(12)*

 昴が知里の家庭教師を始めてから、何か月かが経ったある日。

 昴は知里にを話そうと思い、知里がいつも踊っている夜の公園を訪れた。


 知里は相変わらずイヤフォン越しに音楽を聴きながら、夜の公園で一人きりで踊っていた。

 多分、今、知里が聴いている曲はザ・スミスの「心に茨を持つ少年(The Boy With The Thorn In His Side)」だ。

 まるで「心に茨を持つ少年」のシングルジャケットに写っているトルーマン・カポーティのように、軽快なジャンプを見せている。


 昴は「ダンスにも活かせるように」と、知里に自分が良く聴いている洋楽を紹介していた。

 昴がメインでアルバイトしているレコード屋に大量の洋楽アーティストのポストカードが余っていて、昴はそのポストカードを知里に渡し、


「これはビートルズの『Live at the BBC』のジャケット写真」

「これはまだブライアン・ジョーンズがいた頃の、初期のローリング・ストーンズ」

「これはイギリスで70年の終わりから80年の初めにかけて活躍した、ザ・ジャムっていう3人組のバンド」


 と音楽を聴かせながら説明していた。

 知里は昴からポストカードを渡されると、嬉しそうに箱の中にしまっていた……。


「――先生!」

 知里は昴に気づくと、イヤフォンを外して笑顔で駆け寄ってきた。「どうしたの? 今日は家庭教師がない日なのに」

「うん、ちょっと知里君に話があって、ね」

「偶然だね。僕も先生に話があるんだ」

「そうなんだ? 何?」

「先生こそ、話って何?」

「いいよ、知里君から話して」

 昴がニコニコしながら言うと、知里は頷いた。


「実は僕、やっぱりアメリカにダンス留学しようと思って」

「そうなんだ。とうとうご両親が賛成してくれたの?」

「ううん。父さんは『そんなに言うなら、学費や旅費や滞在費も全部自分で稼いでみろ、そしたら認めてやる』っていうだけ。でも、だったら自分でお金を稼ごうと思ったんだ」

「自分で稼ぐ?」

「うん。僕の高校の同級生のお兄さんが、大学生なんだけどITの会社を作るから僕に手伝わないかって言ってくれたんだ。もちろん、ちゃんと信用できる人だよ。上手くいけばひと儲けして留学費用が稼げるかもしれない」


 昴は知里の発言に驚いた。

 高校のクラスの中でも孤立しているような感じだった知里から「同級生」の話が出てきたのも意外だったし、同級生のお兄さんが会社の手伝いの話を持ち掛けてくるまで打ち解けていたなんて、もっと驚きだ。

 知里は昴のバンドのステージでダンスを披露してから、本当に変わった。

 表情が明るくなり、笑顔が増えただけではない。自分から行動して「どうしたら、誰かが見ている前でもっとたくさん踊れるか?」という昴の課題の答えを、どんどんと見つけようとしている。

(――やっぱり、もう知里君は一人でも大丈夫だな)

 今の知里なら僕が大丈夫だ、と昴は思った。


「それはすごいね。君は僕が会った人の中でも一番頭が良いから、絶対に上手くいくと思うよ。その同級生のお兄さんも見る目があるね」

 昴がニコニコしながら言うと、知里も笑顔を返した。

「僕、ダンスもこれまで以上に頑張るし、その会社の手伝いも頑張るよ。頑張って、絶対にアメリカに行くんだ。――だから、先生」

 知里は突然、真剣な表情になった。

「何?」

「だから、先生、僕がアメリカに行くことになったら、一緒にアメリカに行こう」

「えっ?」

 昴は思わず驚きの声を上げた。

 まさか、知里の口から「一緒にアメリカに行こう」という言葉が出てくるなんて、昴は予想もしなかった。

「うん、先生も一緒にアメリカに行こうよ。先生だって、音楽を続けるなら日本にいるよりもアメリカとかの海外に行った方が良いと思う。一緒にアメリカに行って頑張ろうよ」

「知里君……」

 昴は知里の言葉にどう答えれば良いのか、戸惑ってしまった。


 知里の瞳を見れば、知里が冗談で言っているわけではないことはわかる。

 知里の茶色い瞳は、ただ静かに輝きながら真っすぐと昴の方を見つめている。

 でも……、と昴は思った。

 昴がここに来た理由は、知里に「話」があってきたのだ。

 しかも、その話は知里が言ったこととはまったく真逆のことを言わなくてはいけないのだ。

 さすがに「いつでもどこでもマイペース」な昴も、知里の真っすぐな瞳を前にしてかなりの戸惑いを覚えた。


「――できないよ」

 少しして、昴は静かに口を開いた。「知里君、ごめん。君がそう言ってくれるのは嬉しいけど、僕にはできない。僕は君と一緒にアメリカに行くことはできない」


「どうして?」

 今度は知里の瞳に戸惑いの色が表れた

「僕、バンドを辞めるんだ。もう、メンバーには話した」

「どうして? あんなにバンドやってるの楽しそうだったのに」

「前々から考えてたんだよ。僕、歌うことは人並み以上に上手くできるけど、それ以上の域を超えることができないんだ。声が、どうしても聴く音楽に引っ張られて変わってしまうんだよ。そこをどうしても直すことができなかったんだ。

 だから、バンドは辞めるよ。そして、新潟に帰る。君の家庭教師も辞めてしまうことになってしまう」

「新潟に帰る?」

「うん」

「そんな……。でも、バンドを辞めるとしても、何も新潟に帰らなくても……。僕の傍からいなくならなくても……」

 知里の瞳の色が戸惑いからまた別の色に変わっていく様を、昴ははっきりと感じた。


「新潟に帰って、やりたいことがあるんだ。この間、その『やりたいこと』にやっと気づいたんだよ。自分でも、気づくのが遅かったなって思ったけど……」

「やりたいこと? バンドよりも?」

「うん」

 昴が頷くと、知里は昴から視線を逸らした。

 そして、茶色い瞳に涙をためながら、僅かに首を横に何度か振った。

「――先生、あの時のこと、覚えてるよね? 『僕はいつでも君の味方だから』って言ったじゃないか。

 僕はそんなのイヤだ。先生が僕の傍からいなくなるなんて、イヤだ」


「知里君……」

「僕は絶対に諦めないから。僕は頑張ってアメリカに行くよ。そして、先生も僕と一緒にアメリカへ行くんだ」

 知里はそう言うと、顔をうつむかせて走りだした。

「知里君!」

 昴は知里の腕をつかもうとしたが、後少しのところで間に合わなかった。

 知里は昴の横を通り過ぎると、どこかへと走り去ってしまった……。

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