第93話

 この戦争が行われて、ここまで国力が疲弊して、果たして人々は何を得るのだろうか。その事実について、人々は考え始めることだろう。今まででは平和と自由が保証されてきた場所から高みの見物をしていたわけだから、それについて考えることもなかった。

 しかし、いざ自分たちも戦争に巻き込まれていることを自覚し始めると――人々は戦争の意義について考え始める。一応、法王は言っていた。この戦争は、穢れた世界を戻すための第一歩である、と。では、穢れた世界を清くするために、この犠牲は必要だったのだろうか? この戦争は必要なのだろうか? 人々はそんなことを考え始め、軈て疑問を抱く。

 戦争の意味など、ない。

 この戦争を続ける意味は、もう法王庁にはない。

 人々に平和と自由を保証したのに、それが保証できなくなった時点で戦争は中止すべきだ。

 それを求めて、人々はクリスタルタワーへと群がっているのだ。


『もう人々は気がついたんだ。この戦争の意味を。この戦争は要らないのではないか、ということに』


 フレイヤは囁くように言った。アルジャーノンはそれを聞いて小さく頷く。


「そうだ。そうに違いない。今まで僕たちも、何の疑問も抱かずに戦争を続けていた。確かに、戦争には原因があった。一派によるテロ活動という立派な理由が……ね。だけれど法王庁はそれを隠蔽しようとした。平和な世界を作り出すためには戦争は必要ない……そんなことを思っている一派が画策したんだろう。だけれど、戦争への波をそれだけで止めることなんて出来なかった。この世界の『話し合い』がいわゆる戦争になっているのだから、それを押しとどめることなんて、無理な話だったんだ」


 アルジャーノンは下界を眺める。

 人々の群れを見て、彼は俯く。

 彼の首元にかかっているロザリオを持って、彼は祈った。

 祈る相手は、今までのように法王にではなく――本物の『神』に、だ。


「神よ。もし、あなたがいるというのなら。もしあなたがこの状況を見ているというのなら。この争いを、この醜い争いを、止めていただけないでしょうか……!」


 アルジャーノンは涙を流して、ただ祈った。

 それを見たフレイヤも心の中で小さく祈った。

 その、二人の祈りが届いたかどうかは解らない。

 だが、それをするだけで、なぜだか二人の心の中にあった突っ掛りが、少しだけ取れたような気がした。



 ◇◇◇



「和平交渉を結べ、だと?」


 対して、クリスタルタワーにある法王の部屋では、再び帽子屋と法王が会話をしていた。

 法王の言葉を聞いて、彼は頷く。


「うん。是非お願いしたいんだよ。もうこれ以上戦いをする必要も、正直なところないだろうしね」

「何を言っている……。今は我々が優勢なんだぞ! ヴァリエイブルはほとんどの騎士団を失い、しかもその残りの騎士団は我々が誇る最強の聖騎士団が戦っている。インフィニティくらいは残ってしまうかもしれないが、それ以外は絶対に負けることはない。そして残ったインフィニティはこちらに連れてきて解体でもなんでもすればいい。どうだ、最強のシナリオが、もう出来ているではないか! しかもペイパスも我が法王庁の味方をしている! この状況で和平交渉をする方がおかしいとは思わないか」

「ペイパスは和平交渉をするよ。すでに書簡はヴァリエイブルに届いているはずだ」


 法王が考えた完璧なシナリオは、帽子屋が放ったその一言により粉々に破壊された。

 それを聞いて、法王は溜息を吐く。


「……貴様が嘘を吐くとも思えんしな。その事実、本当なのだろうな?」

「ほんとうさ。そして、きっとヴァリエイブルはそれに応じる。苦しい状況なのは、あなたが言ったとおりだからね。どういう条約を結ぶのかは知らないけれど……これによってペイパスはヴァリエイブルと戦うことは国際条約上出来なくなる」

「……仮にペイパスがそうなったとしても! 我々だけの力でヴァリエイブルを大きく圧倒しているではないか!」

「ヘヴンズ・ゲートのこと、知っているかい?」


 それを聞かれて、法王は頷く。

 帽子屋の話は続く。


「あのね、そのヘヴンズ・ゲート。君たちは勘違いしているようだから言わせてもらうけれど……あそこはもともと僕たちの管理下にあった空間だったんだよ。だけど、人間に管理させたほうが都合がいいから、君たちの言う『初代法王』とやらに管理を移譲したのさ。彼女が目覚めるのは、大分後のことになるだろうって解っていたからね」

「彼女……?」

「アリスのことだよ」


 法王の言葉に、帽子屋はニヒルな笑みを浮かべて答えた。


「アリス、とはいっても初代のことだけどね。今はいない。二代目の選出作業に入っている段階だ。そして初代の『合意』を得なくてはいけない。これがわりかし厄介でね……。そして、もう彼女は目を覚ました。これは即ち、二代目が見つかる可能性が高いってことを意味しているんだよ」


 法王は帽子屋が言っていることをイマイチ理解できなかった。専門用語もたくさんあったし、そもそもそこそこ早口で言ったから聞き取りづらい場面もあった。だが、二回目を言ってくれる気配もないので、法王はある程度聞こえなかった部分は補完する形で理解せざるを得なかった。


