第三章 ―白への小歌―
「念のため、扉は閉めておいて下さい。僕が戻ったら室内から見て右、右、左の順でノブを下げます」
「わかった。それを確認するまでは身を潜めておく」
「お願いします。では」
閉じられた扉を背に、阿藤は周囲を見渡す。
左右に伸びた通路の対面壁には、二つの扉が設えられている。阿藤の正面に当たる扉は明らかなセキュリティ設備を備えており、操作パネルに点灯している緑のランプがその機能の生存を知らせている。一方右前方の扉は簡素な鉄扉であり、施錠機能は持たないようだった。更にその右側には間口を挟んで赤と青の人を模したピクトマークが並んでいる。廊下の右最奥には上下階への階段の端が覗いており、阿藤側の壁面にも独房へ続く扉とは別にもう一つ、広い間口が開いていた。阿藤から見て左手にもいくつかの扉が見受けられ、左最奥は行き止まりになっているようだ。
寒々しい程に白い蛍光灯が照らす通路――廊下と呼ぶべきか。そこはさながら、戦闘後の戦場だ。あちらこちらに転がる体から強い死の臭いが立ち込め、赤と黒の液体が壁を、床を、アヴァンギャルドに染め上げている。一見して死んでいると判ぜられる人間は、最早マネキンと大差ない――そんな思考が過る程に、現実感のない光景だ。
阿藤は足元に転がっている人間であったものを見る。うつ伏せに倒れているため、顔は見えない。耳に掛かる銀のフレームに濡れた髪が張り付いていた。白衣を纏った胴体の一部が衣服ごとごっそりと欠損している。恐らく、そこから広がっている血溜まりが扉の下を潜り、阿藤達の目に触れたのだろう。黒と赤、所々に黄色と白とを交えたまだら模様に彩られた巨大な傷口から零れる、うねる肉塊が光を受けて粘り気のある輝きを放っている。
「……この黒……やっぱり化け物にやられたのか」
真っ直ぐに伸びきった左手は何を掴もうとしていたのだろう。阿藤は数秒目を伏せ、それから視線を逸らす。考えるべきではない。数歩前へと足を進めると、正面の壁に何かが掲示されている事に気付いた。阿藤の目線よりも僅かに低い位置にある紙面には、直線で区切られた空間と無数の漢字が並んでいる。下辺の右隅に「至高天研究所 実験棟地下一階」の文字を認め、誰にともなく頷いて阿藤はそれを壁から剥がし取った。
「右側……こっちが東廊下なのか。観察独房が此処、右の出入り口は休憩室、階段とトイレがあって……その横は流し室、こっちは〝検体面談室〟……?」
〝検体〟と〝面談〟する部屋。観察独房という名の空間に詰められていた自分達。不安定な〝かみさまのこども〟。今までに得た情報から、この至高天研究所で何らかの生体実験が行われていた事は容易に推測出来る。問題はそれが何の実験なのか、だ。
「……とにかく、脱出に繋がりそうな所を……まずは地上に上がった方がいいのか?」
足元の死体を大回りに避けて通路を右へと進む。天井の一部が崩れ落ち、築かれた瓦礫の山を横目にトイレの入り口前を通り過ぎ、右手に休憩室の出入り口を見る。身を乗り出して室内を確認するが、情報を得られそうな設備は見当たらない。やがて目前に壁が迫り、左手に下階へ向かう階段がぽっかりと口を開けた。コンクリートの手すり壁を隔てて隣接している地上階への階段は、数段上がった所に鋼鉄のシャッターが降りており、それ以上先に進むことが出来ない。姿を消した磯井であれば、或いは力ずくで持ち上げられたかもしれないが、阿藤には到底不可能だ。そこまで容易に事が進むとは考えてこそいなかったものの、僅かな期待がなかったと言えば嘘になる。阿藤は溜息を吐き、シャッターに触れていた指先を離して踵を返した。
再び地図に視線を落とす。紙の上の右半分、阿藤が今歩いている東廊下に面する部屋の内、今すぐに調査出来るのは休憩室と流し室、トイレの三箇所だ。左半分――西廊下には阿藤達が居た独房と隣り合って観察独房がもう一つ、その奥に分析室とサーバールーム、さらに奥には倉庫が二つ、倉庫の正面に処分室俯瞰所、西に向かって実験室、資料室、機械室の三部屋が並んでいる。
「資料室に建築図面でもあれば話が早いんだけど……、実験室に情報が残っている可能性もあるな。まずはこの二部屋か……何も見つからなかったらサーバールームかな」
親指で顎を撫でながら四、五歩進んだ辺りで、阿藤の靴底から床面とは異なる感触が伝わってきた。足元を覆い隠していた地図を避けると、汚れた革靴の下から白い紙の端がはみ出ている。
「うわ、ほとんど読めないな」
右手の指先で摘まんだメモ用紙にはいくらかの文章が書かれていたようだが、紙面の八割ほどが黒い液体で滲んでいて文字か記号かの判別さえままならない。唯一読める文字は文章の最後に書かれていると思わしき署名だけだ。
「サネミツより」
馴染みのない響きに首を捻る。この場に落ちているということはこのサネミツなる人物も研究所の関係者なのだろう。何が書かれていたのかは皆目見当もつかないが、宛先の人物に内容が届いていると良い。場に不似合いな――否、こんな状況だからこそ浮かぶ感傷に浸りながら、そのメモを体の脇で手放す。
「(さて)」思考に区切りをつけ、阿藤は東廊下を西に向かって歩き出す。独房へ続く扉は中央の歪みを残してこそいるものの、しっかりと閉じられていた。その向こうに身を潜めている3人の姿を思い浮かべ、進む足がテンポを上げる。目指す資料室は右手に見える検体面談室の二つ隣だ。遠景でこそあるものの、セキュリティ式の扉ではないことが窺える。アナログの鍵でもって施錠されている可能性もあるが、それであれば最悪の場合ドアノブごと破壊して侵入することも可能だろう。幸い、鈍器として使えそうな瓦礫はそこら中に転がっているのだから。
Ⅰ
