第140話

 タカト・オーノはインフィニティの内部から空を眺めていた。紫色の空は普通ならばいつもの空ではないことをすぐに感じることが出来る。

 それは彼の精神状態が普段の状態ならば、の話だが。


「……空が綺麗だ」


 こんな状況であるにもかかわらず、崇人はそう言った。タカト・オーノは、大野崇人はそう言った。

 彼は苦しんでいた。それは、エスティ・パロングが原因だった。

 彼はエスティの死を受け入れたはずだった。だが、あの『催眠』によって彼はエスティの死ともう一度直面することになってしまったのだ。

 やっとのことで乗り越えたエスティの死と、彼はもう一度向き合っている。

 彼の精神状態はもう限界に近かった。


「俺はエスティ・パロングが好きだった」


 あろうことか。

 マーズではなくエスティのために動いていた。

 エスティ・パロングのいない世界など、彼にとって必要なかった。

 エスティ・パロングが居る世界へと、はやく向かいたかった。


「エスティ……すぐに……そっちに向かうよ……。それとも……君のいない世界を完膚なきまでに破壊しつくした方がいいのかなあ?」


 彼は笑っていた。

 空を見て、笑っていた。

 彼の精神状態は限界を超え、狂っていた。狂人と呼ばれるような状態にまで陥っていたのだ。


「エスティ……そうか。僕をずっと見ていてくれたんだね、エスティ……。僕はどうすればいいかなあ。君のいない世界なんて、はっきり言って退屈だよ」


 彼のしてきた行為は、マーズの好意を無下にするものだと言っても過言ではない。

 マーズは崇人のことが好きだったから、身体を彼に委ねた。そして崇人もマーズの好意を無下にすることなくそれに従った。

 なのに。

 にもかかわらず、崇人はまだエスティを愛していた。

 それははじめて好きになった人だからか。それとも催眠によって想起されただけなのかは解らない。

 どちらにせよ、崇人の精神はもう限界を超えていた。




「帽子屋」

「どうしたんだい、バンダースナッチ?」


 広々とした白の部屋にアリスとバンダースナッチ、それに帽子屋が居た。帽子屋はアリスを連れて、どこかへ向かおうとしていた。


「アリスを連れてどこへ向かう気なのでしょうか?」

「この前にも説明したよね。アリスを使うことによって計画は最終段階へと昇華する、って。世界の文明はあるべき段階までグレードダウンする。そうして僕の、僕たちの願いは叶えられるというわけだ」

「願い、ですか。それはいったいなんなのでしょう?」

「……それはお楽しみだよ。願いは言うと叶わないと言うだろう?」


 帽子屋の言葉に呆れたのか、バンダースナッチは溜息を吐いた。


「そうですね。願いごとは言ってしまうと叶いません。それは昔から言われていることです。ですが少々秘密主義しすぎやしませんか?」

「そうかなあ? はっきりと僕は告げたはずだよ。シリーズが観測上暇をしなくていいようになる、ってね。そのためにアリスに協力してもらう。正確には……僕たちが住みやすい世界へと変えてもらうための準備、とでも言えばいいかな」

「準備?」

「もう言っても問題ないだろう。だってこれから計画は変わることなんてないからね。……これからアリスはインフィニティの中に入る。インフィニティには何が居るか、言わずとも解るよね。起動従士タカト・オーノだ。彼とアリスには『融合』してもらう。そして、インフィニティとも深層的に繋がる。それによって、シリーズ最後のパーツが埋まるというわけだ。僕たちシリーズは全部で七種類居るんだよ。知っていたかな?」

「七……種類?」

「そう。ハンプティ・ダンプティ、帽子屋、バンダースナッチ、白ウサギ、チェシャ猫、ハートの女王……そして残った一つが、インフィニティとアリスの融合によって生まれるものだよ」