「……つまり、こういうことか」


 法王は帽子屋の話を自分なりに理解しながら、言葉を少しずつ紡いでいく。それは、たどたどしくはないものの、考えながら物事を話しているため、所々詰まりながらの言葉だった。


「|お前たち(シリーズ)が元々管理していた、お前たちに関係のある場所に被害が及ぶのを防ぐために和平交渉に入れ……と」

「半分合ってるね。もう半分は、この方が都合がいいってだけになるけど」


 法王の言葉に帽子屋は頷く。

 帽子屋はゆっくりと歩き始め、法王が座る椅子の回りをぐるぐると回転し始めた。


「……お前はかつてハッピーエンドを目指していると言ったな。未だにその対象が誰になるのかは教えてくれないのか?」

「少なくとも全員ではない。ここまで状況悪化しておいてみんな幸せになりましたーわーぱちぱちというのは、あまりにも都合が良すぎるってのは……幾ら計画を知らない君でも解るはずだ。確か法王庁の教典にもそれっぽい言葉があったはずだよね?」

「……裁かれるべき者は裁かれ、救われるべき人間は救われる。つまりそういうことなのか? シリーズ、お前たちはそれを目指しているというのか?」

「目指している、というか……それをするのが目的だ。人間はとても愚かな存在だ。良いことをした人間が報われることはあまりにも少ないが、逆のケースはあまりにも多い。蔓延り過ぎているんだよ、この世界には『悪』というものが。悪はこの世で最も純粋な感情だが、さりとてその事実を認めるわけにもいかない」

「悪を滅ぼし……善人にハッピーエンドを与えるのがお前の目的だというのか?」


 法王の言葉に帽子屋は頷く。

 ハッピーエンドを与える。言葉で言うのは至極簡単なことではあるが、それを実行しようとなると極端に難易度が跳ね上がる。

 そもそもハッピーエンドの定義はどこからどこまでを考えれば良いのか? 同じく善人の定義は? ハッピーエンドを与えるその方法及び基準は? ……考えるときりがない。


「ハッピーエンドを与えることは、きっと難しい話になるだろうね」


 帽子屋はそう言って、立ち止まる。その位置は、ちょうど法王が座る椅子の後ろだった。

「だから……さ」


 帽子屋の声が少しずつ高くなっていることに、法王は気が付かなかった。

 帽子屋の異変に気が付いたのは法王の後頭部にある何か柔らかいものの感触、だった。だが、もうその頃には遅かった。彼はそれに気付いても、それの対処法なんて知るはずもない。

