第103話
崇人が家に入り、いつものようにただいまと言う。それから一歩遅れてヴィエンスたちがお邪魔しますと告げた。
しかしながらマーズの反応は無かった。最初は居ないのかと思ったが、リビングから明かりが漏れているのでただそれに気付かなかっただけ――というのが、どうやら正解のようだった。
「あいつ、本当に『女神』と謳われる起動従士なんだろうな……?」
一部の人間から聞けば怒号と非難が飛びかねない発言だったが、しかし彼はそんなこと気にも止めなかった。
リビングの扉を開け、彼は中に入る。そこには大方の予想通り、マーズの姿があった。彼女は今、完全なオフ状態になっていた。具体的にいえば、テレビを点けていて、それをそのままBGMにでもしてうつ伏せになって漫画を読んでいた。右手にはスナック菓子のようなものがあったが、テーブルに置かれている袋の残骸から見て本日二袋目らしい。
さらに彼女の格好も非常にラフなものだった。白のタンクトップに黒のスパッツ、あとは何も着ていないように見える。流石に下着くらいは着用しているだろうが、裏を返せばそれ以外は何も着ていない可能性がある、ということだ。
……因みにそれくらいラフな格好でいるのは暑いからという理由でも無さそうである。何故ならリビングの中は適切な温度に保たれていて、暑くもないし寒くもないからだ。
「……ただいま」
「なんだ、早かったじゃない。電話とか無かったから今日も補習かなーとか思っていたよ」
マーズは二回目の崇人の言葉で漸く反応を見せた。とはいえそれは漫画から視線を動かさず、というわけだが。
崇人はヴィエンスに合図を送る。そしてヴィエンスもそれを見て頷いた。
「お邪魔します、マーズ副騎士団長」
わざとらしく敬称までつけて、ヴィエンスは言った。マーズはそれを聞いて光速の如き速さで振り返る。
そしてヴィエンスとリモーナを目視して、マーズは固まってしまった。自分のオフの姿を見られるのがよっぽど辛かったのかもしれない。
「えーと……タカト? 何これどっきり? 私まったく聞いてないんだけどさ」
「正確にはさっき急に決まってな。明日進級試験だろ? それがチームを組んでもいい、って話でさ。そんなわけでヴィエンスと……そこにいるリモーナと組んだわけだ。それでその作戦会議をしようとその場所を探したわけなんだが……」
「私の家が手っ取り早い、そういうことかしら?」
マーズはもう起き上がっていて、胡座をかいてクッションを抱いていた。何かしてないと落ち着かない性格なのか、時折クッションを弄くっている。
マーズの言葉に崇人は頷いた。
「あぁ、今日は泊まりで考えようと思ってな。明日はシミュレートセンターに直接集合……ってことになっているんだ。ここからなら若干近いだろ?」
「まぁそりゃそうだけど……って泊まり!? それなら尚更早く言ってよ!」
因みにヴィエンスとリモーナはそれぞれの保護者に了承を得ている。初めは保護者も難色を示していたが、『女神』の名前を出した途端に「それなら構わない」という意見でまとまってしまった。
それほどに女神という称号は絶大であり、信頼されている。そのやりとりを間近で聞いていた崇人はそれを改めて思い知らされるのだった。
「……二人とも、まあ聞くことはないだろうけど、保護者の了承はとっているのよね?」
マーズの言葉に二人は静かに頷く。
即ち二人とも泊まる気満々だということだ。
その反応を見て、マーズは溜め息を吐いた。
「まぁいいわ。部屋は好きに使って。ご飯を作るには……未だ早いわよね。会議は何処で?」
「マーズさえ大丈夫なら、ここでやりたいところなんだが……」
「ここで? まぁ別に構わないけど……。ちょっと待って、今片付けるから」
そう言ってマーズはいそいそとテーブルに置かれているスナック菓子の袋や漫画本を持って自分の部屋に運んでいく。
ソファが片付いて、崇人たちが座れるようになったのはそれから十分後のことだった。各々足元に荷物を置いて、飲み物を持ってきて、腰掛ける。
崇人が一口コップに入っているお茶を飲んで、言った。
「それじゃあ、会議を始めようか。なに、時間はたっぷりあるから焦らずにいこう」
「先ずはコースの概要がないと何にもならないんじゃないか?」
開始早々にヴィエンスはツッコミを入れた。
「そう言われてみれば……マーズ、持ってたりしない?」
「あることにはあるけど……」
崇人がマーズに有無を訊ねたのは『コースの概要を地図にまとめたもの』だ。それがあれば説明も容易に出来る。
マーズは確かにそれを所有している。しかし、彼女がそれを所有しているのは、あくまで当日の防犯対策のためにもらったものだ。因みにマーズが当日シミュレートセンターに行くことを知っているのは崇人だけだ。
「タカト……まさか私が明日行くことを知っててそれを聞いたんじゃないよね?」
マーズは思い切って訊ねた。崇人は「バレた?」とでも言いたげな悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
それを見てマーズは深い溜め息を一つ。
「……流石にそれを見せることは出来ないわ。教えることは、もしかしたら私がもののはずみで言ってしまうかもしれないけど」
「そのもののはずみでいい」
「……冗談を理解した上で言ってるの?」
「ああ。勿論だ」
マーズはそれを聞いて、ソファの後ろにあるホワイトボードに触れた。元々は片付けの苦手なマーズがその片付けが出来ていない部分を隠すために置いたものだったが、今それを使うべきだと彼女は考えたのだ。
