第37話
カーネルの外れにあるスラム街。
その一つのマンホール。
それがゆっくりと『内側から』力を受けて浮かび上がった。
「ふ、ふう……」
そこから出てきたのはハリー騎士団だった。
「何とか、潜入できたか……?」
「何とかといった感じね」
崇人とマーズが言葉を交わし、辺りを見渡す。辺りには荒屋や家の形をなしていないもの、走っている子供たちは皆服装がボロボロ、泣いている子供もいるし、裸の子供も珍しくない。
だから、そんな場所にとって、崇人たちは謂わば『異端』のような存在だった。
「……これが、世界最高の科学技術を誇る都市なのか……?」
ヴァルトは思わず言葉を漏らした。それを聞いたマーズが呟く。
「そうだよ。……たとえどんな技術を持ったとしても、それを一定に広い都市全部に撒き散らすことなんて出来るわけがない。必ずこんなふうにしわ寄せを喰らう街がある。場所がある。それがここだったまでだ」
「しわ寄せを……まるで私たちの聖地ティパモールのように……!」
ヴァルトは涙目になっていた。この情景に、彼らの生まれた地を重ねたからだろう。
「……泣いている暇はない。私たちはこれからこのカーネルを調査せねばならないのだからな」
マーズのその言葉に、ヴァルトは涙を拭う。
「ああ。そうだった」
そして、彼らは改めてスラム街を見ようとした。
「あれ、どうしたのお姉ちゃん達、そんな綺麗な格好で?」
不意に声がかけられ、マーズたちは振り返る。
そこに立っていたのはひとりの少年だった。
茶髪で、黒いぶかぶかのトレーナーを着る少年。帽子をかぶっているが、サイズが合わないのか髪の量が多いからか今にも落ちそうだ。
「……君は?」
「俺はウル。このスラム街『フェムト』で暮らしているよ」
「家族は?」
「いない。俺だけだ」
「なんと。君だけと申すか」
「そうだ。俺だけだ」
「悲しくはないか?」
ヴァルトがしゃがんで、ちょうど顔をウルの顔と同じ位置くらいにまで低くした。
「悲しくなんてないよ。そういうの暇がない。だって、この街は毎日が戦争だ。生きるための、ね。それに負ければ当然死ぬ。弱肉強食の世界、ってやつだ」
ウルは、彼らが思っている以上に至極強い少年だった。
「……ところでさ、どうしたの?」
「ちょっと用事があってね」
「マンホールから侵入するほど重大な?」
「いくらで手を打とうか」
早速崇人はお金の計算をし始める。余談だが、ハリー騎士団はそれほどお金は所持してしない。
「いいや。別にいいよ。黙っておくよ。だって、今のカーネルはひどいから」
「ひどい?」
崇人がその言葉をリフレインする。
「そうだ。ひどいんだ。だって俺の兄ちゃんは、カーネルに……ラトロに……リリーファーに殺されたようなもんだから」
「……何があったのか、出来れば話してくれるかな?」
その、マーズの優しい言葉にウルは小さく頷いた。
そして、彼は語りだす。
一年前の――彼にとって悲しい悲しい出来事を。
一年前。
カーネル起動従士訓練学校、起動従士クラス二年の教室。
ダレンという青年はこのクラスでトップの成績を誇っていた。彼はこの街のスラム出身だったが、それを蔑む者などいない。それはこの学校が超然とした実力主義だからだろう。
「おぉ、ダレン」
廊下を歩いていた彼は眼鏡をかけた先生に声をかけられた。
「どうしました、先生」
「実は君に、ある実験に付き合ってもらいたいとラトロからのお達しがあってね……。なに、ここで立ち話する内容でもないから、先生の教員室で話そう。これから授業は?」
「数学の授業が入っていますが、問題ありません」
「……解った。しかし今は授業よりも優先すべきことだ。数学の先生には私から言っておこう。少なくとも欠課時数がつくことはあるまい」
先生はそう言って眼鏡をずり上げる。そうしてダレンと先生は先生の教員室へと向かった。
先生――ルフリート・エンジャンクラーの教員室は学校の管理事務施設が一堂に存在する西エリアの二階、その一番奥にある。
ルフリート、ダレンの順で彼らは部屋に入り、ソファに腰掛ける。ダレンが出口側の席、ルフリートがダレンの正面の席に座っている。
「……さて、取り敢えず単刀直入に言おう」
ルフリートが出した紅茶を、許可を得て一口飲んだダレンに、ルフリートが言った。
「ラトロを、君はどれくらい知っているかい?」
「ラトロ……リリーファー応用技術研究機構のことですよね。世界にある民有リリーファーの凡てを設計・開発し、販売している」