 帽子屋は再び法王の前に立った。しかし、その時現れたのは、法王の前に立っていたのは帽子屋などではなかった。

 背は帽子屋よりも少し小さく、肌は褐色で胸はそれなりに大きかった。法王が後頭部に感じていた感触はこれを言うのだろう。


「ねえ……」


 もう口調も声の高さも帽子屋のいつものそれではなかった。

 何処にでもいる、ごく単純な女性のそれだった。


「お願い」


 跪いて、『彼女』は目に涙を溜め込みながら、言った。法王はその視線に僅かながら動揺した。


「わ、解った。和平交渉を行おう。それと、今ヘヴンズ・ゲート近辺に居るバルダッサーレにも退却を命じる」

「ふふ……ありがとう」


 そう言って彼女は、法王の唇を奪った。最初は唇が触れるだけのものだったが、彼女はそれに加えて舌を入れた。

 法王は彼女の為されるがままだった。ピチャピチャと二人の唾液が混ざり合う音が、部屋に響いた。

 法王の心はもう歪んでいた。彼女が放つ艶やかな何かに当てられたせいなのかもしれない。だが、今の彼はひたすらに――彼女を犯したいというどす黒い感情が渦巻いていた。

 だから彼は彼女の服の隙間に手を入れ、直接そのたわわな胸をまさぐった。揉むと彼女は嗚咽を漏らす。

 それを徐々に強めていく。嗚咽は嬌声に変わり、嬌声は喘ぎ声に変わっていく。彼女は火照ってきて汗をかいたのか、肌が艶立っていた。

 その声一つ一つを聞いていくうちに彼の感情は昂った。

 だが、そこまでのところで彼女は漸く唇を法王のそれから離した。


「お楽しみは、私のお願いをちゃんと叶えてからよ」


 そう言って彼女は乱れた服装を整え、部屋から姿を消した。

 それを追うように彼も部屋を後にした。目的はただ一つ、ヴァリエイブルとの和平交渉のための準備だ。




「……ちっ、あのエロじじい。ちょっと色仕掛けしてやろうと思って|変形(メタモルフォーズ)してやったらこの有り様だ」


 部屋を出て、周りに誰もいないことを確認して彼女は言った。しかしその声色と口調は帽子屋のものになっていた。

 そして彼女は僅か一瞬の間に帽子屋へ姿を戻した。


「行為に及ばれた時の対策は色々考えていたが……女性に変形するとき、心も女性になるのは考えものだな。思わずイッちまいそうだった」


 早足で彼は歩く。彼とすれ違う人間など居なかった。

 そして、彼は誰も居ない廊下で、ニヒルな笑みを浮かべた。



 ◇◇◇



「国王陛下、書簡が届いております」


 部下の一人がヴァリエイブル連邦王国国王レティア・リグレーに声をかけた。彼女は何か考え事をしていたのか、窓から外を眺めていた。


「陛下!」


 二度目の呼び掛けにレティアは漸く反応した。驚いた彼女はその部下の姿を見ると姿勢を糺した。


「……申し訳ありません、少し考え事をしていたもので。それで何があったのですか……?」

「ほんとうに聞いていないんですね……。書簡ですよ、書簡。しかも送り主は法王庁からです」


 法王庁という言葉を聞いて、彼女は眉をひそめる。法王庁とは今も闘っている敵だ。何故このタイミングで書簡を送ってきたのかが、あまりにも謎だった。

 インターネットが軍事技術として開発され、それが安価かつグレードダウンしたものが一般家庭にも使われるようになった。

 だが、国と国の間で送受信する重要な書類に関しては、それを書簡として魔法で送受信を行う。ただし、それを行うことが出来るのは非常に高度な魔法を使うことが出来る人間に限られている。しかしながら、書簡が送受信されるのは精々一ヶ月に一本あるかないかなので、人数的にはそれで事足りるのであった。


「……ところで、その書簡の内容は?」

「ここで開けてもよろしいのですか?」

「構わないわ。今この部屋に居るのはあなたと私の、ただ二人なのだから」


 それを聞いた部下は恭しく笑みを浮かべて話を始めた。


「……では、お話させていただきます。この書簡に書かれているが、とても質素に書かれているものになります。ですがたった一言で述べると、こうであると言えます。……これは、和平交渉のための同意書ですよ」

「それはほんとうか」


 その言葉に部下は笑みを浮かべて頷く。


「えぇ、ほんとうにございます。嘘偽り無い真実でございます」


 部下はレティアに書簡を手渡す。それを奪うように受け取ったレティアは一言一句眺めていく。

 彼女が見てもそのまま内容が変わるわけもなく、彼女はそれを読んで直ぐには理解出来なかった。

 部下が、レティアがそれを読み終えたであろうタイミングを見計らって声をかけた。


「……陛下、いかがいたしましょう? 一応我が国としてもこの和平交渉に応じても悪い点があるとは考えられません。また、国力も随分と疲弊してしまいました。それに関しても我々は何らかの策を講じなくてはなりませんし、国民の批判も大きくなることでしょう」


 部下は長々と語っているが、一言でまとめるならこういうことだった。



 ――和平交渉に応じて戦争を終わらせた方がいい。



 いや、終わらせなくてはならないだろう。元々テロによる報復のために行われた戦争は、着地点なんて存在しないのだから。

 着地点のない戦争を長々と続けていれば、それこそ国が破綻してしまう。それはなんとしてでも避けねばならなかった。


「……決断するのが遅かった。あまりにも、あまりにも遅かったのよね……。父を殺され、私は憎んでいた。この戦争を、お兄様が帰ってくるまで指揮していく。お兄様が正式な国王になるまで、私がこの役目を全うするはずだったのに……、それすらも出来なかったのよね」


 レティアは呟く。

 部下である彼はそれをただ聞くだけだった。意見こそ述べる機会はあるかもしれないが、それに対して苦言を呈することなどはない。なぜなら、彼女は国王という、この国の一番地位が高い人間で、この部下は彼女に雇われている存在に過ぎないのだから。


「……陛下、ご意見を述べさせていただいてもよろしいでしょうか」

「構わないわ」


 彼女は言った。

 それに対して頭を下げて、彼は話を始める。


「先ず、あなた様は国王なのです。このヴァリエイブルで一番地位の高い人間ですし、民衆はあなたの意見に必ず耳を傾け、理不尽な命令でなければあなたの命令には必ず従います。しかし、そんな特権があるからこそそれなりに責任が伴うのも確かです。……国王とはそういう存在です。強くなければならないのです。身体も、心も。あなたはそうならなくてはならないのです。たとえ、部下である私の前ですらそんなことは言ってはいけない。甘えを見せてはいけないのです。いつどこで、誰が聞いているか解りませんから」


 その言葉を聞いて、レティアは頷く。

 しかし、彼女はその意見を聞いたとしても、その対策が考えつかなかった。彼が言った、『甘えを見せてはいけない』ことは正論なのだが、それでも彼女は兄であるイグアスが帰ってくるその時まで、父ラグストリアルから託されたバトンを落とさないようにするために躍起になっていた。

 だが、それが彼の言う『甘え』に捉えられてしまうのも、もはや仕方ないようにも思える。


「……私が頑張らなくてはなりません。私は、たとえお兄様が戻ってくるまでの間とはいえ、国王という位についていることには変わりないのですから」


 そう言って彼女は立ち上がり、宣言した。


「法王庁との和平交渉に応じましょう。そして、終わらせるのです。この戦争を」


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