彼女は備え付けられていた黒いペンを使ってホワイトボードに文字を書き込んでいく。野原、岩山、市街地、海、地下の大迷宮……単語だけがホワイトボードに並べられていた。
「これが明日のアスレティックコースの概要。上から下に流れる形になるかしらね。これが一つどれくらいあるとかは流石に言えないけど」
「ありがとうマーズ。これで充分だよ」
そう言って崇人は立ち上がると、マーズから黒いペンを受け取った。
「……んじゃ改めて作戦会議といきますか……!」
――彼らの会議は最終的に、徹夜とはいかなくとも深夜まで続けられた。本当はもっと作戦を煮詰めるべきだと考えていたが、しかし睡眠時間を削ってしまうと当日に響いてしまう。だから結局急拵えで意見をまとめあげて、それを最終的な作戦ということにした。若干の不安は残っていたが、作戦がノープランのまま本番を迎えるよりは充分だった。
そして、日付は変わり、二月二十日――進級試験、その当日がやってきた。
二月二十日。
ついにこの日がやってきた。
シミュレートセンターには起動従士クラス五十名が集まっている。
「それでは、今日は皆さんお待ちかねの進級試験の日です。今まであなたたちが積んできた鍛錬を、練習を、その成果をここで発揮するのです」
アリシエンスの声を聞いて、クラスは歓声に包まれる。当然だろう。今日のために彼らが頑張ってきた努力は計り知れない。それを今日凡て発揮できるというのだから。
「いやー、それにしてもすごいな」
挨拶終了後、崇人とヴィエンス、それにリモーナは準備体操をしていた。しかしながらその準備体操は崇人がやっているラジオ体操に準拠しているものだが。
崇人がやっているラジオ体操に「何それ?」と声をかけたリモーナが参加し、だったらヴィエンスもやればいいと言ったリモーナの一声で半ば強制的にヴィエンスもやっている――というわけである。
「……それにしても、この体操案外いいな。血が身体に廻っている感覚が確かにあるぞ」
「そりゃそうだ。ずっとこの体操をやっているんだからな」
崇人はそう言って胸を張った。
『それでは皆さん、シミュレートマシンに入ってください』
マイクを通してアリシエンスの声が聞こえたのはこの時だった。
「おっと、急いで行かなくちゃな」
そう言って彼らは頷く。
そして、五十名全員がシミュレートマシンに乗り込んだ。シミュレートマシンは崇人が時折乗っていたあのタイプとは異なるようで少々窮屈だった。しかし、今更言ってもそれが変わることは到底ありえないので、言わないでおいた。
『聞こえますか、皆さん。私は今回管理を担当するメリア・ヴェンダーというものです』
メリアの声はいつもより落ち着いているようにも聞こえた。いつもの彼女の声を知っている崇人は笑いそうになったが、それは流石にまずいので噛み殺した。
『今回のアスレティッコースはあまりにも長いです。たくさんの苦労も苦難もあるでしょう。ですが、一年間鍛錬を積んできた学生のみなさんならばこのコースは一発でクリア出来る……そう思って今回制作しました』
「ほんとにそんなこと思っているのか」
呟いて、崇人はリリーファーコントローラを握る。今は未だ仮想空間に飛ばされていないためそれを握ったって無意味な行動だ。
『今回、仮想空間での試験となりますが、何かあった場合強制的にログアウトとなります。ですから、安心して今回の試験に臨んでください』
まあ、それくらいのアフターケアくらいは大事にしないとな、と崇人は思
った。
『それでは、仮想空間へとダイブを行います。人には酔ってしまうことが考えられますが、その場合はコックピットにある呼び出しボタンを押してください。即座に中止します』
そして、コックピットから見える景色が暗闇に包まれた。
数瞬ののち、景色が野原になった。どこまでも広い草原だ。そこに五十機のリリーファー。壮大な光景だった。
「すげえな……これほどまでのコースを作っちまうんだから、やっぱりメリアってすごい人間なんだな……」
崇人は独りごちる。
『タカト、一応言っておく』
ヴィエンスからの通信が入った。
崇人は慌てて返信する。
「どうした?」
『……どうやら自動的にメンバーには声が聞こえるようになっているらしい。これはデフォルト設定だろうな。だから、聞かれたくない言葉があるんなら早めに切っておいたほうがいいぞ』
それを聞いて崇人は鳥肌が立った。それじゃさっきの言葉もすべて聞こえていたというのか。別に聞かれて恥ずかしい言葉があったわけではないが、とはいえ聞かれてしまうこと自体で恥ずかしいのは自然だ。
ともかく、そんなことより大事なのはこのコースを走破することだ。走破しなくては意味がない。
『そうだった。最後に忘れていました』
全員のコックピットにアリシエンスの声が響く。
『……制限時間はスタートから日付が変わるまで。ですので、あと十四時間二十七分……ということになります。それ以降は……失格として扱いますので、そのつもりで』
そして。
コースのスタートラインに五十機のリリーファーは並んだ。崇人、ヴィエンス、リモーナは一直線に並ぶ。
即ち、速さを競っているわけではないのだ(制限時間こそあるが)。無事にゴールできることが大事なのである。それを理解した崇人は呟いた。
「……命を大事に」
それは彼が元の世界で遊んだロールプレイングゲームに出てきたコマンドの一つだった。なぜ彼がそれを呟いたのかは彼自身ですら解らなかったが今の状況を示すには一番の言葉だった。
その言葉を聞いていたはずのヴィエンスとリモーナがどう思ったかは、崇人には解らなかった。
そして。
号砲が鳴り響く。
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