「それが解れば大体いいだろう。……ラトロからのお達しというのは、ある実験に参加して欲しいということだ。そして、その実験というのがね、『新型リリーファーのシミュレート実験』だ」
「新型?」
「言うなら、第五世代だね。ペイパスの『ヘスティア』は第三世代、『エレザード』は第四世代だ。ヴァリエイブルの『アレス』は第二世代からさらに|拡張(エクステンション)したものだから、実際はどの世代に位置するのかは怪しいところだけれど」
「その、第五世代に乗ることが出来る、と?」
思わずダレンは唾を飲み込む。緊張しているのも無理はない。なにせ彼が言う第五世代とは今よりも一歩進んだ世代となる。『エレザード』ですらつい半年前に出来たばかりなのだが、研究者の追求とは基本とどまるところを知らないものだ。
「……第五世代、その名も『プロジェクト・ムラサメ』だ」
「ムラサメ?」
「なんでも古くに伝わる剣の名前らしいが……詳しくは私にも知り得ない。ともかく、この名前であることは決定事項だし、君や私がどうこう言おうともそんなことは関係のない話だよ」
ルフリートはそう言って、紅茶を一口啜る。
そして立ち上がり、机の上に置かれた資料をダレンへと差し出す。
そこにはこう書かれていた。――『第五世代リリーファー駆動実験について』と。
それを見て、益々ダレンは胸を躍らせた。何しろ今まで誰も乗ったことがないであろう最新世代のリリーファーに、自分が実験台になるとは言え、乗ることができるということが、どれほど素晴らしいことか、どれほど栄誉なことか、彼は知っていた。
だからこそ。
「……やります。やらせてください」
彼は即決した。
そのあと、何が起こるのかも知りもせずに。
◇◇◇
「……それが、俺の兄ちゃんだ」
そこまでがウルの独白だった。
そこまでが、ウルの悲しい記憶だった。
「辛かったな」
ヴァルトのその一言に、ウルの目は泣きそうになっていたが、直ぐに涙を堪え、
「何。一人で平気さ。殺された、とは言ったけれど帰ってこないだけだ。だから、もしかしたら、生きているかもしれないし……」
「甘えてもいいだろうよ」
次に言ったのは崇人だった。
「お前は子供だ。そして俺も子供だ。泣きたい時は泣けばいい。笑いたい時は笑えばいい。感情なんて溜め込まないで、さっさと吐き出しちまえばいい。それが人間の別段自然なことだろ。自然に感情を出して、何が悪いんだ」
「……何がわかる」
「ああ、解らねえよ。けれど、ぐずぐずしている、お前も解らねえよ。本当に気にしていないなら、どうしてお前は俺たちに話したりしたんだ? もしかしたら助けてくれるかも……とかそんなことを考えたんじゃないのか?」
「そんなことは」
「考えていない、というのか?」
崇人の言葉に、ウルは唇を噛むだけだった。
「……なあ、甘えてもいいんだぜ? 何も世界がお前一人で回っているわけじゃないんだ。たまには、甘えてもいいと思うんだよ。な?」
「まあ、別に『必ず甘えろ』というわけでもないんだが……」
ヴァルトはポケットからタバコを取り出して、咥える。
「とりあえずお前の兄さんは探しておくよ。……君はここで平和に暮らしておくんだ。ここならば安全だから」
そう言って、彼らはゆっくりとスラム街を後にした。
ウルはそれをただ見ることしかできなかった。
スラム街を出て。
「……なあ、本当に良かったのか?」
崇人はヴァルトに訊ねる。
「ん? ああ、あの子の事かい? 自分で何とかする……とか思わせぶりな人間にとって一番困るんだよ。何をしでかすか解ったもんじゃない。だからこそ、こちらで何とかすると言ったまでだ。ああ、あくまでも騙したつもりはないさ。もし出来たら、というだけ」
「騙しているじゃないか」
「そもそも誰かにやってもらうのを待っていたのなら、自分でやる人間も居ないさ。こっちでしてあげてもいいけど、それが成功する保証はしないよ、というだけ」
ヴァルトの言葉は正論ではあった。
だが、崇人としては少しだけ彼を騙した気分になってしまうのだった。
「一先ず、これからどうする? 通信でもとって確認するのか?」
崇人が訊ねると、マーズが小さく微笑む。
「大丈夫よ。ある場所を知っている。そこへ行かなくてはいけないのよ」
「そこを基地とする感じなのか?」
「ん? ああ、間違ってはいないわ。けれど、基地というか協力者という感じの方が近いわね。ニュアンスの問題よ」