顔のないもの、脚のないもの、肩口が裂け、腕から先がべったりと床に落ちているもの――様々な形で絶命している肉体を避けながら資料室の扉の前に立つ。独房への出入り口と同じタイプの観音開きの鉄扉だ。ノブの下には鍵穴がある。無慈悲な現実に思わず落ちる肩を背筋を伸ばして持ち上げ、地図を四つ折りにしてズボンのポケットに収めると、阿藤はノブを掴んだ。しばらく小さな不運が続いても構わない。ここでその分の幸運を使ってくれ――祈りとともにきつく目を伏せ、右手の力を床へ向ける。
「あ……」
留め具が外れる小さな金属音を発し、ノブはすんなりと下がった。そのまま手前に扉を引く。開いた隙間から室内を覗き込むと、阿藤よりも背の高い書棚が蛍光灯に照らされている様が見える。扉の正面には左右に二畳分ほどの広さがある机が置かれており、木製の丸椅子が行儀よく並んでいた。資料室という名称から、研究資料が収められている教科準備室のようなものを想像していたが、どちらかと言えば書庫に近い部屋のようだ。扉の隙間から首を出し、左右に回してから身を滑り込ませる。外部からの襲撃に備えて後ろ手に閉めた扉を施錠した後、改めて室内を見回す。
室内は廊下に比べて血や土埃の臭いが薄く、書籍も整然と棚に収められている。床のタイルが剥がれている部分はあるが、外力による破損ではなく経年劣化によるものだろう。怪物の襲撃による混乱はこの部屋には及ばなかったらしい。阿藤は出来るだけ足音を殺して正面の机に歩み寄り、天板を撫でる。埃が積もっている様子はない。日常的に人の手が入っていたと解釈するのなら、この部屋には劣化していない、有用な情報が眠っている可能性がある。机の端に積み上げられた書籍の山の麓に一冊だけ開かれたままになっている冊子を捉え、阿藤はそれを手に取った。開かれているページに目を通す。
『三月十日。初めてこの実験棟に入る。
中部支所の実験棟は選ばれた人間しか入れないと聞いていたからとても胸が躍る。
東京の方ではこれまで動物実験しかしてこなかった。
ここではついに人体実験ができるらしい。
法が及ばないのも全ては我らが救世主だからだろう。
移動中、オリジンβについて聞いた。話を聞けば聞くほどすごい。
惜しまれるのはオリジンβが人間での成功例ではないということか。
ああ、はやくオリジンβに会いたい。
今日は美味しい珈琲を飲んで寝るとしよう。明日も日記を書く』
研究員の日記はその後数ページ続き、日付が進むごとに内容、文体共に常軌を逸していった。最後の日付は四月五日。オリジンβと呼ばれる実験体の暴走により、命を落とした後輩―――三月十日時点の執筆者――の後を継ぎ、別の人物がこの日記を書いていく、という宣言が記されている。
阿藤は日記を閉じ、静かに元の位置に置き直した。少なからずショックを受けている己を自覚する。
しかし得られた情報は多い。阿藤が身を置くこの場所は実験棟と呼ばれる場所であり、法を外れた人体実験が行われていたこと。中部支所は実験に於いて中枢を担っていたこと。以前にも実験の余波により多数の死者が出ていたこと。暴走した実験体は逃走の末に再び捕らえられ、研究所内のどこかに収容されていたこと。
そしてその暴走した実験体――オリジンβとは、倉知が対面した化け物を指すのだろうことも。花蓮が〝あれ〟をポチと称したのは、彼女の父親が犬を宿主としていた頃のオリジンβを見ていた名残だったのだ。また、倉知がそれを「人の形をしていた」と表現したことから、オリジンβは何らかの経緯を経て犬から人に宿主を変えたと推論できる。
「オリジン」阿藤は呟く。原点を示すことばを冠した〝β〟。生物に宿る何か。オリジンβを成功例と称するのなら、実験の目的はオリジンを生み出すことなのか。思考がカラメルのように焦げ付き始めると共に、端から痛みが滲み来る。それを追いやるべく頭を振り、棚に居並ぶ色とりどりの背表紙に目を走らせると、濃紺の背表紙に目が留まった。
『ダンテが描いた宇宙 上巻 磯井実光』
重厚感を漂わせるカバーに白抜きの文字で著された名。先程東廊下で手にしたメモの署名。
「磯井、サネミツ……?磯井?」
振り返り様に見せた、灰汁のある笑みが脳裏に過る。阿藤の目線よりも幾分低い位置に収められたその書籍を開くが、内容は今一つ頭に入ってこない。どうやらダンテの神曲に関わる考察が主題らしい。著者の近影でも掲載されていないものかと背表紙を開くが、代表作らしいタイトルがいくつか列挙されているだけだった。上巻があるのなら下巻もと視線を巡らすが見当たらず、阿藤は部屋の奥へ向かって書棚を追う。
数多の本に囲まれた部屋の中央には、デスクトップパソコンのディスプレイが等間隔に並ぶ机が設置されていた。机自体は出入り口正面にあったそれと同じもののようだが、机下へ向かって這い回るコード類が見た目の印象を些か近未来化させている。床置きされたパソコン本体は全て沈黙しており、電源を投入できるか否かも定かでない。
左端に設置されたパソコン本体と机の天板の間に白い影を見つけ、阿藤は丸椅子を退けてしゃがみ込むと手を伸ばす。人目を忍ぶように置かれたそれは、ホチキスで綴じられた薄い冊子だった。阿藤は慎重に黄変した表紙を開く。研究成果と銘打たれた手書きのデータが数ページに渡り記された後、考察の章が続く。項目ごとに筆跡が異なっており、複数の人物が研究成果に関わる考察を述べていることがわかる。その中に〝オリジン〟の文字を認め、阿藤の視線はそちらに吸い寄せられていく。
『・オリジンα
オリジンαとは、オリジンのコピーとしてほぼ完成に近い状態までもってくることのできた対象である。オリジンからの細胞譲渡と同じく非常に安定した細胞を持ち、更なる細胞所持者の拡大に貢献すると期待されていたが、皮肉にも個人の意思を持たない植物が媒体である為、オリジンαとしての完全な成功体とは言えないと私は考える。
しかし、固有の意識を持たぬということは、真っ白な画用紙と虹色の絵の具を用意された存在に等しいとも言えるのではないだろうか。
