――最悪だ。


 雅は洗面台に映るどんよりとした自分の顔を見ながら思った。

 結局あれからさほど眠ることも出来ず、こうして疲れ切った顔で朝を迎えていた。


「雅~、朝ご飯早く食べないと、あんた遅刻するわよー」

「今行くから~」

 リビングから聞こえる母の声で、雅の体は洗面台から引きはがされた。

 

◆◆◆


「そういや、転入生の子、うまくやれてるの?」

 リビングで朝食をとっていると、母がそう言った。

 雅の脳裏に、無邪気に笑う真理の姿が浮かぶ。

 そして、それと同時に昨晩の夢も。


「……うん、結構明るい子だったし、大丈夫だよ」

「へぇ。なら良かったじゃない。出だしで妙に孤立しちゃうと、大変だから」

 それはないだろう、と雅は思った。

 

 むしろ、昨日転入したばかりというのに、すでにクラス中が彼女の魅力に呑まれてしまっている節すらある。

 もうすぐ始まる夏休みまでに、彼女の連絡先を手に入れようと、みな躍起になっている。


「あ、今年は山未君と一緒にどっかに行くの?」

「へ?」

 あまりにも唐突な話題に、雅は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


「だって、来年は受験でしょ。まぁ、夏休みにどっか行くくらいは、母さん良いと思うけど、塾とか大変そうじゃない」

 だから今年は、と母は言った。


 確かに、中学生としてのんびり過ごせる夏休みは今年で最後かもしれない。

 高校に進学すれば、会えなくなるかもしれない。

 もしかすると、同じ高校を受けるかもしれないが、それも『もしかしたら』の話だ。


 けれども。

 親しげに真理と話す宗助の姿が頭に浮かぶ。


「……別に大丈夫だよ」

 雅の口から出たのは、そっけない言葉だった。


◆◆◆

 

 通学路。

 アスファルトを夏の日差しが容赦なく照らす中、雅はとぼとぼと一人、学校に向かって歩いていた。

 頭の中にあったのは、今朝の母との会話だった。

 

 別に宗助の事が好きというわけではないはずだ。

 ただ、彼の母親が死んでから、彼は明らかに暗くなってしまって、それを間近で見ていながら何もしなかった自分に、何とも言えないしこりを感じているのだ。

 だが具体的にどうしたい、どうなりたい、などは分からない。


 目の前の信号が赤になっていることに気づき、立ち止まる。

 と、横に人の気配を感じ、ちらと視線をやるとそこにいたのは宗助だった。

 雅は思わず声を出しそうになるのをどうにかこらえて、じっと彼を観察する。

 夏の暑さにやられているのか、どうにもだるそうな顔をしていた。目の下にはクマもあった。

 