「そうなのか」
「そうよ」
マーズと崇人はそう会話を交わし、一先ずマーズのいうその場所へ向かうこととした。
――したのだが。
「ところで、そこまでの交通手段は?」
「地下鉄?」
「徒歩とかだと見つかるリスクが高いのかな?」
「いや、どのみちすぐ見つかる。だったら地下鉄を使って……」
「あの」
そんなハリー騎士団の会話に割り入る誰かがいた。
その声のする方へ彼らが目線を移動させると、そこにはウルがいた。
「ウル、ここまで来ていたのか」
「あのさ。兄ちゃんが昔使っていた車があるんだけど」
「車? それはどれくらいの大きさなの?」
「結構人数は入るだろうけれど、それでも八人くらいだと思う」
ウルの言葉を聞いて、崇人は脳内でメンバーを構成していく。
「それじゃ、俺とマーズ、ヴィエンスにエスティ、そしてエルフィーとマグラス、これで六人だな」
「運転は俺がしよう」
ヴァルトが言った。
「それじゃ、任せる」
「あの」
ウルが呟いた言葉を、崇人は聞き逃さなかった。
「どうした?」
「俺も……連れて行ってくれ! 邪魔になったら置いていってもいい! ただ……兄ちゃんがどうなったのかだけが気になるんだ!!」
「危険な場所だ」
「解っている」
「死ぬかもしれない」
「百も承知だ」
崇人の言葉に対しても、ウルは視線を崇人から離すことはなかった。
崇人は小さくため息をついた。
「……解った。お前が最後のメンバーだ。残りはこのスラム街で待機してくれ」
それを聞いて残りのメンバーは敬礼した。
ウルは、何度も何度も頷いていた。
「いいの?」
マーズが訊ねると、崇人は肩をすくめる。
「しょうがないさ。あんな熱い視線を送られちゃあ」
そして、崇人たちはその車がある場所へと向かった。
スラム街の一つのバラックに、それはあった。
ビッグサイズの4WD車だ。前は綺麗な赤色だったのだろうが、土埃をきちんと落としていない(もしくはわざと落とさなかった)ためか色は赤茶色になっていた。
そういえば崇人はこういう車を元の世界でも見たことがあったように思えたが、しかし今はそれを考えている時間などない。
運転はヴァルトに任せ、崇人は助手席に乗り込む。マーズ、エスティ、ヴィエンスが真ん中、後ろの方にエルフィー、マグラス、ウルが乗り込んだのを確認して、漸く車が発進する。
「しかしまあ……この車は、よく動くな。エンジンが至極調子いいぞ」
運転席に座るヴァルトはそう言って、鼻歌を歌い始めた。崇人は頷いて、窓から外を眺めた。
外は、直ぐにスラム街から離れ、徐々に町並みが広がっていく。
町並みはスラム街と比べれば恐ろしい程違っている。高層ビルが立ち並び、道路には針葉樹が等間隔で植えられている。街を歩く人たちはどれも高級そうな服に身を包んでおり、この都市の格差がひと目で理解できる。
「酷いな」
ぽつり呟くと、ヴァルトがそちらに目をやる。
「なんだ。今更気がついたのか。ここの酷さに」
「……逆に、気がついていたというのか?」
「当たり前だ。何もこの街凡てが平等的に豊かさを共有しているなんてそんなことは有り得ない。それこそ資本主義から反する。君も勉強を本分としている学生ならば、それくらいは理解していて当然の事であると思うのだがね」
「知っているさ。ああ、勿論知っているよ。人間は幾何級数的に増加するが、食物は算術級数的にしか増加し得ない。まあ、つまり極論をいえば、人間は生活の最低基準の食物しか得ない部分までも増え続けてしまうことを意味している、学説のことだったかな」
「それくらいを知っているなら、君は私の言葉を充分に理解していると、考えていいかな?」
「まあ、いいだろうな。間違えてはいないだろう」
崇人がそう言って鼻を鳴らす。ヴァルトは目の前にある高い尖塔を指差した。
「あれが見えるかい?」
「ああ」
「あれはこのカーネルを統べている『ラトロ』の中心管理施設だよ。名前はユグドラシルタワー。なんでも世界を分けた樹の名前をいうらしいが……まあ、ああいう高い塔を建てて権力の象徴とすることはよくあることだが、それでも悪趣味であることは、誰がどう見ても百発百中であるよね」
ヴァルトはそう言って、ポケットから何かを取り出した。
「手、出して」
その言葉の通り、崇人は両手を出した。それを見て、ヴァルトは崇人の手に何かを落とす。
それは、紙を折りたたんだ何かだった。
それを見て崇人は、その紙を開いていく。
「これは……?」
