……とまではいかないが、少し遠目から見ることにしているよ」
「話を戻してほしい。いったい、私は何をすれば?」
その言葉を聞いて信楽瑛仁は立ち上がる。
踵を返し、数歩歩いて、振り返る。
「着いてきたまえ、君に見せたいものがある」
その言葉を聞いて、マーズは首を傾げるが、信楽瑛仁の言葉を信じ、先ずはついていくこととした。
◇◇◇
地下倉庫。
そこまで続くエレベーターに、信楽瑛仁とマーズは乗っていた。
エレベーターに乗ったことも無い彼女からしてみれば、鉄製の箱が上下していることについてはとても興味が湧くことなのだろうが、それ以上に彼女が持っていたのは、信楽瑛仁に対する不信感であった。
アカシックレコード。それが凡てを記録している盤であるということを、彼女がすぐに認識できるはずが、当然無かった。
そのようなことを出来る人間が彼女の世界に居なかったから?
いいや、そうではない。そういうことでは無かった。
今、目の前に起きている現状が理解できないだけだった。
エレベーターが指定の階に到着し、扉が左右に開かれる。
信楽瑛仁は外に出て、次いでマーズも外に出た。
目の前に広がっていたものを見て、彼女は驚愕した。
「これは……リリーファー……!?」
目の前にあったのは、黒いカラーリングをした人型のロボットだった。大きさは三十メートル以上あるだろうか。彼女のいる位置はリリーファーの胸元にあたる高さにある通路であり、そこから見ただけでも胸元から上が五メートル以上あるように見える。それから類推すると……やはりそれ程の大きさがあると考えられる。
「驚いたかね?」
信楽瑛仁の言葉を聞いて、彼女はそちらを向いた。
「これを、あなたはいったいどこで……」
「正確にいうと長くなるから、一部は割愛せざるを得ないのだけれど……、端的に述べるとするならば、ある日突然現れたというのが正しいのかもしれない」
「ある日……突然?」
こくり、と信楽瑛仁は頷く。
「そうだ。ある日突然やってきた。なぜかは解らない。報告を受けたとき、僕は唖然としたよ。そんな巨大ロボットがこの世界にあったなんて。ファンタジーの世界でもそんなことは有り得なかったというのに」
「どういうこと?」
「直接語るにはあまりにも時間が無さ過ぎる。そんなことよりももっとユニークに動いていかねば」
足音を立てながら、ゆっくりと歩き始める信楽瑛仁。
その後を、マーズもついていくことにする。
「……少しだけ、昔話に付き合ってくれはしないか?」
「昔話?」
唐突に。
信楽瑛仁はそんなことを言った。
「かつて、僕の友人にプログラマーが居てね。天才と言われたプログラマーだよ。どれくらい天才だったかと言われれば、僅か十七歳で大人が唸るプログラムを作り上げる、天才だった」
「へえ……。そんな人が、この世界にも住んでいるのね?」
「残念ながら、今は過去形となってしまっているがね」
それを聞いて察した彼女は、信楽瑛仁に陳謝する。
「ごめんなさい……。あなたの気持ちも知らずに、そんなことを言って」
「いいんだよ。もう慣れた。……だが、あまりにも突然すぎたがね。彼は常々言っていたよ。難しいことを難しいからと言ってやらないんじゃない。難しいことだからこそ挑戦する意志が大事なんだ、と」
信楽瑛仁の話は続く。
「最初は僕と一緒に警察関連のプログラムを開発していたが……、突然ゲームを作りたいと言いだしてね。ゲームを開発し始めた。そのゲームがとても面白いものばかりでね。いつも楽しく遊ばせてもらっていたよ。……もう、そのゲームも遊べないのだがね」
「……とても、仲が良かったのですね?」
「そりゃあもう。世界でもあんな人間は居なかっただろうね。ユーザに寄り添うプログラマー、後半は経営もしていたから、経営者と言えばいいか? そのような存在がもう生まれることは無いのだろう……そう思うと、少しだけ悲しいがね」
立ち止まり、踵を返す信楽瑛仁。
それを見て彼女も立ち止まる。
「だが、彼はあるものを遺してくれた。それは我々にとって必要不可欠であり、とても大切なものだ。……オーバーテクノロジーめいたこのロボットに搭載されたプログラムを僅か一週間で解析して、コントローラーを作り上げた。それが、これだ」
信楽瑛仁が見せたのは、球体のようなものだった。
「これは……」
マーズはそれを見たことがあった。
彼女はそれを使ったことがあった――リリーファーコントローラとまったく同じものだった。
その反応を見て、さも当然のように信楽瑛仁は頷く。
「君の反応を見ると、どうやら彼は天才であることが、僕の中で再認識出来たよ。ありがとう。……と君に言っても関係ないのかもしれないがね。これを僕の口から説明するよりも、きっと君が知っている用法の方が正しい。けれど、一つ訂正させてもらう。君はさっきあの巨大なロボットを、なんて言った?」
何と言ったか――それは忘れることなど無い。
だから彼女はもう一度告げる。
「……リリーファーのことが、どうかしたのかしら?」
「そうだ。リリーファー。君たちの言語がどうなっているか曖昧だが、我々の言語ではそう呼ばれていない。これはリリーファーではない……『ブレイカー』、破壊者と呼ぶ」
「破壊……者?」
信楽瑛仁は微笑む。
「そう。破壊者。凡てを破壊するために生まれた機械……あの男はそう評していたよ。それがどういう意味であったのか、僕はいまだに理解できないけれどね。今思えば、その存在は……別の世界から来たのかもしれない。それこそ、このような事態を予見していたかのように」
「予見? その存在? ……もしかして、そいつって」
「君たちはどう呼んでいるか知らないけれどね……僕たちはこう呼んでいる。かの有名な『不思議の国のアリス』から、帽子屋――とね」
◇◇◇
「マーズ・リッペンバーは一つの真実に辿り着いた、か。まあ、僕がそこまで先導したということになるけれど。それにしても真実というのは時に愚かで、時に醜い。それを見せるというのはほんとうに悲しいことではあるが……致し方ない。物語の結末には、そのようなスパイスも必要だと、ハンプティ・ダンプティも言っていたからね。彼がここまでついてきたそのご褒美というわけだ」
誰も居ない白の部屋。
帽子屋は一人呟いていた。
「マーズ・リッペンバーはどういう道筋をたどるのだろうね?」
その質問を答えるべき相手は――今はもう、誰も居ない。
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