 帽子屋は笑みを浮かべたまま、一歩踏み出した。


「――その名前は、『ジャバウォック』」


 そして、その名前を告げた。


「ジャバ……ウォック?」

「聴いたことが無いかもしれないね。あくまでもそれは古に語られているだけに過ぎないから……かもしれない。それに『アリス』が一番関わるであろう時にジャバウォックは居なかった」

「ジャバウォックは……まさにイレギュラーな存在だと言うことなの?」


 バンダースナッチの言葉に、帽子屋は静かに頷く。

 アリスはいったい何をしているのか解らず(敢えて理解していない振りを取っているのかもしれない。実際にそれを確かめる術は無いが)、帽子屋とバンダースナッチの顔を交互に眺めるだけだった。

 慌てているということは直ぐに帽子屋にも理解出来た。だから帽子屋はそちらをちらりと一目見ると、アリスに優しく微笑みかけた。


「大丈夫だよ、アリス。直ぐに話は終わるから。そんなに悲しい顔をしないでおくれ」

「……直ぐ、終わる?」

「あぁ、直ぐに終わるとも」


 頬を撫でる帽子屋。その姿はまるで子供を宥める父親のようだった。


「それにしてもあなた……父親みたいね。シリーズになる前は人間だったらしいし……案外普通の家庭でも築いていたんじゃないの?」


 それを聞いた帽子屋の顔が一瞬だけ強張った。

 それを見たバンダースナッチは首を横に振り、


「……もしかしたら嫌な記憶を思い出させてしまったのかしら。あなたにとって、人間だった頃の記憶は魂が穢れる程酷いものだった……のかしら」

「魂が穢れるだとかそんな大層な問題では無いが、少なくともあまり聞かれたくない話題ではあったね」

「そう。……それは悪いことをしたわね」


 バンダースナッチは頭を下げる。


「いいんだ、昔のことだから。……それじゃあまり時間も無いから、僕はこれからアリスと共に出掛けてくるよ」

「ワールドエンド、……楽しみにしているわ」


 そして、帽子屋とバンダースナッチの会話は静かに終了した。



 ◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇



「ほんとうにこのリリーファーが僕の能力を一番引き出すことが出来るというのか?」


 ファルバートと精霊は一足先にリリーファー格納庫へとやって来た。精霊は「近道を使った」としたが実際には気付かれないように霧の魔法と転移魔法を数回やったからだった。しかしその真実をファルバートは知る由もない。

 今、ファルバートの前に立っているのは一機のリリーファーだった。黄色いカラーリングの、同世代機よりも一回り小さいものだった。


「あれはベスパだよ。第三世代だったかな。型としては若干古い。だが使い勝手としては一番だよ、それに鶏冠よろしく頭についた鋭い角!」

「……性能としては?」

「性能はまずまず。はっきり言ってこんな場所で燻っているのが解らないくらいの性能ではあるね」


 それを聞いたファルバートはニヤリと笑みを浮かべた。


「成る程……。解った、それを使おう。そして俺はどうすればいい?」

「簡単なことだよ。インフィニティの起動従士……その定義を書き換えてしまうんだ。上書き、とも言えばいいだろうか」

「定義? 上書き?」


 ファルバートは精霊が何を言っているのか解らなかった。

 起動従士の定義を書き換える。それは即ち、リリーファーに唯一登録される起動従士を別の人間へと差し替えるということだった。それによってインフィニティの起動従士をファルバートにしてしまえばいい……精霊はそう言ったのだ。


「そう。上書きはそう難しいことでは無いよ? ただ時間がかかるだけ、ただ若干難しいだけ。それ以上でもそれ以下でも無い。それによって産み出される利益はとんでもないことになるだろうね」

「利益、だって?」


 ファルバートは訊ねる。

 精霊は言ったが、少しだけ顔をしかめた。それにファルバートは疑問を浮かべたが、それも僅か一瞬の出来事、その様子を偶然に捉えている人間がいるならば……精霊の真の姿を見つけることも出来ただろう。


「……ともかく、これから向かわなくてはならない。インフィニティの『頭脳』をちょいと弄くり回せば何とかなる、というもの。但し場所がどうにもこうにも難しい。……どうにかすればいいのだろうけれど、なかなかそうも行かないのですよ」