崇人はそこに書かれている中身を見て、すぐにはっきりとした反応を示すことは出来なかった。
崇人の反応を見て、後部座席に居たエスティがそれを取る。
エスティがそれを見て――目を疑った。
「ヴァルト……さん、これって……」
「リリーファーがこの世界で開発されている、凡てをラトロで行っている。では、そのラトロが……もし、開発を中止し、独立するなんて事態に発展したとするなら、それは世界そのものを壊しかねないだろうね」
「ラトロの目的は……そういうことだと、いうのか……!」
「そうだ。そしてそれで困るのは今の時代、それで恩恵を受けている人たちだ。この『新たなる夜明け』のような組織だってそうだ。私たちは表では傭兵派遣サービスを行っているからね。それが貴重な財源ともなっているわけだ。……それはさておき、戦争がなくなる事はないにしろ、急にリリーファーでの戦争が出来なくなれば困る人間は得する人間の比じゃないということだ」
「なのに、彼らはそれを実行しようとしている?」
「ああ。大方、自分たちが時代の革新者にでもなろうと思っているのかもしれないな。そんなことをしたとしても、時代は勝手に変わってくのに、だ。この時代だってそうだぞ? 例えば野菜が今こそは豊富にあるが、これが暫く続けば野菜が無くなってしまうかもしれない。そうなったら、野菜に代わる新たなものを作るか、見つけねばならない。……それがそう簡単には出来ないだろう? つまりはそういうことだよ、彼らは『賭け』に出ている。『世界を変えることができる』という方に、ね」
「世界を変える、ねえ……。なんとも陳腐な考え方だとは思うけれど」
崇人はまだ、顔を外の方に向けたままだった。
マーズが小さく顔を顰めて、カバンから何かを取り出した。
「あっ、それって」
「腹が減っては戦は出来ないからな。レーションは常に持っている。だが、このレーションがまったくもって、不味い。一言で言うならば、不味い。どれくらい不味いかっていうと……まったく味の比較が出来ない。そうだな、消しゴムを食っているような感覚だ」
「食べる気失せるわ!」
「ああ、タカト。だが、心配しないでくれ。仮にも私はリリーファー起動従士だ。それなりのレーションをもらっているし食べている。別にグルメな舌ではないが、それなりに舌鼓を打てるようなレーションだよ」
「例えば?」
崇人の問いに答える代わりに、マーズはカバンから取り出した缶詰を開く。
そこに入っていたのはチョコレート味のパンだった。
「へえ……今ってレーションにパンとか使うのか」
崇人はそれを見て、呟く。
「美味いぞ。食うかい?」
「頂こうかな」
そう言って、缶詰から取り出したパンを少し千切る。
崇人はそれを頬張って、腰に携えている水を一口飲んだ。
「ふむ、なかなかチョコレートの味が広がっていて、うまい」
「だろう? 軍用食料も馬鹿に出来まい。何れは君たちもこれを数日分持ち歩くことになるんだ。初めに食べておいて、味を確認しておいたほうがいいだろうよ」
ふうん、と崇人は鼻歌を歌いながら、また景色を見始める。エスティはもう一口マーズからチョコレートパンを千切り、微笑みながら頬張った。
暫く車を走らせていると、市街地を出た。
市街地を抜けると、荒野が広がっていた。川はあるのだが、どこか澱んでいる。場所によっては銀色や鈍色など、とても水が綺麗なものとは思えない色ばかりが流れていた。
「なんだよここは……」
崇人が言葉を漏らした。
「人々は最高の利便を追求した。結果としてこのような事態に陥る。ただし先程の市街地……『中枢都市』ではそのような被害は見られない。強いて言うならば、そんな被害が見られるのはその中心よりは離れた場所……『外郷』だよ。その場所では、経済が不完全である。不完全競争市場となっているわけだ。いや……寧ろ競争をしているのだろうか。市場という形態を為しているのかが怪しいところだ。ともかく、この街の工場を持つ会社は、そういう汚水を綺麗にしたりとか、そういうのを怠っている。だから、とことん切り詰められる。当たり前だ。そういう、事後処理ってのは一番お金がかかるからね。だが、そういうのを無視して、進めていくわけだ。するとどうなるだろう? 『中枢都市』と『外郷』の状況はますます隔たりが生じてしまう。まるで、別の国みたいに」
「それがこの都市の現状だ、ということか……!」
「そういうこったな。……おっ、見えてきたな。あそこか?」