オリジンαから次なるオリジンの候補が生まれる日はそう遠くはないだろう。
磯井来』
丁寧な細い線でありながら、所々に丸みを帯びて崩れる文字が女性性を匂わせている。廊下にあった死体はどれも男性に見えた為バイアスがかかっていたが、女性研究員も少なくないのかもしれない。
「しかし、また磯井か……」
阿藤は額に指先を当て、低く呟く。ありふれた姓と片付けるには少々無理がある。磯井実光と磯井来が別人であると仮定するならば、二人の間に血縁、または婚姻関係があると考えて良いだろう。そして磯井麗慈の存在。彼の異常なまでに強い力の根源と、研究所に関わりのある二人の磯井を結びつけると――。
「いやいや、思考が飛躍してるぞ。落ち着け、俺」
その場にある情報のみを結び付けて推理を進めるのは危険だ。思い込みは時に希望を覆い隠す。『己の知る情報を全てと思うな』音羽探偵事務所に入所してすぐの研修で繰り返し唱えられたフレーズを心中呟き、阿藤は冊子を閉じる。この薄さであれば折りたたんでジャケットの内ポケットに収められないものかと考えるが、下手に備品を持ち出して後々問題となると面倒だ。余計なリスクを負う必要もない。先程の日記の件も含め、情報については口頭で伝えようと心に決め、冊子を元の位置に戻すと身を丸めたまま後退し机の下から出た。――直後。
「死ね!」
長い銀の筒が阿藤の耳元を掠め、退けておいた丸椅子の座面に振り下ろされる。至近距離で鳴る衝突音が耳に痛い。反射的に瞑った目を開き、鉄パイプが移動する先を追うと、長いグレージュの髪を乱した白衣の女性が目を丸くして阿藤を見下ろしていた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「……寄生されてないの?」
女性は再び振りかぶろうとしていた鉄パイプを下ろし、尻餅をついた状態の阿藤に顔を寄せた。オーバル型のメタルフレームが金の光を放つ。腰に手を当て、体を前傾させて阿藤をしげしげと見つめた後、彼女は身を引き左手を差し出した。
「ごめんなさい、とにかくここから出て。クリーチャーがいるから」険しい顔つきのまま周囲を警戒する女性の様子に阿藤は息を飲む。述べたい言葉は掃いて捨てる程あるが、それが許される場面ではないようだ。体の脇についていた左手の汚れをジャケットで払い、伸べられた手を取る。彼女が苦も無く阿藤の体を引き上げられたのは、阿藤の痩身によるところか、彼女の力が強いのか。
立ち上がってみれば、女性の身長は阿藤よりも目測二十センチ程度低い。平均的な体躯と、些か垂れ気味な目元が厳めしい表情とのギャップを生んでいる。忙しなく首を回していた女性は阿藤の顔に目を止め、何かに気付いたように「あ」と口を開いた。
「……あなた、名前は?」
「麻生と申します」目の前の女性の人間性は定かでないが、拉致に襲撃にと己の身に害を及ぼした組織に属する人間に、素直に本名を名乗る必要もないだろう。
「麻生さん。そう、フルネームは? 私は田中有希(たなかゆき)です」
「あ、麻生浩二です……」
「どこから来たの?」
明らかな探りの意図に阿藤の頬が引き攣った。田中は阿藤が関係者でないことを確信している。独房へ駆けつけたという男性所員の後続が彼女である可能性。阿藤は静かに拳を握り、残してきた三人を思う。
「覚えていない? では、質問を変えます。ここがどこか分かる?」
田中は阿藤の反応をつぶさに視線で追う。観察という表現以外に適するものを見出せず、如何ともし難い居心地の悪さに阿藤は田中の後方、壁と天井が接する辺に視線を向けた。
「っ……」
比喩でなく百はあろうかという節足が、それぞれのタイミングで壁を掴む。長く太い胴体の半分は未だ天井に張り付いており、尾に当たる部分は視界に収まらない。甲殻の艶めく黒とは相対して、頭部の白は骨の表面を思わせる。頭部に並ぶ六つの赤い眼には阿藤と田中の姿が映っているのだろう。ムカデとも、蜘蛛ともつかないそれが、今まさに壁を這い降りてきている。
「田中さん、……後ろに、大きな、虫が」
虫の類に聴覚があるか否かは思い出せない。危機に瀕した声帯がひとりでにボリュームを絞る。田中はゆっくりと右足を引き、顔を後方の壁へと向けた。右手に握った鉄パイプを構え直し、視線は壁に固定したまま左手を阿藤の方へ伸ばす。
「落ち着いて。刺激しなければ問題ありません。部屋を出ましょう。ゆっくり、大きな音を立てないように扉へ向かって」
「あれがクリーチャーですか」
「そうよ。〝Centipede〟……あの子はただ逃げたいだけ。刺激しないように」
阿藤は頷き、体の正面はセンチピードに向けたまま横歩きに書棚の陰に入る。足音を殺して出来るだけ足早に扉の前へ辿り着き、サムターンに指を掛けて部屋の奥を見ると、天井に張り付いていた胴が左右に揺れながら壁伝いに消えていった。それとほぼ同時に書棚の反対側から田中がこちらへ向かってくる。手首から先を前後に揺らす仕草は早く出ろと解釈して良いのか。阿藤は扉を開け、部屋に入った時と同じように外の様子を伺う。周囲に動くものの気配はない。いざ一歩踏み出そうとした瞬間、背を押されて前によろめく。
「早く出て!」
田中の声に振り返ると、阿藤を押す田中の向こう側に、長い体躯をくねらせながら先程とは比にならない速さでセンチピードが迫っていた。阿藤が廊下へ押し出され、二、三歩前進する間に田中は扉を閉め、白衣のポケットから取り出した鍵で空間を密閉する。一分程度鉄の扉の向こうから細かい衝突音が聞こえていたが、やがてそれも遠ざかって消えた。鉄パイプと共に両手でノブを握り締めていた田中は深く長い息を吐き、ノブにぶら下がるようにして床に座り込む。
「はあ……」
「あの……ありがとうございます、助かりました」
