(10)

「――そう言えば、かれんちゃん、あっちの方の意味はわかった?」

 昴に別の話を振られて、かれんは昴の方を再び見た。

 さっきは「ヘンな感じ」がしたのに、今見た昴は普段と同じニコニコとした表情をしている。

 さっきの「静かに笑みを浮かべる」大人っぽい表情は、幻か何かだったかのように消えてしまっていた。


「あっちの意味?」

「キャロル・キングの話の意味」

 昴が手を伸ばしてラジカセのスイッチを押すと、キャロル・キングの「つづれおり(Tapestry)」の一曲目である「空が落ちてくる(I Feel the Earth Move)」が流れて来る。


「ああ、あれ? 私の名前はカーペンターズのカレンと同じ名前だけど、雰囲気的にはキャロル・キングっぽい感じ、特にこの『つづれおり』、ってことの意味?」

「うん」

 昴がキャロルそっくりの声で「空が落ちてくる」のワンフレーズを口ずさみながら頷いた。

「あれは……。私、昔からキャロル・キングの『つづれおり』のほろ苦いような雰囲気が好きで昔から聴いていたんだけど、私もそんな『ほろ苦い』雰囲気だって言いたかったんでしょ?」

 

 かれんが(言うの恥ずかしいな……)と思いながら小声で説明すると、昴はニコニコしながら手を叩き始めた。

「うん、かれんちゃん、正解! やっぱり、かれんちゃんはすごいね」

「正解って……。じゃあ、昴、やっぱり私のことを『苦い女』だって思ってるんじゃない」

 かれんはあえて「ほろ苦い」の「ほろ」の部分には触れずに不機嫌そうな表情をした。

 このまま「ほろ苦い」の「ほろ」の部分に触れられるのは、何とも気まずい。


「そんなことないよ。僕、かれんちゃんのこと『苦い女』なんて思ってないよ。あくまでも『ほろ苦い』って思ってるんだから。

 ほら、お砂糖がたくさん入っている甘いチョコレートもあるけど、カカオ分が多いほろ苦いチョコレートもあるでしょ? 僕のキャロル・キングのイメージってカカオ分が多いチョコレートってイメージなんだ。つまり、大人のしっかりとした女性ってイメージ。

 子供って、大体はほろ苦いチョコレートよりも甘いチョコレートの方が好きなんだけど、僕は昔からほろ苦いチョコレートが好きだったな。かれんちゃんも昔からキャロル・キングが好きだったしね」


 昴はかれんの方にニコニコとした笑顔を向けると、もう一度「ねっ」と言って、意味ありげに目くばせをした。


(――何で、そんなことが「サクッ」と言えるの)

 かれんはさっきよりももっと恥ずかしくなって昴から視線を逸らそうとしたが、この間、希恵と会った時に自分の心の中で言った言葉を思い出した。


 ――素直に自分の気持ちを正直に言わないと、昴、どっかに行っちゃうかもしれないよ。


 嬉しいくせに、とかれんは自分に向かって心の中で呟いた。

 昴に「僕は昔からほろ苦いチョコレートが好きだったな」と言われて嬉しいくせに。

 この間、古町のアーケードの中で昴に後ろから抱きしめられて、恥ずかしかったけど内心は嬉しかったくせに。

 昴があの知里と言う少年に、ハッキリと「僕はかれんちゃんと『マーズレコード』のある新潟に残るよ」と言った時、嬉しかったくせに。


 小さい頃から今まで、ずっとそうだ。

 