ヴァルトはマーズに訊ねる。マーズはそれを見て、小さく頷いた。
よく見ればそこは少し変わった場所だった。
バラックであることにはかわりないのだが、そこから突出した要素が幾つか存在する。
例えば、大きなパラボラアンテナ。
例えば、地平線まで伸びているのかと思わせる白線。
そのどれもが、変わっていた。
「……なんだよ、ここ。寧ろ隠れ家にしちゃ、無理な場所じゃないか」
崇人は嘯くが、そんな不安をよそに車はバラックの隣に停車した。
家の玄関にマーズ達が立ち、先頭に立っていたマーズが扉をノックする。ノックには反応がなかったが、マーズは崇人に向かって小さく微笑むと、ドアノブを捻った。
呆気ないほどに扉は開かれた。この扉には鍵がついていないのだろうか。
家の中は恐ろしくシンプルなリビングだった。ダイニングテーブルに、四脚の椅子、何だか解らないがないとしっくりこない独特の存在感を放っている風景画に、小さいながらもテレビまでついている。
「ここは、いったいなんだ?」
訊ねたのはヴァルトだった。別に彼以外誰も疑問を抱かなかったというわけでもなく、いつ誰がその質問をしてもおかしくないほどに、その部屋は変わっていた。生活感はあるのに、誰も居ない。まるで、急にここに住んでいた人が消えてしまったような……そんな感じだ。
「おっかしぃなぁ。ちゃんとここに行くよとは事前に連絡しておいたのに」
マーズが呟きながら、部屋を歩き始める。ただ、崇人達はその様子をずっと眺めていたのだが――。
――不意に、マーズがある場所で立ち止まった。
そこには、小さな本棚があった。本棚には神話の本や、雑学の本、物理の本などジャンルが様々な本が雑然として並べられていた。
「……これね」
その中にある一冊の本を取り出す。
すると、ゆっくりとその本棚が横にスライドし始めた。
「これって……隠し扉?」
「まったく、厄介なことばかり作っている人ね……。だからこそ『天才』だなんて呼ばれるんだろうけれど」
マーズはそんなことを嘯きながら、スライドしていく本棚をただただ眺めている。
本棚がスライドを終えると、そこには小さな扉があった。隠し扉というやつだろう。しかし、実際に言われないと解らないほどの難易度である。それを考えると、ここに住んでいる人間はよっぽど変わっているのだろう――崇人はそんなことを考えると思わず頭を抱えてしまう。
扉を開け、中に入る。そこにあったのは、階段だった。階段はずっと地下へ続いており、そのほの暗さは恐怖すら思わせる。
その階段を――マーズは何も思うことなく、降りていく。それを見て、崇人たちは一瞬考える素振りを見せたが、しかし直ぐにそれを追いかけるように扉の中へと入っていった。
階段の壁は等間隔に松明が置かれていた。正確にはそれは松明ではなく、松明に象られたただの照明に過ぎないのだが。
「いったいここには何があるんだ……?」
「もう少しすれば、幾らなんでもあいつの部屋があるんだと思うんだけれどなあ……」
そんなことを言っているうちに、彼らが歩く先に光が見えてきた。
「ここね」
そう言ってノックもせず、マーズを先頭にして中に入っていく。
そこには機械だらけのワンルームがあった。壁が一切見えず、寧ろ壁が機械と化していた。そして、画面を覗き込んでいる男が、そこには居た。
「いたいた。だから、言ったじゃない。私が来るって」
「んー?」
画面から目線を逸らし、マーズの居る方へ振り返る。
眼鏡をかけて、若干白髪混じりの男だった。白衣を着ていたが、その中はランニングを着た、中肉中背の男。それが彼の特徴だった。
呆けた声で、彼は答えて――眼鏡の位置を直しながら、彼はマーズたちの顔をひとりひとり見ていく。
「マーズ、君が直々に来てくれるのは聞いていたが……残りは?」
「ハリー騎士団という騎士団と、『新たなる夜明け』という秘密組織の面々よ」
「なんてこった。そんな騎士団がいつの間に完成していたんだ」
そう言って男は肩を竦める。
「嘘を付け。私はきちんと『騎士団も行く』と言ったはずでしょうよ」
「……そうだったかな? メールをきちんと読んでなかったからかなあ。記憶が曖昧過ぎちゃうよ」
「電話だったんだが、もはやそこから記憶が捏造されているのか?」
「そうだったかなあ。うーんと……」
そこで男は頭を上げる。
「ああ、そうだったよ。電話だった。電話。ええと、そうだね。ハリー騎士団? だっけ? 聞いたことないんだけど、新設されたのかい?」