「え? ああ……いえいえ。本当にごめんなさいね、突然襲いかかったりして。意識がはっきりしてる人間がまだいるなんて、思ってもみなかったから」田中は苦笑し、白衣の裾を払いながら立ち上がる。
「田中さんは、……」
「ここの研究員です。探し物をしていたの。とても大切な物なのよ」
閉じられた田中の唇からぎ、と固い音が漏れる。「ここにないとなると、休憩室かな……実験室も行ったっけ。トイレも……どこで落としたんだろう……」
田中が小声で呟く言葉に聞き耳を立て、阿藤は腕を組む。田中はセンチピードの特性を把握しているようだった。研究員ということは当然、この建屋の構成にも詳しい筈だ。セキュリティ・キーも所持している可能性がある。彼女の同行を乞えれば、阿藤一人で歩き回るよりも安全に、効率良く調査を進められるだろう。
田中の頬は薄墨色に汚れている。白衣の袖口で拭ったのか、右袖の一部が黒く染まっていた。しかし怪我をしている様子はない。血液らしき汚れも見られない。阿藤に襲い掛かってきた後の様子から、積極的に他人に害を及ぼす意思はないと考えられる。
「田中さん」阿藤は意を決し、田中に一歩近づく。「探し物、お手伝いさせてくれませんか」
田中は阿藤を見上げ、二、三度目を瞬いた。数秒視線を右下に向けて黙り込んだ後、緩慢に阿藤の周囲を歩き始める。意図の読めない行動に、阿藤はその姿を首から上で追う。
「ありがとう。人手が増えるのは助かります。でも、どうして?」
「……正直に言います。僕は脱出ルートを探しています。先程の……クリーチャーでしたか。ああいう手合いに遭遇した時、僕一人では対処のしようがない。田中さんの探し物をしながら、脱出に繋がる手がかりを探したいんです」
「ふうん……」阿藤の外周をぐるりと回り終えた田中が再び正面に立つ。阿藤のパーソナル・スペースの内側で田中は目を眇め、頬を緩めた。
「そういう事なら、私も力になれると思うな。よろしくお願いします、麻生浩二さん」
Ⅱ
「まずは隣の実験室に」
田中に先導され、阿藤は西廊下を奥へと進む。資料室に入った辺りから焼け付いている頭痛にも、そこかしこから臭う血の香りにも慣れつつある己が些か恐ろしい。揺れる白衣の裾を見つめながら、阿藤は問う。
「先程、寄生と仰いましたね。何に寄生されていると思われたんですか?」
「それは機密事項だから、詳しくは話せません。でも、それが寄生したものの多くはクリーチャー化するのよ。だから早い内に一撃食らわせて、その間に逃げようと思ったの」
「クリーチャー化……って、さっきのあれも、元は別の生き物だったって事ですか?」
事もなげに告げられた事実に阿藤は青ざめ、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。田中は足を止めず、前進を続けながら「うん」と頷いた。
「別の生き物っていうか、元人間ね。寄生または投与後、適応出来ずに精神はおろか肉体をも失った人間。逃避願望が強い人間がクリーチャー化したものが、さっきのセンチピード。逃げ出したいだけだから、刺激しなければ大丈夫。身を守ろうとする意思が強ければ〝The Back〟。基本的には部屋の隅みたいに暗くて狭い所で丸まってるだけの大人しい子なんだけど、解放欲求があるから近付くと襲ってくる事もあります。深い思考に囚われれば〝Head〟。脳が宙に浮かんでるような……正確には太い神経みたいなもので歩き回っていて、追いかけて来るの。この子は増殖本能に忠実だから間違いなく襲ってくるけど、扉を隔てると見失っちゃうのね。隠れてやり過ごせる。仲間を求める欲が強ければ〝Circle〟……これが一番危険なクリーチャー。環状に沢山の腕が融合していて、どこまでも追いかけて来る。こちらが諦めるまで追跡は止まない。止める為には特殊な道具が必要で、私達研究員の中でも一部しか対処を許されていません。その道具も全て持ち出されてしまっていたから、遭遇したら諦めた方が苦しまずに済むかもね」
前を歩く田中の表情を窺う事は出来ない。余りに淡々と語られるクリーチャーという存在の詳細事項は、阿藤の記憶に辛うじて引っかかっている程度だ。元は人間?投与の結果、肉体までも崩壊する?それ程のリスクを孕む人体実験が、この国の、阿藤が暮らす街からさほど離れてもいない場所で、少なくとも書類を手書きで作成するような時代から、延々と行われていた?――正気の沙汰ではない。田中の同行を乞うた事は、果たして正しい判断だったのか。阿藤は足を止め、田中の後姿を見つめる。
「ああ……扉がやられてるみたい。開くかなあ、これ」
一メートル程先で腰に手を当て、苦い表情を浮かべていた田中がぐるりと首を傾けた。
「麻生さん。これ、何とか出来ませんか?」
頭の右側から垂れる長い髪が口元を隠す。緩くカーブを描くレンズが光を反射して、左目の表情は分からない。向けられた右目は瞬きも数少なく、爛々と輝いて見える。床に広がる血溜まりを背景に立つ、白い服の女。――彼女は、鉄パイプを手放していない。
「聞こえてますか、麻生さん?」
「……はい。ちょっと、見てみますね」
阿藤が扉に近づくと、田中は一歩左に退いた。田中を視界から出さないよう、顔の角度に気を配りながら阿藤は扉を見る。
東廊下の検体面談室に設けられていたのと同じセキュリティ・ドアだが、閉戸動作の途中で左の扉に瓦礫を挟み込んだ為に閉まりきらず、三十センチほどの隙間を開けて動きを止めていた。操作盤にはアルファベットのAが刻まれたアルミの銘板が張り付けられており、その横に設けられた二つのランプの内赤いランプが点灯している。
「入れそうですよ。てこのようなものがあれば、何とかなるかもしれません」
「これでいけますかねえ」田中は手にしていた鉄パイプを差し出す。一メートル足らずのパイプだが、板厚もあり強度は申し分なさそうだ。阿藤は左手でそれを受け取り、瓦礫とガイドレールの間にパイプの中空部を差し込むと下方向に力を込める。動いている感触はあるが、簡単に外れてはくれない。
