1-10 零課
公安零課の本部は国家公安委員会の本部である新中央合同庁舎の地下5階に位置する。
大戦後に建て替えられたここはまだ綺麗でどこかよそよそしかった。
ヘリの中で左手の皮膚交換をした夏音は屋上のヘリポートからエレベーターで本部に戻る。
時間は深夜二時。
夏音は眠そうな目を擦りながら、エレベーターから降りてすぐの部屋に入った。
後ろでは板見と吉沢が仕事の話をしながら歩いている。
部屋に入ると明かりがついた。
中には白く長いデスクが二本あった。その上は綺麗に片付けられていて、何もない。デスクには黒い線が引かれていて、座ると線から紙のように薄いディスプレイが出てくる仕組みだ。
夏音はアイス(携帯端末)から無線でクラウンアイを本部の端末に送り、ふうっと息を吐いた。
クラウンアイとはアイスに付いたセンサーから得た情報をAIが文章、映像化したものを指す。本人が知覚しない情報もセンサーは拾っている。頭の上に目のついた王冠が付いているようだというのが由来だった。
緊急時を除き、零課では情報漏洩の対策としてクラウンアイをサーバーに繋ぐ時は無線でなく、有線で行っている。
夏音が机にある穴にペン型のアイスを取り出し差し込むと、データが瞬時に送信された。
アイスとはエイブルデバイスの略である。ABLEのAとデバイスのイスをもじった言葉だが、この略称が使われるのは日本だけで、英語圏ではAーDEVICEと呼ばれている。
二十一世紀初頭に流行したスマートフォンに変わるマルチデバイスとして、今やアイスは誰でも持っているツールである。ペン型のものが一般的だが、メモやノート型、イヤホン型、腕時計型のものまで様々な形式がある。その総称をアイスと言った。
すると左にあるドアが開き、そこから出てきた誰かが夏音の方に走ってきた。
「姉さん! 大丈夫だった?」
圭人の声で夏音に駆け寄ったそれは、夏音の予想より小さかった。
「・・・・・・何、この子?」
夏音は圭人の両肩に手を当て呆れていた。そこにいたのは小さな女の子だ。長い髪に大きな瞳。地味な上下の下着姿から見えるボディラインはどう見ても弟ではなく妹だった。
「え? 変かな? 近場で空いてる人型ボディがこれしかなくて。急いで借りてきたんだ。いつものはメンテ中だし」
「・・・・・・まあ、可愛いからいいか。もうずっとこれにしとけば? にしても大っきいなー」
夏音は恨むように弟の大きな胸を揉みしだいた。圭人は顔を引きつらせる。
「もう、やめてよ。そんなに羨ましいなら姉さんもオートマタにすればいいじゃないか? それに弟の胸を触るってどうなの? やっぱり人は身体的特徴からしか個人識別ができないの?」
それを聞いて夏音は怪訝な顔で離れた。
「圭人は一々言い方が面倒くさい。そういうの、モテないよ?」
「今の僕には三大欲求がほとんどないから、あまりその手の言葉に価値観を見いだせないんだよね。それにしても女性は男性に比べて知らない事に自己価値を見いだす傾向があるのはなぜだろ」
腕を組んだ圭人に夏音はネクタイを外して渡した。それから頭の後ろに手を回し、髪を結っていたリボンを外す。その手の会話には付き合ってられないと言わんばかりだ。
「それ、洗濯して部屋に置いといて。今日は疲れちゃった」
夏音はそう言ってオフィスの横に置かれた黄色いソファーに座り、そのまま横になった。
それを見て技術班の吉沢がおいおいと注意する。
「まだ体のバックアップを取ってないだろ。俺だって早く帰りたいんだ。ほら、ラボに行くぞ」
吉沢は後ろの部屋を指差し、夏音を急かした。
夏音の義手から得られるデータの重要性は高く、その情報を義手を作っている国が委託した民間企業へ逐一報告する事が義務づけられていた。ほとんど例外なく毎日だ。
夏音は溜息をつき、口を尖らせた。
「もー、疲れたよー。学校もあるし、明日にしましょうよ」
「駄目だよ」板見が強めに答えた。「それがここのルールだ」
「・・・・・・分かりました」
板見に言われ、夏音は体を起こした。そしてむすっとしたまま吉沢と奥のラボへと向かった。
吉沢は「現金な奴だな」と呆れ果てていた。
「やめて下さいよ。そういう言い方」
夏音は頬を膨らませて吉沢と奥の部屋に入っていった。
それと行き違いにオペレーターの臼田がオフィスに入ってくる。
髪型はショートボブ。丸顔に明るい目をして、黒いレディーススーツを着ている。昔陸上部だったのもあり、スタイルは良い。面倒見がよく優秀で、年下にはお姉さん的に、年上にはよくできた後輩的な目で見られていた。
オペレーターの臼田は圭人を見て、首を傾げた。近くにいる板見に尋ねる。
「あれ? この子誰ですか?」
「あ、僕です。すいません。紛らわしくて」
臼田は声を聞いてすぐにこの少女が圭人だと分かった。苦笑して圭人の姿を見る。