「この前に、ね。最強のリリーファー≪インフィニティ≫を守護するために結成した、というね」
「そうなのか」
「そうだったんですか」
「やっぱり」
男、エスティ、ヴィエンスがそれぞれの反応を示す。
「……まあ、一先ず。私がここに来た理由……解っているよね?」
「ああ。……なんだっけ?」
「おいおい。忘れないでよ。二つ、あなたに提示したでしょ? 一つ、ここをカーネル侵攻時の拠点とすること」
マーズは右手の人差し指で、男を差した。
「そして……こっちが重要。二つ目として、エスティ・パロングとヴィエンス・ゲーニック両名の『パイロット・オプション』を解放すること」
「……僕も聞いたときは驚いたが、本当にいいのか?」
男の目の色が変わったのが、崇人たちには解った。
そして、一番動揺したのは、
「パイロット・オプションを解放する……?」
ここまでまったく聞かされていなかったエスティとヴィエンスだった。
「なんだい、話していなかったのか?」
「話さないほうがサプライズ性が増すかな、と」
マーズが即答した返事を聞いて、ため息をつく。
「君のそういう悪戯さは昔から変わらんな」
「褒めてもらって嬉しいねぇ」
「……で、結局そちらの方は?」
「なんだ。それすらも説明していないのか、マーズ」
「サプライズ」
「……ああ。解ったよ」
何かを悟ったらしく、小さく頷くと、崇人たちの方を向いて、小さくお辞儀をした。
「はじめまして。僕はコルト・ヴァルヘルン。これでも科学者をしている。どうぞ、よろしく」
そう言って彼は――左手を差し出した。崇人は「それは右手じゃないのか?」と思ったのだが、そこは相手に従うこととして、崇人も左手を差し出し、二人は握手を交わした。
「……済まないね。おかしいと思っただろう? 僕はどうも、利き手を預けるのが嫌でね、けれども握手はせにゃあかんときもある。だから、そういう時は極力左手だけにしている。右手は預けない。そういうのが基本なのさ。だから、違和感を感じたかもしれないね。その辺に関しては、僕のくせということで捉えてくれるとありがたい」
くせというのだから仕方がない。
崇人はそう自分に言い聞かせることとした。
「さて」
コルトはそう話を切り出した。
「それじゃあ、早速パイロット・オプションの解放に移るかい?」
「お願いするわ」
「ちょっと待て。パイロット・オプションを解放とかずっと言っているんだが、そんなことが……そんなことが……実際に可能なのか?」
エスティとコルトの会話に割り入るように、ヴィエンスは訊ねる。ヴィエンスは驚きを隠せない様子だった。
対して、マーズは呆れたような表情を示した。
「流石にそんなことが出来なかったらここに連れてこないわよ。彼は……パイロット・オプションを解析し、起動従士となる人間からパイロット・オプションを引き出すことに、世界で初めて成功した科学者なのよ。今は金も名誉もいらない、ただ研究したいんだー! などとほざいてこんなところで一人ぽつぽつと研究をしている……謂わば『変人』よ」
「変人と言われるとちょっとなあ。僕的にはただ研究がしたかっただけなんだけれど」
マーズの言葉を聞いて、コルトは嘯いた。
「それを変人というのよ。この世の中では」
それに対して、マーズは答える。
コルトは覚束無い足取りで、壁の機械に触れる。そこにはボタンがあったのか指紋認証があったのかは知らないが、無機質な電子音が直ぐに部屋に響いた。
そして、壁が、ゆっくりと左右に開き始めた。
「……それじゃあ、向かおうか。本当は気が乗らないんだけれど、マーズの頼みならば、致し方ない」
そう言って、崇人たちはコルトについていく形で、その通路へと入っていった。
コルトに連れられて、ハリー騎士団の面々がやって来たのは小さな研究室だった。
大きく張られた窓の向こうには、ベッドと、大量の電子機器。
「一先ず、ここで待っていてもらおうかな」
コルトがそう言うと、ハリー騎士団は窓前にあるソファに腰掛ける。
「それで、えーと、誰だっけ。ヴィエンスくんとエスティさん。君たちは……僕と一緒にこの部屋に入ってもらうかな」
そう言うと彼らは頷いて、コルトについていく形で部屋の中に入った。部屋に入るとベッドと電子機器があった。どうやらこの部屋は先程の窓を通して見た部屋らしい。窓が見当たらないのは、あの窓がマジックミラーだからなのだろう。