「田中、さんが……探しているものって、何ですか?」両脇を開き、体の側面に鉄パイプを添えるようにして両手で力を加えながら阿藤は口を開く。阿藤の足元にしゃがみ込み、瓦礫が音を立てる様子を見つめていた田中は顔を上げ「指輪」と一言答えた。
「結婚指輪です。カズ君から貰った、大切な物なの。どうしても見つけなくちゃ」
「それは、……この状況でも、ですか」
「どんな状況でも、よ」
表情を変える事なく田中は言う。澱みのない声音が却って異常さを際立たせていた。会話は成立しているが、根本的な違和感が拭えない。
「麻生さんはここから出てどうするの? 警察に通報でもする?」
「はい、と答えたら?」
「何もしませんよ。私達の研究は必ず世を正しく導くもの。今までの成果と目指すものを知れば、きっと理解を得られます。歴史上の大きな転換点には犠牲が付き物でしょ? 彼らは多くの人々の為、礎となったの」
「理解に苦しみます……」
「今は、ね。すぐに分かりますよ」阿藤を見上げたまま、田中が微笑む。息を飲む程に穏やかな笑みに、阿藤の背筋が凍りつく。信仰を伴った人道からの逸脱は、これほどに人を狂わせるのか――。
「あ」
込めていた力が唐突に床に向けて落ち、阿藤の態勢が崩れる。がこ、と音を立てて瓦礫が室内へ転がり込み、一瞬閉まりかけた扉が両側の戸袋に吸い込まれていった。
「ありがとう」田中は阿藤に手を伸べることもなく、転がった瓦礫を飛び越えて部屋の奥へ消える。
「ちょっ……待って下さい、丸腰で!」
再び閉戸動作に入った扉のガイドレールのに鉄パイプを載せ、両端に衝突しては開閉動作を繰り返す扉を抜けて、阿藤も後に続いた。
室内は半分以上が瓦礫に埋め尽くされていた。天井に開いた穴からは、鉄鋼の梁や配管の類が阿藤を見下ろしている。元のレイアウトが想像出来ない程乱れた室内の様子に、阿藤は下唇を噛む。上階へのシャッターを開く手段が見つかったとして、その先がこの部屋と同じように崩落していないとは言い切れない。地下からの脱出を甘く見ていた。建築図が見つかった所で、そのルートが今も確保されている保証はないのだ。改めて危機的な状況を認識し、頭痛と眩暈を覚える。
左手の壁に寄りかかり、床へ視線を落とすと緑色の板が視界に入った。こめかみに手を当て、脈動を感じながら歩を進める。片膝をついて手に取ったそれは、プラスチック製のカードだった。表面に黒のゴシック体で〝清掃員用特別認識カード〟と記されている。
「清掃員用……何かに使えるか? 田中さんに……あれ、田中さん?」
先んじて室内に入っていった田中の姿が見えない。部屋の左側は瓦礫が山積している。腰を上げ、右奥へと視線を遣ると、瓦礫の山の前で座り込んでいる田中を見つけた。
「……お知り合いですか」脇に立つ阿藤の問いに田中は頷く。「中川さん。いい人だったのよ」立ち上がった田中の足元に放り出された腕の先、細い五本の指。整った楕円の爪の間から滲む黒が、徐々に皮膚を溶かし、中川――であったもの――の髪や白衣までも液体に変えていく。一分と経たない内に人としての輪郭は全て失われ、廊下で幾度も目にした黒い水溜りに姿を変えた。あの雨の日、事務所で遭遇したネズミの最期。痛みがこめかみを刺し、阿藤は一歩後ずさる。
「次の寄生先に移れなかった細胞は、宿主が死ぬと、その器を巻き込んで自壊するの。そういう風にね」田中の声に背後を振り返ると、床に手を着き、低い姿勢で瓦礫の間に目を光らせる姿が目に入った。
視界の点滅。一声も発せないまま阿藤は体を泳がせ、間口の角に手を着いた。開きかけた扉に割り込むようにして廊下に転がり出ると、膝を支えに背中を丸める。
溶けていく色素の薄い髪。頭蓋から零れ落ちる眼球。赤、青、黄、白。人を構成する全ての色が黒に染まって溶ける様。目にした光景が繰り返し瞼の裏に映し出され、催す吐き気に阿藤は口元を押さえて声を漏らした。目の前にある黒い液体さえも、もしかしたら、元は。結果のみを見ていた物が辿ったであろう経過を知った今、胃の奥から込み上げる物を抑えられない。
胃の中には何も入っていなかったようで、何度吐いても出るのは胃液ばかりだった。鼻腔の奥に残る強い酸味に顔をしかめながら、阿藤は手の甲で口元を拭う。心の底に溜め込んでいた澱も同時に吐き出したのだろうか、背筋を伸ばせる程度には思考が上向いていた。
実験室の扉は変わらず開閉を繰り返している。二、三度その動きを見つめていると、田中が廊下へ歩み出て来た。愁然とした姿に阿藤は捜索の結果を察する。その上、知る辺を目の前で喪ったのだ。消沈するのも無理からぬ事だろう。
「見つからなかったんですね」
「此処じゃないなら、……次は休憩室。行きましょう」
田中は阿藤を見る事なく、廊下を東へ向かって歩き出した。
廊下に動く物は見当たらない。生の不在を改めて肌で感じ、阿藤は田中の背中を視界の中央に据えた。障害物を避けつつ廊下を行く田中の足取りが、煽られるように時折よろめく。何度か出しかけた手を都度引いては腕を組み、阿藤は田中の後を行く。
西廊下の奥は、地図が示す通り行き止まりになっていた。現状把握している情報では、階層間の連絡通路は東廊下の奥にあった階段に限られている。ポケットから取り出した地図を見ても、室内に連絡通路を設ける必要のある部屋は見受けられない。むしろ、独房、実験室、検体面談室など、生きた被験体を取り扱う部屋が多い為、上階とは隔離したい意図が強いのだろう。この建屋の地下構造が何階まであるのかは不明だが、深く潜ればエレベーターが設置されている可能性はある。そう考えれば上階へのシャッターを開くのは諦め、下階へ向かうのが妥当だ。が――。
