(25)
知里が「マーズレコード」を去った後、店内はまた静けさに包まれた。
かれんはただその場に立ちすくんだまま、動けなかった。
知里が最後に残していったあの笑み。
あの笑みがかれんの心を捉えて離さない。
知里のことは前に昴から話を聞いていたから、大体どういう子なのかということは知っていた。
でも、実際に会った知里はかれんが想像していたよりも、遥かにすごい人物だった。
女の子の格好をしてもまったく悟られないスタイルの良さ、肌のキレイさ。
正体がバレて、はいているフレアスカートの裾を少しつまみあげて見せた時の仕草の美しさ。
年上の自分に「平凡な女」と言い放つ、人にまったく媚びようともしない凛とした佇まいや表情。
そして、最後に見せたあのあどけない笑み……。
どれを取っても、確かに自分は知里に「平凡な女」と言われても仕方ないと思わざるを得ない。
かれんは今更ながら、自分がさっきまで
そして、そんな人物に「一緒にアメリカに行こう」と執着される、この男って……。
「――かれんちゃん、どうしたの? そんなに僕の顔を見つめて」
思わず昴の顔をマジマジと見つめてしまったかれんに対して、昴が嬉しそうにニコニコとした表情をした。
かれんは慌てて昴から視線を逸らした。
「別に何でもないけど……。知里君、帰っちゃったなって思って」
「うん、そうだね。かれんちゃんの言う通り、知里君には酷だったかもしれないけど、知里君なら、一人でアメリカに行っても大丈夫だよ。――でも、知里君も素直じゃないよね」
「えっ?」
かれんが「それって、どういう意味?」と言う表情をしながら昴の方を見ると、昴はさっきと変わらないニコニコとした表情をしながら続けた。
「だって、かれんちゃん、知里君の行動、ちょっとおかしいと思わなかった?」
「おかしいって、どこが? 女の子の格好をしていたこと?」
「違うよ。知里君、僕に『アメリカに一緒に行こう』ってしつこく言って来た割には、僕が東京から新潟に帰ったことに関しては、そんなに言って来ないじゃない。
確かにアメリカの方が遠いけど、僕と一緒にいたいんだったら、僕が新潟に帰った時から『東京に戻って来て』ってしつこく言うはずだよね?」
そう言えば、そうだな、とかれんは思った。
昴が突然新潟に帰ってきたのは今から一年半ほど前だ。
知里が本当に昴のことが好きで昴のことを必要とするのであれば、昴が新潟に帰ってきた時から「東京に戻って来て」というはずだ。
でも、昴からの話を聞く限り、知里が昴にしつこく「アメリカに一緒に行こう」と言い始めたのはここ最近、知里がアメリカへの留学を決めてからのようだ。
「じゃあ……」
「知里君はね、確かに僕のことを必要に思っているのかもしれない。でも、『一緒にアメリカに行こう』って言ってるのは、一人で知らない土地に行くのが怖いからなんだよ。知里君は箱入り娘で、しかも、お父さんの反対を押し切ってアメリカに行くからね。だから、唯一頼れる僕に『一緒にアメリカに行こう』って言って来たんだよ。
でも、今の知里君だったら大丈夫だよ。今の知里君は前の『箱入り娘』の知里君とは違うし。僕だって、まさか知里君が新潟まで来てかれんちゃんの後をつけるなんて、想像もできなかったんだ。昔の知里君だったら、そんなことは絶対にできなかっただろうし、それに、何よりも知里君のダンスは本当にすごいから。
かれんちゃんも、知里君を見て、知里君が何かすごい人だなって言うの、何となくわかったでしょ?」
「うん」
かれんが頷くと、昴は満足そうな笑みを浮かべた。
「そうだよ、知里君も素直に『知らない土地に一人で行くのが怖い』って言えないだけなんだよ。だから、かれんちゃんが知里君に遠慮する必要はないからね」
昴はそう言うと、笑みを浮かべたまま手を伸ばしてかれんの頭を撫でた。
――温かい。
かれんは昴に頭を撫でられながらそう思った。
小さい頃から、昴はよく自分の頭を撫でてくれた。
その時から昴の手のひらは温かいな、といつも思っていた。
昴に頭を撫でられると嬉しいな、といつも思っていた。
でも、大人になった今では、どうして「モヤモヤ」とした気持ちを上乗せで感じてしまうのだろうか。
昴は知里にキッパリと「アメリカには行かない」と言っていたし、この手のひらはとりあえず自分の元に残るのだ。
それで全ては解決すると言うのに、この自分の心の中に湧いてくる「モヤモヤ」とした感情は何なのだろうか。
「もう! 昴、何言ってるの? 私、別に知里君に遠慮なんかしてないんだけど!」
かれんはまるで昴の手のひらを跳ね除けるように、突然大声を出した。
「えっ? どうしたの、かれんちゃん、また急に……」
昴はかれんの頭から手を離すと、かれんの方をマジマジと見つめた。
「それに、何? 知里君が『あの人も先生の彼女だって認めてあげる』って言った時に、何で否定も何もしないの? 『嬉しいよ』って、何笑ってるの?!」
かれんは言い終わってから、「言ってしまった……」と口元を手で覆った。
昴はしばらくマジマジとかれんの方を見つめていたが、やがて何とも嬉しそうな笑みを浮かべた
「かれんちゃん、何だ、そこが気になってたの? そうだったんだ。だったら、素直にそう言ってくれればいいのに。僕はただ、知里君がかれんちゃんのことわかってくれたのが、単純に嬉しかっただけなんだ。
かれんちゃんも知里君も素直じゃないよね。かれんちゃんがさっきムキになったのだって……」
昴がニコニコして言うのを聞きながら、かれんはあの「モヤモヤ」とした感情が再びこみ上げて来るのを感じた。
「もう! 昴、今日、本当は家庭教師のバイトないんでしょ? だったら、私、もう帰るから!」
かれんは足元に忘れ去られたように落ちていた仕事用のカバンを拾い上げると、「マーズレコード」のガラスの引き戸の方へ足早に歩き始めた。
「えっ? かれんちゃん、もう、帰っちゃうの?」
「帰る! だって、もう、用事もないし……」
かれんは言いながらガラスの引き戸を「ガラッ」と開けると、「マーズレコード」を出て行った。
(――ああ、またやっちゃった)
かれんは古町のアーケードを足早に歩きながら、ため息をついた。
本当に自分は知里の言う通り「平凡な女」だと思う。
いや、もしかすると、「平凡以下」なのかもしれない。
(――普通の女だったら、さすがにここまで素直じゃないってことはないだろうし)
次に昴に会った時、自分はどんな顔をすればよいのだろうか。
まあ、あの「いつでもどこでもマイペース」な昴のことだから、いつも通り「かれんちゃん、かれんちゃん」と何事もなかったようにニコニコしながら自分の後をトコトコとついて来るのだろうけど……。
(――でも、今回は昴だって悪いんだから)
そうだ、昴だって悪いんだから、とかれんは自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
どうして、知里の「あの人も先生の彼女だって認めてあげる」と言う言葉に、あんなに嬉しい表情をしたのだろうか。
自分は昴の彼女じゃないのに……。
(――あーあ、でも、圧倒的に悪いのは素直になれない自分なんだろうな)
あの時、昴が自分の頭を撫でてくれた時、素直に「嬉しい」とだけ感じていればよいのに、どうしていつもの「モヤモヤ」とした気持ちがこみ上げてきたのだろうか。
かれんは古町のアーケードを歩きながら、またため息をついた。
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