(3)
二年前……。
かれんの会社が、本社のある東京で全社員を集めて会議をやったことがあった。
新潟から部長の野辺たちと一緒に貸し切りマイクロバスで東京へやってきたのは良いが、予定よりも遥かに早く着いてしまい、手持ち無沙汰になってしまったのだ。
かれんはその頃、当時付き合っていた彼氏に振られた直後で、精神的に非常にツラい時期だった。
なるべくソッとしておいてほしかったかれんは、みんなとは別行動を取り、会議が始まる時間まで一人で東京の街角をブラブラと当てもなく歩いていた。
久し振りに来た東京は、やっぱり新潟とは違った。
大きなビルに大きな道路、通り過ぎて行く人の数も圧倒的に多い。
こんなに人がたくさんいるのに、自分のことを知っている人なんてひとりもいないのだろう。ましてや、自分が失恋してツラい思いをしていることを知っている人なんて……と思うと、かれんは何とも言えない孤独を感じた。
かれんはそれこそ今にも泣きそうな表情をしながら、東京の人混みの中を歩いていた。
そこで偶然、昴に会ったのだ。
人混みの中で昴とかれんの目が合った瞬間、昴はかれんの方を見て、ものすごく驚いた表情をした。
かれんも「まさか、こんなところで昴に会うなんて……」と驚いた表情をしたが、次の瞬間、自分でも信じられないが、何故か昴の方を見ながら自然と笑顔が出て来たのだ。
かれんはどうして昴を見た途端にこんな笑顔になったのか、自分でもよくわからなかった。
多分、この東京の人混みの中に自分を知っている人なんていないと思っていたのに、自分を知っている人、しかも自分が小さい時の頃からのことを知っている人を見つけたことが嬉しかったのだろう。
「――昴、どうしたの? こんなところで」
「かれんちゃんこそ、どうしてこんなところにいるの?」
お互いがどうしてここにいるのか、近況はどうなのかを話している間、かれんはずっと笑顔だったのに、昴はなぜか真顔でジッとかれんの方を見つめてばかりいた。
いつもは昴の方がニコニコしていて、自分は昴のマイペース振りに顔をしかめてばかりいるのに、ヘンなの、とかれんは思っていた。
そして、まさか、その何か月後かに昴が突然新潟に帰って来るなんて、その時は予想もしなかった……。
* * *
かれんは「パッ」と目を開けると、慌ててソファから起き上がった。
いつの間に眠ってしまっていたのだろうか、とかれんは慌てた。
どうも、自分はソファに座ってザ・スミスの曲を聴いている内に、ウトウトと眠り込んでしまったらしい。
「――あっ、かれんちゃん、起きた?」
いつからそこにいたのだろう。ソファのかれんの隣に座ってレコードの歌詞カードを見ていた昴が、ニコニコしながらかれんの方を見下ろした。
しまった、とかれんは思った。
昴、家庭教師のバイトから帰って来てたんだ……。
自分からやると言った店番をしている最中に眠り込んでしまったなんて、いくら相手が昴だからと言っても、恰好が悪い。
「すっ、昴、いつ帰って来たの?」
かれんは自分の失態を
「ついさっき。でも、ごめんね、かれんちゃん、疲れているのに店番なんてお願いしちゃって」
「別に疲れてなんかないけど。ただ、ザ・スミスのモリッシーの声が……」
かれんは次の言葉を言いかけて、(まずい!)と気付いた。
そして、「何でもない!」早口で言うと、慌てて口を閉じた。
「モリッシーの声が? どうかした?」
昴がニコニコしながら突っ込んできたが、かれんは「もう、何でもないの!」と昴から顔を逸らした。
(――別に疲れてなんかないけど。ただ、ザ・スミスのモリッシーの声が昴の声に似ていて、つい眠くなっちゃっただけ)
かれんはさっき、ついこう言いそうになってしまったのだ。
昴の声は小さい頃から聞き慣れているから、昴の声に似ているモリッシーの声を聞いているうちに、つい安心して眠くなってしまったのだろう。
まあ、そんなこと、口が裂けても言えないけど……。
顔を逸らしたかれんがチラリと昴の方を見てみると、昴は相変わらずニコニコしながらかれんの方を見ていた。
「僕、バンドやってた時に、よく『モリッシーに声が似てるね』って言われてたんだ。かれんちゃんも、もしかしてそう思う? まあ、僕はモリッシーみたいにあんなにシャツのボタン開けてステージに立ったりはしなかったけどね」