休憩室への間口を右手に、階段を左手に見る。下階へ繋がる暗闇。コンクリート造の外観に反して漂う温い熱に、阿藤は目を逸らす。言語化出来ない感覚が、下階へ向かう選択肢に靄を掛けている。
「解除機構が見つけられればなあ……」独り言ちながら休憩室へ入ると、田中は正面の壁の脇を抜け、その陰を右へ折れて消えていった。間口から続く壁に寄りかかる白髪の遺体を視界から追い出し、阿藤は小走りに田中を追う。
目の前に広がる空間の左側には大きな机が二つ。加えて何脚もの椅子が並び、その配置の偏りが所員達の戯れを思わせる。二十畳は優に超えるであろう広さを区切るように並んだベンチに導かれて空間の右側へ歩を進めると、田中が自販機の前に立ち、阿藤を振り返った。
「麻生さん。喉、乾いてない?」
その表情には憂いも、焦燥さえも見えない。阿藤が逡巡する内に田中は白衣のポケットから取り出した小銭を自販機の投入口へ押し込み、ミネラルウォーターのボタンを押す。ボトルが取り出し口に落ちる重い音が室内に響き、田中は阿藤へそれを投げて寄越した。壁際のベンチを指して着席を促すと、阿藤の前を抜けて先に腰を下ろし、脚を組む。
「困ったなあ、ほんと……。今週期限のレポート、まだ上がってないのよ。何せ相方があの嘉納君だから、全然結論がまとまらなくて。彼なりの着地点があるのは分かってるんだけどね」
組んだ右足の膝に肘を着き、前傾して揺れながら田中が呟いた。
「優秀なのに、……ううん、だからなのかも。私にもあんな柔軟性があればなあ……」
溜息を吐き、田中が視線を投げる先には血だまりがある。それすらも日常であるかのように、田中はそう続けた。阿藤は返す言葉に困窮し、手にしたペットボトルの蓋を開けて口へ運ぶ。喉を抜け、胃に落ちる冷えた液体が心地良い。いたく久し振りに思える感覚に浸っていると、立ったままの阿藤を田中が見上げていた。やや茶色がかった虹彩が小刻みに動き、ペットボトルの蓋を閉める阿藤の動作を追う。
「まだ、喉、乾くんですね」田中は満足げに首を縦に揺らし、ふうん、と口元を緩めた。
「……まだ? どういう意味ですか?」
眉を顰める阿藤の言葉に答えないまま、田中は組んでいた脚を下ろし、上半身を丸めてその上に伏せる。幾度か身じろぎした後動かなくなった田中に阿藤が手を伸ばしかけると、くぐもった声が返ってきた。
「ごめんなさい、体調が……悪いみたい。少し、休ませて下さい」
弱々しい声。噛み合わない会話からも、田中が心身ともに消耗しきっているのは火を見るより明らかだ。「分かりました」と短く返し、阿藤は手に持っていたペットボトルを田中の隣に置く。
「少し、僕一人で探してきます。田中さんは軽快するまで休んでいて下さい」
「ありがとう、指輪……見つけなきゃならないの。大切な物だから……」
「ええ、承知しています」
後ろ向きに数歩進んでから踵を返し、阿藤は室内を見回す。自販機の駆動音が大きく聞こえる程に音がない。自販機や流し台、コーヒーメーカーが並ぶエリアと、ベンチの間を隔てるマガジンラックには、雑誌や新聞が雑然と収められていた。その中に全国紙である朝海新聞を見つけ、阿藤は手を伸ばす。
『奈胡野市で再び行方不明者? 神隠しか』という見出しが躍る夕刊は四月七日付のものだ。阿藤がこの研究所の敷地を訪れたのは四月五日。少なくとも二日は経過している。
「二日も飲まず食わずで眠り続けてたっていうのか……?」
新聞をマガジンラックに戻し、腑に落ちないものを抱えたまま阿藤は歩を進める。壁面に誂えられた十字架が苦々しい。この状況のどこに神の加護を思えというのか。
壁の間を通り抜けた向こうの通路は左右に伸びている。左に折れれば出入り口だが、指輪らしき物は見当たらなかったように思う。何よりも、壁にもたれる白髪の遺体にはなるべく近付きたくない。阿藤は通路を右に進む。独房の広間にも置かれていた大きな木箱が壁沿いに並ぶ奥にはセキュリティ式の扉があった。操作盤に灯る緑のランプが点滅している。
「さっき拾ったカード、使えたりして。はは」
未だ現実を受け止めきれない己の喉が、極めて陽気な声を発した。あの実験室でダメージを負ったのは田中だけではない。この扉が開かなければ田中の元へ戻って休もう、と阿藤は決意し、緑色のカードをリーダーに翳す。細い鋼鉄の弦を弾くような認証音が鳴り、目の前の扉が左右に開かれた。
「開くのかよ……」
不運か悪運か、込み上げる笑いが口元に滲む。顎に力を込めてそれを噛み潰すと、カードを再びポケットに収め、阿藤は右手へ続く通路を歩き出した。
Ⅲ
右の壁にはこの建屋の至る部屋に掲げられている石板に加え、様々な書面が掲示されている。『シャワールーム定期清掃のお知らせ』『月刊カトリック通信』『宇津木徳幸様 講演会の案内』と幾つか並ぶ掲示物の中に、『血液』という不穏な文言が浮いていた。
『※※被検体との接触があった場合は、
シャワーで済ませず必ず相応の処置を行ってください。
至高細胞は血液一滴でも寄生します※※』
「至高細胞……これか……!」
思えばあの薄い冊子にも、細胞という単語が多用されていた。対象がウイルスや細菌でなく細胞であるのならば、田中が感染ではなく寄生という表現を用いた事にも納得がいく。至高細胞という名はこの組織で発見されたが故か、或いはその細胞の研究を進める為にこの組織が立ち上げられたのか、いずれにせよ組織の指針に大きく関わっている事は明白だ。阿藤はもう一度掲示物に目を通す。
『血液一滴でも寄生します』
宿主の血液からですら寄生されるのなら、クリーチャーの体液に接すれば寄生は必定だろう。田中の顔と袖は、黒く汚れていた。自壊した中川研究員とも接触している。床に頬が擦りそうな程低い姿勢で指輪を探していた姿。冷静に阿藤を観察したかと思えば、知己に接するように日常を語るちぐはぐな態度。