 昔からいつでもどこでもマイペースな昴だけど、自分の姿を見ると「かれんちゃん、かれんちゃん」とトコトコ後ろをついて来てくれるのが嬉しかったくせに。

 自分の元や自分の住んでいる新潟に戻って来ることはないだろうと思っていた昴が、ひょっこり新潟に戻ってきた時、死ぬほど嬉しかったくせに。


 他にも、挙げればたくさんある。

 自分は昴が何かしてくれるたびに、本当は嬉しいのだ。

 何かしてくれるたびに嬉しいと思ってしまうほど、ずっと昴のことが好きだったのだ。


 でも、自分が素直に「嬉しい」と思おうとすると、あの例の「モヤモヤ」とした気持ちがこみ上げてきて、自分を邪魔するのだ。


 この「モヤモヤ」とした気持ちは「悔しさ」の表れなのだ。自分でもよく分かっている。


 小さい頃からこんなにも頑張って、それこそ歯を食いしばるような努力して「才色兼備」という言葉が似合うような自分になったというのに、結局はこの何でも「サクッ」と出来る昴にもって行かれてしまうという事実が悔しいのだ。

 そして、昴は何でも「サクッ」と出来るほど万能な人間だというのに、「すごい」と言うことをちっとも鼻にかけないし、自分とは違って子供みたいに純真で感じたことを正直に言って来るから、ますます「モヤモヤ」するのだ。

 だから、昴にどんなに「遠慮しないで何でも言ってね」と言われても、何かを頼むことができない、気になることがあっても言えない、でも文句ばかりは言ってしまうということになってしまう。


 悔しければ、素直に「悔しい」と言ってしまえば良いのに、それすら言うことができない。

 そして、そんな素直でない自分にますます「モヤモヤ」してしまうのだ。


 ――昴に「悔しい」とか素直に言ってしまえば、この「モヤモヤ」がなくなってラクになるのだろうか。

 今更、遠慮するような仲ではないし、正直に言ってしまえば……。


「――かれんちゃん、どうしたの?」

 昴に声を掛けられてかれんは我に返った。

 昴が自分のことを驚いた表情で見ている。

 かれんは昴の表情を見て、自分がようやく目にいっぱい涙を溜めていることに気付いた。

「あっ、やだ、私……」

 かれんは慌ててカバンからハンカチを取り出して、目元を抑えた。

「仕事で何かあったの? それとも、僕、さっき何かヘンなこと言った? それとも、嬉しかったの?」

 昴に「嬉しかったの?」と的確なことを言われて、かれんは例の「モヤモヤ」とした気持ちがこみ上げて来るのを感じた。


 ――素直に自分の気持ちを正直に言わないと、昴、どっかに行っちゃうかもしれないよ。


 かれんの頭に再びあの言葉が蘇る。

 かれんは一瞬昴の方に向き直ろうしたが、気づくと座っていたイスから立ち上がっていた。

「かれんちゃん?」

 昴が立ち上がったかれんのことを見上げた。

「――私、帰る」

 かれんは目元をハンカチで抑えたまま、「マーズレコード」のガラス戸を「ガラッ」と開け、そのまま夕闇の方へと出て行った。


 後ろから昴が「かれんちゃん!」と声を掛けてきたが、かれんはそのまま振り返らずに古町のアーケードを真っすぐ歩いた。

(――あーあ、またやっちゃった)

 どうせすぐに昴と会う羽目になってしまうと言うのに、どうして自分はこうも逃げてしまうのだろうか。

 次に昴に会った時、どんな顔をすれば……、とかれんは思ったが、昴のことだから、きっと何もなかったように「かれんちゃん、かれんちゃん」とニコニコと声をかけてくるだろう。

 でも、いつまでも昴が自分のことを「かれんちゃん、かれんちゃん」とトコトコついてい来るとは限らない……


(――今度の日曜日、昴と「約束」があるのに)

 かれんは古町のアーケードを歩きながら、重要なことを思い出して、その場にうずくまりたい気持ちになった。

 今度の日曜日、正確には本当は土曜日だが、昴の「マーズレコード」の定休日が日曜日なので、翌日の日曜日。

 昴と重要な用事があると言うのに、こんな気持ちのままでは、どこにも行ける気がしない。


 かれんは立ち止まると、まるであふれて来る涙をこぼさないように、曇った夜空を見上げた。

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