 何かを話すべきなのだろう。

 しかし適切な話題が思い浮かばない。


「あ、暑いね」

 だからこのように、何の他愛もないことを言うのだった。

 宗助も横の雅に気づき、一度視線を送ってから「うん」と、小さく返してきた。


「そ、そういえばさ」

 信号が青になる。二人は歩き出す。

「山未君って、高校とかどうするかって、考えてたり、する……?」

 とっさに受験の話をしたのは、今朝の母との会話を思い出したからだろうか。

 それとも、無意識に空値真理のことを話題にしたくなかったからだろうか。


「……高校」

 ぽつりとつぶやく宗助。やがて、気の抜けたような声で笑う。

「考えたことも無かった……」

「ま、まぁまだ早いからね、そういうこと考えるの」

「風許さんは、高校とかどうするか、もう考えてるの?」

「いや、わたしも実は特に考えてなくて……。まぁでも、どこか行きたいところが見つかった時のために、塾にだけは通ってる感じかな」

「そっか、まだ通ってたんだっけ、あの塾」


 ――あ。


 雅は心の中で小さくつぶやいた。

 自分と彼は、かつて同じ塾に通っていた。

 けれど彼は母親が死んでから、その塾を辞めてしまったのだった。

 今の発言は、つまり地雷だったわけだ。


「あ、でもさ」

 どうにか取り繕おうと、雅が声を上げる。

「山未君って、頭いいよね。難しい本読んでるっぽいし。ほら、え~っと、パソコンにも強いんだよね、確か」

「でも、受験には関係ないじゃん」

「……あー」


 今度こそ、雅は口に出していた。

 自嘲気味にそうつぶやいた宗助に、どういう風に返事をすれば良いのか分からなくなってしまった。

 そうして次の話題を探している内に、せりあがるそれにこらえきれず、雅は欠伸をしていた。


「寝不足?」

 宗助が聞く。

「うん、最近なんか変な夢見ちゃってて」

「――どんな夢?」

「誰かが話してる声が聞こえてくる夢」

 と言ってから、「あー、っていうか」と雅は要約した。


「まぁ、最近流行ってる夢女みたいなやつなんだけどね」


◆◆◆


 いつも通り教室に入った宗助は、そのまま荷物を置いて自分の席に座った。

 恐る恐る周囲を見渡すが、真理はまだ来ていないようだった。

 真理の席にも、彼女が来たらしい痕跡はなかった。


 ――結局、昨日のあれは何だったのか。


 宗助は考えを巡らせるが、自分を納得させられるような答えは見つからなかった。

 

 そのまま時間だけが過ぎ、担任が教室に入ってきて朝礼が始まった。

 いつも通り今日一日の予定について説明し、最後に欠席者の確認を行う。

 担任が言うには、真理はどうやら風邪で休んでいるらしかった。


「先生、杉本さんは?」

 クラスの誰かが言った。


 欠席者については、よほどのことが無い限り、先ほどの真理のそれのように担任からその理由が告げられてきた。

 しかし、今出た杉本という女子については、それが無かった。


 生徒の言葉からややあって担任は「風邪だよ」と答えた。

 どうにもおかしな様子で、それが嘘である事はおそらく誰の目に見ても明らかだっただろう。

 けれど、その件に関しての追及はそれ以上なく、この話でそこで終わりとなった。


 ただ宗助は、そんな担任の様子を見ながらぼんやりと考えていた。

 風邪と偽らざるを得ない状態とは、どういう状態なのだろうか。

 より重い病気か、あるいは家庭内の問題か。

 最近だと、ネット上のいじめから登校拒否というのもあるらしいが……。


 ―――いや違う。


 自分は昨日、彼女を見たのだ。

 夜、真理と一緒に遊ぶ、杉本の姿を。


◆◆◆


 自宅に戻り次第、宗助は杉本というクラスメイトについて調べ始めた。

 保健室でカルテを盗んだ際に使用した学校のサーバーに侵入し、欠席連絡時の記録を探る。自分たちのクラスの担任のデータだろう。


 エクセルファイルでまとめられた、一年間の出欠データを見つけた。

『昨晩より帰宅しておらず、連絡がつかないため欠席』

 杉本の欄には、そのように記載されていた。

 

 やはりと思いつつ宗助の脳裏には、昨晩の真理と一緒にいた杉本の姿が思い浮かぶ。

 

 ――真理が何かをしたのか。

 

 いや待て、と突発的に浮かんだ妄想を振り払う。

 まだ、情報が出そろったわけではないのだ。確かに、昨晩の真理は常軌をいつしていたが、それでもだからといって、彼女が杉本を――。

 そこまで考えが至り、宗助は息を吐いた。

 

 ――やめよう。

 

 杉本はもともと素行の悪い生徒だった。

 夜出歩くのなんて、よくあったことだろうし、今回のそれだって、きっとその延長だ。

 特に最近は、寝不足気味だったのか、授業中によく欠伸をしていた。

 

 ――変な夢を見るとも言っていた。誰かの話し声が聞こえる、とか、なんとか……。


 保健室のカルテのデータを引っ張り出す。

 

 ――あったはずだ。

 

 寝不足、不眠症、声……。思いつくワードで検索をかけて、該当するものを探す。

 目当ての条件でヒットした件数は六件。その中の一つに杉本はいた。

 

 頭の中を様々な憶測が駆け巡る。

 声。変な夢。昨日の真理。

 ――そして、夢女。


 気が付けば宗助は、真理の自宅の住所を調べていた。


◆◆◆


 バカな事をしていると思っている。

 

 茜色に染まった空と、それを背にそびえたつマンションを見上げながら、宗助は手にしたスマートフォンを握りしめた。


 この辺りでもかなり新しい、十六階建てのマンションこそ、空値真理の自宅があるマンションだった。

 一四〇二号室が彼女の自宅らしい。例によって拝借した学校のデータにそう書いてあった。


 行方不明となっている杉本に対して真理は、はっきりと風邪と記されていた。

 

