(10)*

 知里はそれから、最初に逃げ出したとは思えないほど真面目に昴の指導を受けていた。

 知里に指導する度に、昴は知里の頭の良さに感心した。

 昴は自分が教えることもないんだけどな、と思いながらも一応はバイトだしとちゃんと指導はしていた。


「――服部先生、本当にありがとうございます。坊ちゃんが家庭教師の先生の前であんなに真面目に勉強するなんて、初めてなんです」

 三回目の指導が終わった時。帰ろうとした昴を玄関先でわざわざ引き留めて、例の中年のお手伝いがお礼を言いに来た。

「それはよかったです」

 昴はニコニコしながらお手伝いに返事すると、良い機会だし、と気になっていたことを訊いてみた。「ちなみに、知里君のご両親は? 僕が家庭教師を始めてから一回も会ってないのですが……」

「旦那様と奥様は忙しくて……」

 お手伝いが言葉を濁すと、昴はそういうことなのかと察した。

 昴の今までの経験から考えると、問題のある生徒は親にも問題がある場合がほとんどだった。

「そうなんですか。一回、あいさつした方が良いかなと思ったのですが、お忙しいということであれば、よろしくお伝えください」

 昴は笑顔でお手伝いに会釈をすると、その場を後にした。


 外はすっかり暗くなっている。

 昴が何となく知里のことを考えながら歩いていると、小さな公園の横を通りかかった。

 昴はふと歩みを止めて、公園の方を見た。

 公園の中央で誰かが踊っているのが見える。

 昴はその「誰か」が気になって、公園の中央の方へと歩いて行った。


 昴は踊っている誰かの顔が認識できる距離まで行くと、「やっぱり」と心の中でつぶやいた。

 踊っていたのは、知里だった。

 ああ言うダンスって、ジャズダンスって言うんだよな、と昴は思った。よく、テレビとかでアーティストやアイドルグループが踊っているダンスだ。

 でも、知里が踊っているダンスは、同じようなダンスでもまったく別のものに見えた。


 まるで、知里の周りの空気だけ、凍えるように冷たくなってしまったかのような緊張感が漂っている。

 知里が動くたびに、身体中から言葉や音楽がとめどなく流れ出てくるかのようだ。

 月の光や公園の街灯がなくても、そこに知里がいるのがわかってしまうのではないかと思ってしまうほど、知里自身がキラキラとした光を放ちながら踊っていた。


 昴は知里の瞳を見た。

 家で勉強しているときはあんなに生気がない目の色をしていたと言うのに、ここにいる知里の瞳は躍動感にあふれている。

 昴はしばらくの間、知里から目が離せなくなってしまった。




 どれくらい時間が経っただろうか。

 知里はふと動きを止めると、その場に「ドサッ」と倒れこんだ。

 昴はハッと我に返ると、知里の方へと駆け寄った。

 知里は昴の姿に気が付くと、慌てて立ち上がって逃げようとした。

 でも、知里は踊り疲れてしまったのだろう、足がもつれてまたその場に倒れこんでしまった。


「――大丈夫?!」

 知里に追いついた昴が、知里に手を貸そうとした。

 知里はさっきとはまったく違う生気の感じられない瞳を昴に向けると、自力で立ち上がった。

「――あなたも」

「えっ?」

「あなたも、『何でこんなところで踊ってるの?』って訊くの?」

 知里が昴に背を向けながら、呟くように言った。

「うん、そうだね。どうしてこんなところで踊ってるの?」

 昴がニコニコしながら訊くと、その言葉を遮るように、知里が鋭い視線を昴に向けた。

「で、『こんなところで踊ってないで、勉強でもしたら?』とか、言うの?」

「えっ?」

 昴は突然の知里の言葉に、キョトンとした表情をした。


「みんな、言うんだ、そうやって……。僕は踊っていたいのに、何度ここから引きずり出されたか。あなたも僕を連れ戻しに来たんでしょ?」

「ううん、違うよ」

 昴が軽く首を横に振りながら言うと、今度は知里がキョトンとしたような表情をした。

「えっ? 違うの?」

「うん。僕はたまたまここを通りかかっただけだよ。君がここにいることも、踊ってることも誰からも何も聞いてないよ。

 それに、踊っていたいんだったら、好きなだけ踊っていれば良いと思うよ。僕、邪魔なんてしないし。――それにしても、君のダンス、すごいね」

「えっ?」

 知里が意外そうな表情で訊き返すと、昴は大きく頷いた。

「うん、君のダンスすごいよ。僕、ダンスのことはそんなに詳しくないけど、君が踊っているのを見てると、聞こえない音楽が聞こえてくるようだったし、見えない言葉が見えてくるような感じがした。

 君はダンスが好きなんだね?」


 昴がニコニコしながら訊くと、知里は笑顔を見せて「うん」と頷いた。

 昴は踊っている時のようにキラキラしている知里の瞳を見ながら、知里が笑っているのを見たのは初めてだな、と思っていた。



* * *


 公園での出来事以来、知里は昴に笑顔を見せるようになった。

 普段、生気が感じられないような知里の瞳も、昴といる時だけはその年頃の少年らしい、キラキラとした輝きを見せるようになっていた。

「――服部先生、本当にありがとうございます。坊ちゃんがあんなに笑顔を見せるようになったのは、小さい時以来ですよ」

 お手伝いは昴に何度も感謝の言葉を言った。


 昴はお手伝いに感謝の言葉を言われるたびに、首を傾げた。

 自分は何も特別なことをしていない。知里のダンスを褒めて、ただ、ダンスが好きなのか? と訊いただけだ。

 知里が今まで接してきた大人も、知里のダンスを難しいなんて考えずにただ称賛すれば良いのに……と昴は思った。

 周りの大人は、どうもそうやって素直に思うことさえも難しいらしい。

 多分、知里がものすごく頭が良いからなのだろう。

 あれだけ頭が良いから、「ダンスなんてやらないで、もっと勉強した方が……」と言うのだろう。

 でも、知里本人はダンスが好きなのだし、知里のやりたいようにやらせてあげればいいのに……。


 こういうのって、「フィルター」ってヤツなんだろうな、と昴は思った。

 頭の良い人はダンスなんてやらないで、勉強に精を出すべきだって、誰が決めたのだろうか。

(――かれんちゃんも、よく物事をフィルター越しに見てたっけ)

 昴は新潟にいる幼馴染おさななじみのかれんのことを、ふと思い出した。

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