昴がニコニコしながら言うのを聞いて、かれんは心の中でため息を吐いた。
どうも、昴には全てがお見通しのようだった。
(――やっぱり、私は昴には敵わないんだ)
かれんは諦めて、店主も帰って来たし店の閉店時間も少し過ぎたし……と、大人しく家路に着こうと仕事用のカバンを肩に掛けて、ソファから立ちあがった。
「昴、私、そろそろ帰るから」
「かれんちゃん、ちょっと待って、僕も帰るから。どこかで一緒にご飯食べて行こうよ。店番してくれたお礼に、僕が奢るから」
「えっ? でも、昴、今日はもう帰るの?」
まだ、20:00を少し回ったくらいなのに、とかれんは思った。
この「マーズレコード」の閉店時間は20:00だが、昴は大体閉店時間を過ぎてからもずっと店に残っている。
閉店後に売り上げの計算をしたり、レコードやCDの整理をしたり、通販で注文のあった商品の発送をしたり、音楽雑誌やサイトの記事を書いたりしているのだ。
レコード屋を立ち上げる時にかれんに、「かれんちゃん、僕、頑張るね」と言っただけあり、昴は「マーズレコード」のことに関してだけは、昴らしくもなく非常に真面目に頑張っている。
昴が仕事を終えて「マーズレコード」を出るのは、いつも22:00を過ぎてからだった。
かれんがどんなに遅く自分の会社がある雑居ビルを出ても、いつも「マーズレコード」の電気は点いている。
だと言うのに、今日は「僕も帰るから」って、どういうことなのだろうか。
「うん、今日は珍しく仕事が全部終わったから、たまには早く帰ろうかなって思って。それに、店番を頑張ってくれたかれんちゃんに、何かお礼がしたいし」
「ああ、そう、ありがとう」
かれんは一応お礼を言ったが、「何でもない」ような澄ました表情をしていた。
でも、心の中ではくすぐったいような恥ずかしいような、何とも言えない気持ちだった。
(――こういうの、本当に困るんだよな)
かれんは心の中で呟いた。
昴は「いつでもどこでもマイペース」で人のことを気にしたりしていない感じだが、時々こうやって妙に優しいことを言ったりするから、非常に困る。
「かれんちゃん、何食べたい?」
かれんの気持ちを知ってか知らずか、昴がレコードをしまいながらニコニコして言った。
「別に何でもいいけど」
「じゃあ、この先の僕のお客さんのイタリアンの店にしようよ。美味しいワインがたくさんあるんだ」
「昴、知ってると思うけど、私、お酒飲むと記憶が無くなるんだけど……」
「僕だけ飲むから大丈夫だよ。でも、僕がいるからかれんちゃんも飲んでもいいと思うけど。――お待たせ、じゃあ、行こうか」
「うん」
昴とかれんが一緒に「マーズレコード」を出ると、平日の夜と言うこともあり、古町のアーケードの中には人がほとんどいなかった。
二人は古町のアーケードの中を並んで歩いた。
「こうやって歩いていると、ボブ・ディランの『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のレコードジャケット思い出すね」
昴がニコニコしながら言った。
かれんは前に昴が「そのディランのレコジャケ、すごくステキだよね」と言っていた、ボブ・ディランの「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」のレコードジャケットの写真を思い出した。
若き日のボブ・ディランと当時ガールフレンドだったスーズ・ロトロが、腕を組みながら並んで雪道を歩いている写真……。
「何それ? 何で思い出すの?」
かれんが前を向きながらクールに答えた。
「うん、僕、あのレコジャケ、すごく好きなんだ」
昴は相変わらずニコニコとしながら答える。
かれんはまだワインも飲んでいないと言うのに、自分の顔が赤くなってくるような感じがした。
昴がどうして「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」のレコードジャケットのことを言っているのか、何となくわかったからだ。
昴は時々、こういう恥ずかしいことを言って来るところも、困る。
「ふーん、そうなんだ……」
かれんは適当に答えるフリをしながら、(――こういうの、本当に困るんだよな)と心の中で呟いていた。
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