名前呼び

 アリシアとレフティが、夫婦となってから数週間後の良く晴れた気持ちのいい朝。


「それじゃあ、義姉ねえさん。行ってくるよ?」


 自宅の玄関でレフティは、アリシアにそう声を掛けた。

 ここ最近の村は平和そのもので、レフティも普段は狩猟などで獲物を捕らえて、我が家の食材にしたり換金して稼ぐ事が多かった。

 しかし、今日は違う。

 自警団の団員が二人一組で、村の周囲を見て回る当番の日だった。

 だからレフティは、ビシッと決めた剣士の格好をしている。


「ちょっと待って、レフティ」


 アリシアは廊下をパタパタと小走りで、慌ててレフティに駆け寄る。


「な、なに?」


 大体なにを言われるのか予想がついているレフティの顔は、少しだけ引きっていた。

 アリシアはレフティに顔を寄せて尋ねる。


「な、なに? じゃないでしょ? 私達、夫婦になったのよね?」


 レフティのどもった言い方をも真似しつつ、アリシアは確認した。


「あ、ああ、そうだね」


「だったら、いつまで経っても義姉ねえさんって呼び方は変でしょ?」


「そ、そんな事は無いんじゃないかな?」


「本当に、そう思う?」


 アリシアは更に詰め寄る。

 レフティは、やや顔を横に向けて苦笑いしながら視線を外した。

 アリシアはレフティをじぃっと軽く睨んだ。


「そろそろキチンとアリシアって名前で呼んでくれないと、周りの人達だって変に思うでしょう?」


「俺達の事は、みんな知っているよ」


「それでもよ。これから先、子供が生まれて成長しても義姉ねえさんで通すつもり?」


「流石に、そこまでは……」


 アリシアは目を閉じ、片手で触れた胸を張る。


「じゃあ、名前で呼んで?」


 レフティは片方の頬を指で掻きつつ答える。


「それは、い……」


 その答えを聞いてアリシアは、オイオイ、とあきれた。

 アリシアの目に涙が滲む。

 そして両手で顔を覆うと、しくしくと泣き出した……フリをした。


「えっ!? ちょっと、義姉さん!?」


 しかし素直なレフティは、常日頃からアリシアの嘘泣きを疑う事を知らない。

 下手な演技をする義姉を本気で心配しながら見ていた。


 二人が子供だった頃、些細ささいいさかいが取っ組み合いの喧嘩に発展すると、レフティが成長するまでは、体格差でアリシアが常に勝利していた。

 しかし、力の差が逆転して初めてアリシアが負けた時、彼女は悔しくて本当に泣き出してしまったのだ。

 祖母も祖父も優しかったので、しかられる時も厳しい事は無く、アリシアは初めてレフティの前で大泣きする姿を見せた。

 号泣ごうきゅうする義姉を見たレフティは、オロオロとしながらも必死で彼女をなだめた。

 この時にアリシアは学習したのだ。

 レフティは女性の涙に弱いと……。

 以来、どうしても義弟に聞いて欲しい願いがある時のアリシアは、決まって嘘泣きをするのだった。

 そして、それは何故かただの一度もレフティに暴露ばれた事は無い。

 演技が下手にも関わらず……。


 アリシアは両手で顔を覆ったまま軽く左右に首を振りながら、嘘の涙声でレフティに尋ねる。


「もう、私の事を愛していないのね?」


「そ、そんな事ないよ! 義姉ねえさんの事は、とても愛してる!」


 アリシアの頭の往復運動が、ぴたりと止まった。

 とても素直な義弟の愛情表現の台詞せりふに、両手の中の顔が真っ赤に染まる。

 彼女は暴露ないように顔を覆ったまま、レフティに背を向けた。

 それを拒絶と受け取ってしまったレフティは、顔面が蒼白そうはくになる。

 アリシアは再びレフティに願う。


「それじゃあ、名前で呼んでくれる?」


 レフティは一度だけ天を仰ぐと、アリシアの後頭部を真っ直ぐに見つめて頷く。


「……ああ、もちろんさ」


 レフティは優しくアリシアの両肩を掴むと、ゆっくりと自分の方へ彼女の身体を向けさせた。

 アリシアも静かに顔を覆っていた両手を降ろす。

 真剣な目で見つめ合う二人。

 アリシアは震える唇を真一文字に、きゅっと結んで笑いをこらえていた。

 真面目な表情で顔を寄せてくるレフティから言葉が発せられる。


「ア……」


「……ア?」


「ア、アリ……」


 必死で噴き出すのを耐えるアリシア。


「……ア、アリ?」


 今度のアリシアは真似をしたわけではなかったが、不思議と吃った。

 レフティは声をしぼり出す。


「……アリ……シア……」


 やばい! と、アリシアは思った。

 彼女の表情がぼーっとなり、本当に瞳がうるみ始める。

 嬉しかった。

 恥ずかしかった。

 レフティが更に愛おしくなった。


 しかし、次の一言が彼女の火照ほてりをわずかにましてしまう。


「アリシア……義姉ねえさん……」


 余分な単語が、くっついてきた。

 レフティは引き攣った苦笑いをアリシアに向けて尋ねる。


「アリシア義姉さんで……どうかな?」


 申し訳なさそうにレフティは、アリシアの肩から手を離す。


「今は……それで許してあげる」


 アリシアは腰に手を当てて、レフティを軽く睨みつつ微笑んだ。


「でも必ず、そうね……お腹の中に赤ちゃんをさずかったら、私の事を名前だけで呼べるようになってね?」


「……善処ぜんしょします」


 レフティは軽く項垂うなだれた。

 アリシアは、そんな姿の彼を見て幸せそうに笑う。

 彼女の顔は、まだ赤いままだ。


 顔を上げてアリシアを見たレフティは、異常に気がついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る