阿藤は大股で前へ進み、周囲に目を走らせる。正面のベンチを通過し、突き当りを左に折れて部屋の奥へと向かう。左側に据え付けられた洗面台にも、その奥に並ぶ洗濯機の付近にも光る物はない。両面の壁に沿って立つロッカーやアルミキャビネットの引き出しを力任せに開くが、やはり指輪らしい物は見当たらない。
探し物が終われば、次に田中はこの地下階から出ようとすると阿藤は踏んでいた。それに同伴を請うなり、尾けるなりすれば脱出口が見つかる目算だったが、田中が細胞に蝕まれ、クリーチャー化してしまえば元も子もない。焦慮に駆られ、部屋の奥へ向かって四つ並ぶシャワーカーテンの内、最も手前のものを不必要なほど力任せに開いた。昔ながらの灰色がかったタイル張りの床は乾ききっている。目地に散る黒い点が蠢いているように見え、阿藤は眉間を摘まんで頭を振った。
「くそ……、落ち着け、考えろ……。実験中に寄生される恐れがあるなら、何か対策があるはず……とにかく、早くここを調べて戻らないと」
このシャワー用個室には設備がほとんどない。シャワー自体が壁に埋め込まれており、物を置けるような場所は壁から突き出す水栓部の上だけだ。排水溝の蓋は長穴が並んでいるタイプのもので、細身の指輪であればすり抜けてしまいそうだ。念の為、排水溝の中を覗き込むが何も見えない。二つ目の個室も一つ目と同様に乾いており、目的を達するには至らなかった。
慣性の向くままに三つ目のカーテンを開く。途端に溢れ出る濃い鉄の臭いに、阿藤は咄嗟に鼻と口を覆った。個室の奥の壁は飛び散った血液で半分以上赤く染まっている。垂れ落ちるそれを拭うように横へ向かって滑るいくつかの手形は所々が掠れて暗く変色していた。水栓部と排水溝――に滞留する血液の中――に指輪らしきものの見当たらないことを確かめると、すぐにカーテンを引く。スプラッターな状況に慣れつつあるとはいえ、やはり意図的に観察することには抵抗が拭えない。
「さっきの洗濯機、中まで確認しておいた方がいいか……ああ、こうしてる間に田中さんが落ち着いててくれたらいいのに」
何かに追われるとつい都合の良い展開を期待してしまう悪癖は自覚しているつもりだが、自覚したからといって矯正できる訳ではない。苛立ちを溶かした溜息と共に最後の個室のカーテンに手を掛ける。先程の経験を踏まえ、細く隙間を開けて中を窺うと、床の目地に水が溜まっていた。近々に使用された形跡がある。阿藤はカーテンを完全に開き、水栓部に目を遣る。ない。次いで排水溝へ――。
「あ……!」長穴の隅で光っていたのは、細い白銀の台座に取り付けられたネオンブルーの宝石だった。指輪本体は穴をすり抜けたものの、台座が引っかかって流出を免れたのだろう。爪の先で慎重に持ち上げ、掌に載せる。九分九厘、件の失せ物はこれだろう。輪の部分に持ち主を特定できる彫刻でもあればと角度を変えて眺めてみるものの、どうやら見当たらない。とりあえず、と摘まんだそれを胸ポケットへ収める際、花蓮から借り受けたお守りの端が視界に入った。「絶対、返さないとな」お守りと名の付くものの悉くを斜に構えて見ていた阿藤だが、今抱いているこの思いこそがその効果なのだろう。不安への拠り所という意味合いでは、癖や習慣と大差ないのかもしれない。
花蓮にそうして見せたのと同じように一度ポケットを叩く。この指輪を届け、一刻も早く脱出しなければ。田中のあの状態にどのような対処が必要なのか阿藤には判断できないが、彼女には彼女のネットワークがある筈だ。外に出れば打てる手数も増えるだろう。至高細胞とは何なのか、何故自分達は独房に詰められていたのか。疑問は尽きないが、今は追究できる状況ではない。また、脱出さえ叶うのなら、それらはむしろ知らない方が良い情報だ。
今後の動向を思案しつつ、阿藤は三つ目の個室の前に差し掛かる。個室のカーテンが十五センチ程開いており、壁に散った血液が僅かに覗いていた。目的を達した以上、何度も目にしたい光景ではない。歩調を早め、意識的に前だけを見て通過する。鮮やかな赤、暗い赤、そこに立つ黒い、
「え」
阿藤は振り返る。
開いたカーテンの隙間から伸びる〝真っ黒な〟腕。
押し出されるようにゆっくりと現れる肩、頭、胴――。
「ア」
個室正面の壁に向かって、口――と思しき箇所――を開いたそれは、キャップ型の帽子を被っているように見える。しかし、髪との境目はない。衣服の一部は肌であろう部分に吸収され、滑らかに同化していた。真っ直ぐに伸びた指先から黒い滴が落ちる。
「……」
強く歯を噛み合わせ、阿藤は右足を後ろへ引く。
靴底が床に接する音と同時に、赤く光る両眼が阿藤を捉えた。
「くそ!」
阿藤は体を反転させ、それに背を向けて駆け出す。ア、ともオ、ともつかない濁った音を発しながら、水気を帯びた足音がその後を追う。阿藤が発する靴音よりも、そのテンポは速い。相手との距離を確かめようと振り返ったが最後、追い付かれた阿藤は至高細胞の宿主となるのだ。
ロッカー、洗濯機、洗面台、掲示物――鼓動が風景を背後へ向かって押し流していく。セキュリティ式の扉に行き当たり、阿藤は開きかけた銀の戸面を叩いた。
「早く開け!早くっ……」
阿藤を阻む壁が左右の戸袋に吸い込まれ、体が前のめりによろける。無理矢理に出した右足で地面を蹴り顔を上げると、休憩室の間口の陰からグレージュの髪が覗いた。
「田中さん!」
状況説明に割く数秒すら今は惜しい。阿藤は通り過ぎざまに田中の左手を掴み、叫ぶ。
「走って!」
田中を捉えた左手が一瞬重みを増し、すぐに軽くなった。少し休んで回復したのだろうか、走れる程度の力はあるらしい。内心安堵しつつも、スピードを緩めることなく阿藤は東廊下への出口を目指す。正面の壁に寄りかかる〝首のない〟遺体を斜めに避け、間口を抜けた。