「この部屋で、実験を行う。……ああ、そこまで恐ろしいマッドサイエンティストがやるような狂気で残酷な実験ではないよ。僕は昔みたいな感じはやめたからね。何しろ年齢に合わない」
「前はやっていた、ということなのか……?」
心なしか、ヴィエンスの声は震えていた。
対して、当の本人は口笛を吹いてどこ吹く風と聞き流していた。
「そんな感じでやっている暇があるのか」
「いいじゃないか。どうせまだ時間はある。楽しもうじゃないか、これを」
楽しむと言われても、現に実験の被験者となっている彼らにとって、それは気持ち悪く、恐ろしく、出来ることならさっさと穏便に終わらせてしまいたかったことだった。
まったく知らされていなかったことであるが、起動従士となったからには避けて通れない道ということも彼らは知っていた。
だが、実際に通ってみると――至極恐ろしい。
過去の起動従士は皆、これを通過儀礼としていた。それを考えるとヴィエンスは自分がすごく小さく、見窄らしく思えた。
無意識に身体を小さく震わせていたヴィエンスを見て、コルトは小さくため息をついた。
「……別に誰もが皆、これを通過儀礼としたわけじゃあない」
まるでその言葉は、ヴィエンスが考えていたことが筒抜けとなっていたようだった。
「例えば、マーズだって、今は『女神』とか言われているくらいだが、ここに訪れた時は君みたいに怖がっていたよ。でも、彼女はパイロット・オプションを手に入れた。それは彼女が怖がっていたのを、無理矢理に僕がやらせたとか、そういうわけじゃあない。彼女は怖がっていたが、最終的にはそれを受け入れたのさ。自らの使命、自らの生きる道、自らが必要とされている場所はどこか……ってね。そうして彼女は戦場を生きる場所とした。だから、彼女にはパイロット・オプションが宿ったんだろうよ。パイロット・オプションはたしかに生まれながらにしてあるものだが、それを解放出来るかどうかは本人の気持ちというのもあるが、『カミサマに受け入れてもらえるか』というのもある。なあに、何も強い信仰心を持て、ということではない。自分がその運命を受け入れることが出来るか……それが問われるんだ」
「つまり」
ヴィエンスはコルトに訊ねる。
「結局は運次第、ってことか」
「そうじゃないさ。運も実力のうち、だなんて言うが実際はそうでもない。運はたしかに必要な時もある。だが、運が超絶悪かったとしても生き延びて、結果として武勲を得るのだっている。だから、『運も実力のうち』だなんて言葉は今はもう昔のことのようにも思えるね。かといって、運を度外視してたらどうなるかわからないし……。結果としては、運を実力と捉えるか捉えないかは君次第、というわけだ」
「話がこんがらがっていないか? 結局はまったく進んでいないようにも思えるんだが」
「そうかな? 進んでいるようで進んでいない。イライラするかもしれないが、これが僕の話し方でね。なんていうのかな、匍匐前進? 一歩進んで二歩下がる? そういうスタイルが好きなのさ」
「戻ってるぞオイ」
ヴィエンスとコルトの会話に、若干ついていけなくなっていたエスティは、ここで小さくため息をつき、ベッドに腰掛ける。
それを見て、コルトは咳払いをした。
「待たせてしまっていたね。申し訳ない。……それじゃあ、改めて『パイロット・オプション』とは何ぞやということから入ろう。エスティ、君はパイロット・オプションについてどれくらい知っている?」
「え?」
突然指をさされたエスティは、慌ててしまった。狼狽えて、何も言えなくて、ただ声にならない声を出すだけだった。
コルトはそれを見て小さく微笑むと、眼鏡をずり上げる。
「少しだけ意地悪な質問をしてしまったかな。それじゃあ、ヴィエンス。君ならどうだい?」
「パイロット・オプションとは、リリーファーを操縦する起動従士、それも国付きの、正式に自分の機体を授かった起動従士にだけ備わる特殊能力のことだ。大抵は自分が所属する国であっても、管理はリリーファーを整備する整備リーダー等しか知り得ない機密となっている。しかしながら、何処からかそれが流出して、結局はその隠蔽も無意味になっている。……えーと、ここまででいいのか?」
次に指をさされたヴィエンスは、さも用意してあった通りに答えた。
最後にコルトに訊ねると、コルトは手を叩いてニヤリと笑った。
「最高だ。百点だよ、ヴィエンス。まだ起動従士になって日が浅いというのに、そこまで知っているとは感激だ」