 エレベーターに乗り込み、一四階のボタンを押す。

 もし彼女が本当に風邪だったなら、自分はその見舞いに来たことにすればよいだけだった。彼女の両親にはそのように言えばよい。

 

 自分は転入先の学校の、数少ない友人のはずだ。

 それらしいことを言えば、多少の無理は乗り切れるはずだ。

 中学生同士の、他愛のない会話が行われて、それで終わりになるはずだ。


 ――だが、そうではなかったとしたら……?


 自分の下らない妄想が当たっていたとしたら。

 空値真理が杉本をさらったとしたら?

 真理が夢女だとしたら?


 ――それはないはずだ。そんなものはない。

 

 などと思いつつも、頭をよぎるのは、昨日の不良たちの様子だった。あれは明らかにおかしかった。何か、得体のしれないものに罰を与えられているようだった。

 やはり、と弱気になった時、エレベーターが動きを止めた。


 扉が開く。

 調べていた真理の家へと向かう。

 空値とかかれた表札の前に立ち、震える体をどうにか押さえつける。

 腕を上げ、指を伸ばして、インターホンにそっと添える。

 呼吸を整えて――押した。

 

 ありふれた電子音が鳴り響いた。

 その階は、それ以外の音が全て飛んだように静かだった。

 

◆◆◆


 インターホンを鳴らしてから、いくばくかの時が流れた。

 反応はなかった。

 もう一度押す。だが、依然として反応は無かった。

 

 どうしたものかと考えあぐね、ひとまずドアノブを回してみると、ドアは事もなげに開いた。

 明かりのついていない、暗い玄関がぽっかりとその口をあらわにした。

 唾をのむ音が聞こえる。自分のソレだ。

 

 気が付けば宗助は一歩踏み出していた。


「おじゃましまーす」

 などと、気休めにもならない言葉を口にしつつ、靴を脱いで家に上がる。


 入ってすぐの廊下の右側に、リビングらしき部屋に続く扉を見た。

 薄暗い廊下の中、ギシギシと床を踏む音だけが耳に届く。

 リビングへと続く扉を開ける。


 リビングには――

 いや、宗助が勝手にリビングだと思い込んでいた部屋には、何もなかった。

 

 テレビも、テーブルも、椅子も、本棚も。

 おおよそ、人がここで生活をしていると思えそうなものは、何もなかった。

 ほとんど新居に近い状態だった。

 

 というか新居なのではなかろうか。

 真理たち家族は、実はまだここに来ていなくて、だからここは空き部屋なのではないのだろうか。

 表札を確認するために、リビングを出て玄関へと向かう。

 

 その途中、リビングと反対側の部屋の扉が開いているのを宗助は見てしまった。

 来たときは閉まっていたはずの扉だ。

 

 いつ開いたのだろうか。

 誰か、あるいは何かが開けたのかと考えていると――

 ひょい、と白いものが現われて扉のふちを掴んだ。

 

 ――手だ。

 

 真っ白な病人のようなそれが、両手で扉のふちを掴んでいる。

 だが、それは明らかにおかしな話だった。

 

 なぜなら、その両手がつかんでいるふちが、扉の上側のものだったからだ。

 

 上側のふちを、その両手がぐいとつかんでいる。

 向きを考えると、この手の主はうつぶせに近い形で天井にへばりついていることになる。

 

 それを理解した時、宗助は動くことが出来なくなった。

 では一体、ナニがいるというのか。

 

 さっと細く長い黒い何かが、垂れる。

 それは黒髪だった。黒い長髪だった。

 

 心臓が早鐘をうつ。

 早く逃げよと、頭の中で誰かが言っている。

 

 ――きっと、予感は悪い方に当たってしまったのだ。


 突如として、ふちを掴んでいる両手に力が入る。


「や……み……ん……」

 天井からぬっと顔を出したそれは、『にぃっ』と笑いながら、そんなことを言った。


 白い肌に、黒い長髪。

 老婆のようにやせこけた頬。

 吸い込まれるように暗い、暗い眼窩。


 骨と皮だけの少女が、天井から顔を上げてこちらを見下ろしていた。

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