「流石にその格好はまずいよ。何か着ないと」
「そうですね。部屋に行って何か着てきます。あ、僕の方のクラウンアイはもうアップロードしてあるんで」
圭人はほんのりと顔を赤らめ、部屋に戻っていった。
臼田はデスクの下から鞄を取り出し、アイスの情報をサーバーに送った。
「直帰してもよかったのに」板見が言う。
「いや、この後神崎さんと予定があって・・・・・・。新島さんを送った後に、ホテルで飲むんです」
そう言って、臼田は顔を赤らめる。
何かを察した板見は「そう」と頷き、静かにコーヒーを飲んだ。
一癖も二癖もある面子がこの零課には揃っていた。
ラボの中では夏音が下着姿になって、大きめのヴァリアブルチェアにもたれていた。
白い椅子はコックピットにも見えた。周りには伸縮ディスプレイと、いくつかの機器が置いてある。ディスプレイにはメーターやグラフがずらっと並んでいた。
ラボは強化ガラスによって二部屋に分かれていた。
左側の部屋に夏音が座り、右側の部屋に吉沢。
そしてもう一人、四十代くらいの女性が夏音達と別のドアから入って来た。
白衣にポケットに手を突っ込んだ髪の短い女。名前を谷岡。歳は矢頼に次ぐ四十二歳だ。
吉沢はどこか不機嫌そうな谷岡に淹れていたコーヒーをカップに注いで渡した。
「お疲れさん。お互い中々家には帰れないですね」
「帰ったってアミリーが待ってるだけだし、別にいいわ。あなたこそ奥さんが怒らないの?」
谷岡はカップを受け取り、軽く回す。コーヒーを飲む時、谷岡はいつもそうやった。
谷岡の言うアミリーとはAIとファミリーを合わせた造語だ。アミリーは日常生活の補助をしてくれる。クラウンアイの作成から、今日の天気、忘れ物の点検に、夕飯のメニューの進言までこなした。
「公安の妻です。事件があったら夫は帰ってこない。頭では分かってくれてるんですけどね。どの道、新島次第ですよ。あのマリオネットの分析を急ぐんなら、今日は徹夜だ」
吉沢はやれやれとコーヒーを飲んだ。経費で買った上等な豆は、良い香りを口に広げる。
「夫なんてつくるもんじゃないわね。子供が欲しかった時期はあったけど、夫はないわ」
谷岡女医にそう言われ、夫である吉沢は苦笑した。
谷岡はカップを机に置いて、その横をタンタンと人差し指で叩く。すると机の一部が回転し、アナログキーボードが出てきた。谷岡はディスプレイに映ったデータを見て、夏音に尋ねた。
「外殻はどう? 重かった?」
「重くはないですけど、空気抵抗があるから取り扱いが大変でした」
「サイズがサイズだからね。盾を内蔵するとどうしてもあのサイズになるのよ。バッテリーの個数も増やさないといけないし。安全性能と機能がトレードオフになるのはどの時代も同じなのよ。一応改良リストにスリム化を載せて置くけど、すぐって事はないわね。左手は? 切れた時も人工神経は繋がってたでしょ。幻肢痛はなかった?」
「・・・・・・まあ、今は・・・・・・」
夏音は不安そうに左手をグーパーと握って開いた。
幻肢痛は元々存在した欠損症状だが、人工神経を使用した義手、義足の発展で頻繁に起こるようになり、下半身よりも上半身の方が発症し易いことが特徴だ。
痛みの緩和薬があるのはあるが、体験した本人にしか分からない激痛を根本から治療する術はまだない。
ナノマシーン治療でも対処しきれないこの痛みは、人の脳がどれほど高度で複雑にできているかを示している。だがそれもエターナルドグマが脳の構造分析を終えれば、特効薬ができるかもしれないと期待が生まれている。
あるべきものがない痛み。それは夏音を苦しめ続けていた。
「一応薬は出しておくわ」
谷岡はAIが書いた処方箋に自分の意見を付け加えた。すると壁のホルダーに薬の入った封筒が落ちてくる。
その後もしばらく谷岡は夏音の体に関するデータを眺めていた。
ふと視線を上げると、夏音の瞼は落ち、寝息を立てている。その姿を見て、谷岡は愛らしく思った。
「この子一人にどれだけ国の予算がつぎ込まれている知ったら、たくさんの大人達が驚くでしょうね。野党の議員は血眼になって追求するんじゃない」
「だからって、この子達の境遇を羨ましいと思う事はないんですよ」吉沢はコーヒーをすする。「お偉いさんには数字だけじゃなくて、現実を見てほしいね」
16歳の少女が大人に混じり、危険な仕事をしている。倫理的にも法律的にも許されない事だが、利権が絡むとそれも伏せられる。
両親のいない夏音は自ら選択しなければならない。自分と弟を助ける為には零課に入り、人間兵器として戦うしか道はなかった。
共に働く大人達はふとした瞬間訪れる哀れみを悟られないよう必死だった。
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