「頭を改造するまでの時間稼ぎをすればいいのか?」


 ファルバートの言葉に精霊は頷く。


「そう。まぁ、それ程長い時間はかからないけれどね。おおよそ三分はかかるかな。それまでは耐えて欲しい。裏を返せばそれさえ済めばインフィニティはあなたのものになる……」


 ファルバートはたまらず歩き出した。その足は一目散に、ベスパへと向かっていた。

 彼が次にやることは、もう決まっていたのだった。


「ほんとうに、ほんとうにインフィニティに乗ることが出来るんだよな?」

「私を信じてください、ファルバート・ザイデル。私が出来ると言えば可能なのですよ。たとえ天地を逆転しなければならないくらいの無理難題であったとしても……」


 彼はそれを聞いて頷いた。

 彼は精霊の言葉は凡て真実だと思っているようだったが、しかし真実を言えば、彼は精霊に操られていた。だがその事実を理解出来なかった。受け入れようとはしなかった。

 それはきっと彼自身の自尊心が傷つけられることを恐れたからかもしれない。彼自身が彼自身の躍進の代償となったものと向き合いたくなかったからかもしれない。

 いずれにせよ、ファルバートは焦っていた。父親を超えるために一番単純なこと――インフィニティの起動従士になるチャンスがこんなにも近くに巡ってきたからだ。どんなことをしてでも、彼はインフィニティの起動従士になりたかったのだ。

 それは、ある種の執念とも言えた。ある種の確執とも言えた。

 ファルバート・ザイデルがファルバート・ザイデルたる所以の、その一部……それはどす黒く汚れた『負』の感情だった。

 精霊――否、ハンプティ・ダンプティはそれを理解していた。理解していたからこそ、彼を利用したのだ。圧倒的憎悪の感情を抱いた彼を、このまま利用しないわけにはいかない。精霊はそう考えていた。


「さぁ、やろうじゃないか。……ついにこの時がやって来た。僕は待っていたんだ、このタイミングを。僕は楽しみにしていたんだ、この時を! インフィニティ……世界最強のリリーファーを使うことが出来る、このチャンスを!」


 精霊は|北叟笑(ほくそえ)んでいた。人間はこれ程までに使いやすいのかと思えると、笑いが止まらなかった。無論、それはファルバートに気付かれないように、ではあるが。

 ファルバートが高らかに宣言していたが、しかしそれが実現することは無い。いや、実現させるわけがなかった。精霊――ハンプティ・ダンプティはあくまでも帽子屋の立てた計画に従うだけだ。そのお膳立てをするためだけに活動しているのだ。

 ハンプティ・ダンプティはそれを苦とは思っていない。かといって楽しいものとも思っていない。その作戦を実施して、その計画が完成して、世界がどのように変わっていくのかが気になるだけだったのだ。


「世界がどうなると思う、ファルバート・ザイデル?」

「世界? どうでもいいよ、そんなもの。僕がインフィニティに乗ることが出来れば!」


 ベスパのコックピットでリリーファーコントローラを握りながらそう答えるファルバート。

 それを見て精霊は楽しかった。面白かった。人間というのはこれ程までに扱いやすい生き物であるかということを。これ程までに醜い行きものであるかということを。


「さあ――、タカト・オーノ。僕が一番インフィニティを使うことが出来るんだ。いや、使うようにするんだ。その為にも……今インフィニティを使っている君は邪魔で邪魔で仕方が無い。さっさと死んでもらうよ」


 ああ、聞いていて楽しい。

 もっと僕を楽しませておくれよ。

 もっともっともっと……楽しいことを。

 精霊は歯を見せて笑っていた。

 だが、その姿をファルバートに見られることは無かった。見る必要もなかった。そう心配する必要もなかった。なぜなら精霊がそれを見せないように操っていたからだ。


「さあ、はじめよう……!」


 そしてファルバートはリリーファーコントローラを強く握った。


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