「これくらいは……常識だろう」
よほど褒められるのに慣れていないのか、どことなくヴィエンスの顔が赤かった。
コルトはうんうんと頷いて、ベッドの横にある電子機器のスイッチを入れる。
「これから君たちの深層心理に働きかけたいと思う」
そう告げたコルトの言葉に、ヴィエンスとエスティは首を傾げる。
「深層心理?」
「深層心理というのは、心の奥にある……無意識的なプロセスさ。人間の思考のうち、自分自身で自覚が出来ている部分はおおよそ十パーセント程度とも言われているんだが、その他の『無意識』な部分では、自分自身の制御が直接的に及ばない要素が数多に存在しているんだ。例えばの話をしよう」
そう言ってコルトはすぐそばにあったホワイトボードをヴィエンスたちの前に持ってくる。
ヴィエンスたちがホワイトボードに目線を集中させているのを確認して、コルトは黒いサインペンを手にとった。
「心理構造を深海と例えてみよう」
そう言ってまず線を一本引き、左側に『beach』と書く。砂浜のことだ。
「ここから右にあるのは海。強いて言うならここはまだ浅瀬だね、深さも申し分なく、泳ぐには最適なエリアだ。ここだと意識として外部に見える『表層』として捉えられるよね。これが普通に人間が感じたり表現したりする『表層部分』だ」
そう言って、さらにその右側に線を一本引く。
そして、そこから先を青いサインペンで塗りつぶした。
「そして深海……ここから先は人がそう簡単に泳ぐことができない。……オーバーなことを言うと、潜水艦でもないとそこまで到達することはできない。だから空から見ればそれは見ることができない。だが、その深海は表層に影響を与えることだってある。しかしそれは外部からは見えないという非常にロジックに富んだ場所がある。これが『深層』。これが『深層心理』だ」
コルトの話はさらに続く。
「深層心理とは、幼少期や思春期における体験、あるいは劇的な体験……まあ、例えば近親者が死んでしまったり、犯罪や戦争を経験したり目の当たりにしたりなどとしたことによって形成される……そういう学問ではそのように考えられている。君たちがたまに聞く『トラウマ』というのは心に大きな傷を負った……謂わば心理的外傷のことを言うんだ」
「……どうして、深層心理が関係あるのか具体的に答えてくれないか」
ヴィエンスは、コルトの独壇場が始まってから気になっていた疑問をぶつけた。
対してコルトは肩を竦める。
「だから言っただろう。そして、それは先程君が答えた『パイロット・オプション』の答えにもあったじゃあないか」
「?」
「いいかい。『パイロット・オプション』はもともと気がつかないうちに備わっているんだ。そしてそれに気付くのは、自分で気付くのか、それともこのようなことをやって気付くのかはそれぞれだ。パイロット・オプションは深層心理に眠っている、自分自身の制御が直接及ばない要素なんだよ」
「それを揺り起こす……そういうことを言いたいのか?」
ヴィエンスの言葉にコルトは小さく頷いた。
「揺り起こす、という言い方は少々訂正したほうがいいかもしれないな。正しくは、『解き放つ』。もともと君の身体にあった力だ。揺り起こす、よりは表現として解き放つと言ったほうが適当だろう?」
「表現としての問題か!?」
「いやいや、案外大事だよ。こういうのは」
そう言って、コルトは何かを取り出した。
「それは……注射?」
「そうだね。まあ、詳しい成分は言わないでおこう。面倒臭いからね」
「面倒臭いってなんだよ。大丈夫なんだろうな」
「それは大丈夫だ。さて……まずヴィエンス、君からやろうか」
そう言われたので、エスティとヴィエンスはベッドから立ち上がる。エスティは脇に避けて、ヴィエンスのみコルトの指示に沿ってベッドに横たわった。
「別に痛くはない。それは安心してもらいたい」
「別に痛みを感じても泣くことはない。それほど弱い生き物だと思っていたのか」
ヴィエンスの言葉に、コルトはニヒルな笑みを浮かべる。
「ふうん……そうかい、ならいいよ。それじゃあ、君の精神力次第で、パイロット・オプションが目覚めるかどうか決まる。……健闘を祈るよ」
そして、コルトは右手に持っていた注射針をヴィエンスの左手の動脈に突き刺した。
ヴィエンスの意識は、そこで途絶えた。
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