5‐5.接触と緊張
バスが水平に近づくと、次第に田んぼや畑が多くなり集落が見え始めた。ときどき人影も窓を横切り、さらには乗車する人も現れるようになり、改めて自分たちが研究所の外に出たんだと実感できた。
「今日はどこに行くんですか?」
後ろの席に戻ってきた梨乃が、一ノ瀬に問いかける。
「秘密だ。でも、きっと喜ぶぞ」
梨乃はパっと顔を輝かせ、床に届かない両足を揺らしながら上機嫌にまた鼻歌を歌い始めた。
乗ってきたおばあさんが四人の目の前に座り、くるりと顔をこちらに向けた。
「お嬢ちゃん、お出かけ?」
顔の皴は深いが、腰が曲がっている様子もなくどちらかというと若々しい。声と話し方もゆっくり落ち着きがあって優しそうだ。
さあ、梨乃はどう反応する?
内心ドキドキしながら、一ノ瀬は梨乃の方に目をやる。
「はい、そうです。楽しみです」
研究所の外での初めての接触はまずまずといったところ。普段の会話と同じように、口調に特に違和感はない。
「家族でお出かけなの?」
おばあさんの二言目で、一ノ瀬たちは心臓がわしづかみにされたような気がして、嫌な汗が背中から噴き出した。
自分が作り物だと悟った梨乃は、家族というワードをどう対処するのか。
しかし一ノ瀬の心配を突っぱねるように、梨乃は言葉を返した。
「はい。お父さんとお母さんとお兄ちゃんです」
「あら、仲良しね」
「大好きです」
そして嘘偽りのないような、人懐っこい笑顔でそう言うのである。
「可愛い娘さんね」
「ありがとうございます」
おばあさんの意識は一ノ瀬たちにも向けられた。本人たちにとっては矛先でもあり、ボロが出ないように必死に取り繕い続ける。
そこから一時間ほど、他愛無い世間話が繰り広げられた。
一ノ瀬たちはある程度外の情報を入れているため話はできたが、梨乃は初めての外であり、初めての見知らぬ人であり、初めての景色であり、初めてづくしなのだ。
人間にとっては常識と考えられるようなものを梨乃が知らない、といった危うい場面が、話の途中で何回もあった。
その度に三人は嘘をつき、誤魔化した。
温和なおばあさんを騙すのは詐欺のようで心苦しいが、このプロジェクトが国家プロジェクトである以上、まだ梨乃の正体は明かしてはいけないのである。
* * *
研究所を出発してから一時間半、最寄り駅に着いた一行は、逆方向だと言うおばあさんと別れて上り方面のホームへ向かった。
「これが、外に出る危険性ってやつなんですかね……」
「分かってはいたが、予想以上だな」
一ノ瀬と小松はベンチに座り込み、小さく嘆く。梨乃と自動販売機を見て何か話している双葉も、わずかに顔に陰りが出てきている。
小松の言う通り、一般人を装わなければいけないということが外に出る危険性の一つであることは、間違いなかった。
一ノ瀬が考えるもう一つの危険性は、梨乃の正体を知っているものがいて奪いに来ることだ。
藤原や生田の口から直接聞いたわけではなくあくまで一ノ瀬の想像だが、可能性として頭の隅に置いておいても不思議じゃない。
「一ノ瀬さん、小松さん。行きますよ」
「あ、ああ、ごめん。乗ろう」
梨乃に呼ばれて視線を上げると、ちょうど電車がホームに入ってきてドアが開くところだった。電車が来たことも気づかないくらい、かなり深刻に考えてしまっていた。
梨乃に手を引かれて乗車する。
今日は日曜日で、世間ではごく普通の休日だ。そのせいなのか、田舎の駅でも車内はすでに混雑していて、梨乃だけの席はなんとか確保することができた。
なるべく人の目に触れさせないよう、座った梨乃を囲んで見下ろすようにして三人はつり革やら手すりやらにつかまった。
「この量、厄介ですね」
電光掲示板に夢中になっている梨乃の目を盗んで、双葉は一ノ瀬に耳打ちする。
量とは、もちろんこの人混みのことだ。おばあさん一人を相手に音を上げそうになっていたのに、規模が大きくなると比例して周囲の目も増えてしまう。
バスのように話しかけられることは少なくなると思うが、それを考慮しても警戒すべき対象が圧倒的に多い。
一度研究所の外に出てしまったからには、この状態が研究所に帰るまで続くことは十分に考えられる。取り急ぎ、今は妥協して対処するほかない。
「とりあえず、少なくとも誰か一人は周りを警戒している状態にする。三人一緒に梨乃の相手をするのはまずいだろう」
「了解です」
双葉は、ちょうど梨乃の相手をしていた小松に話しかけると、入れ替わるように梨乃の前に移動する。この人混みでギリギリだが、小松はなんとか一ノ瀬に近づくことができた。
「話って?」
一ノ瀬は双葉と話したことを再生すると、
「じゃあ俺がメインで警戒するんで、お父さんとお母さんは娘さんの相手をしてあげてください」
そう言って小松はからかったあと、深呼吸するよう一ノ瀬を促した。
「気を張りすぎです。少しリラックスしましょう」
「ああ…、そうだな」
なるほど、気づけば一ノ瀬の体は変に力が入って強ばっていた。
小松に言われるまま深呼吸をし、双葉と梨乃の元へ近寄って話し始めた。
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