右前の階段。正面のトイレ。左前に流し室の扉。廊下の先、独房には倉知達が居る。精神に異常を来しつつある田中を三人に引き合わせるのはリスキーだ。トイレの個室は突破された場合袋のネズミになる。
一度の瞬きの間に思考を走らせ、阿藤は体を左に回した。西へ向かう廊下。そこに浮かぶ、巨大な脳。
「ヘッド……!」
臓器としての脳とは異なるつるりとした質感のそれは、一見宙に浮いているように見えたが、その下部――脳幹に当たる部分から伸びた触手で歩行していた。脊柱だろうか、中央に垂れ下がる太く白い触手から無数の細く赤い触覚が伸び、一部は床を捉え、また一部は周囲を探るように宙を蠢く。脈動する本体を包む血管から時折黒い液体が噴き出し、周囲の床に飛沫を撒いている。
「ヘッドは襲ってくる、でも身を隠せばやり過ごせる……そうでしたよね、田中さん?」
阿藤は背後に立つ田中に問うが、返答はない。「田中さん?」振り返ると田中は口元に右手を当て、顔を俯けていた。その向こうに黒い影が追ってきている。先程シャワー室で遭遇した時よりも一回り小さくなっているのは自壊が始まっている為か。己が身の一部を軌跡として残し、緩慢ながらも一歩ずつ着実に阿藤達との距離を詰める。
反応のない田中の手を強く握り、阿藤は奥歯を噛み締めた。正面にはヘッド、背後には黒い影。選べる道は――。
「……び輪……」
田中の冷えた指が阿藤の手を握り返す。荒れた固い皮膚の感触。短く切られた爪が阿藤の皮膚に食い込み、徐々に圧を強める。およそ女性のものとは信じがたい力に振り返った阿藤の視界に、田中の青いローヒールが映った。
否――そこに落ちている小さな肉塊と、阿藤に向かって伸び来る血まみれの右手が。
「……っ!」
阿藤は体を右に回転させ、遠心力に任せて田中と繋いでいた左手を振りほどいた。勢いに負けた田中の体が前傾するのを視界の左端に捉えながら、流し室の扉へと走る。ノブを下げ、扉を押すが開かない。取っ手を握る阿藤の右手に横から伸びた左手が重なり、右手前方向に扉が開くや否や、固い靴底が室内へ向かって阿藤の背を突き飛ばした。
「痛っ……」
漏れた声は鉄の扉が閉じる轟音に掻き消され、両手と膝を床についたまま阿藤は振り返る。疎らに点滅する蛍光灯に照らされる田中の右手が黒く見えるのは、影になっているせいか、それとも。
「ゆびわ……」
赤い筋を端から垂らしながら、田中の唇が小さく呟く。左足を軸に身を翻し、右膝は床に着いたまま田中を正面に捉え、阿藤は低い姿勢で身構えた。その様を見下ろす田中の眼球は未だ白い。先程黒く見えた右手から滴っている血は赤かった。胸元のポケットに手を当てて布地の上から宝石の感触を確かめ、短い息を吐くと共に阿藤は腰を上げる。
「田中さ」
防ぐ間もなくジャケットの下襟を掴まれ、阿藤の上体が前下方へ傾く。近づく田中の顔から離れようと試みるが、強い力がそれを許さない。
「指輪」
あの日事務所で見た〝目〟に似た、左右の眼球の不規則な動き。鼻先が触れそうな程近い距離にありながら、田中の視界に阿藤は映っていないのだろう。
「ゆびわ、ドコへやったの」
阿藤の体が震えている――のではない。ジャケットを掴む田中の手が震えている。限度を超えた力に体が追い付いていないのか。
「返して、私の指輪」
目尻に涙が滲んでいるように見えるのは錯覚か、或いは生理反応か。田中の震えは瞬く間に全身に広がり、痙攣するように跳ねる脚はまるで地団太を踏んでいるようにも見えた。
「田中さん、落ち着いて下さい。指輪、見つかったと思います」
出来るだけ穏やかに、落ち着いた声音で。ようやく吐き出せた阿藤の言葉に、田中の震えがぴたりと止む。両目の焦点が緩やかに定まり、阿藤の胸倉を掴んでいた手は垂れ下がった。解放された上体を立て直し、阿藤は胸ポケットを探る。
「シャワー室で見つけました。田中さんが探していたのは、この指輪ですか?」
取り出した細い指輪を差し出すと、田中は両手の小指側を合わせ、椀状にしてそれを受け取る。左手の指先で銀の台座を摘み、小さなネオンブルーの宝石を血に塗れた右の人差し指でそっと撫でた。
「よかった……」
そのまま両手で指輪を握り込み、田中は茫然と呟いた。泣きもせず笑いもせず、ただ何度も掌中の感触を確かめる。
田中の右手、人差し指と親指を繋ぐ部分は噛み千切られて肉を失い、白い骨が覗いていた。自我を保つ事の重要性を説いていた独房の走り書きを思い出しながら、阿藤はその傷口を見つめる。田中は静かに指輪を包んでいた両手を開き、不器用に再び摘み上げた指輪を左手の薬指に通した。白衣で石に付着した血液を拭い、蛍光灯に翳して口を開く。
「ありがとう」
阿藤は初めて、田中有希という人間と向き合った。掲げていた手を下ろし、阿藤に微笑むその表情が、本来の彼女なのだろう。肺に満ちていた緊張を吐き出しながら、阿藤は小さく首を振る。
細胞に寄生された人間が必ずしもクリーチャー化する訳ではない。あれほど錯乱した状態からでも、こうして回復する事例がある。重要なのは田中のように、痛みを頼ってでも己を見失わない事。それが分かっただけでも十分に大きな収穫だった。しかし、阿藤には本来の目的がある。
「カズ君、やっと……」
田中が指輪を見つめ、小さく名を呼んだ。その指輪の贈り主であり、田中のパートナーでもあるその人物が生きている可能性は低い。田中を連れて倉知達と合流し、脱出を試みる。それが現状の最善手だろう。阿藤が打診を試みようと息を吸ったと同時に、部屋の奥から声が響いた。
「……ユキ、か?」
田中が伏せていた顔を上げ、阿藤を押しのけるようにして声の元へと駆け出す。途中、よろめいてぶつかった青い大型のポリバケツが倒れ、中から黒く染まった布と、何かの塊が詰まったビニール袋、そして斑に黒ずんだ麻縄が転がり出た。阿藤はそれを横目に田中の背を追い、部屋の奥へ向かう。
突き当りの壁に、黒髪の男が寄りかかっていた。胴の右半分が大きく裂けており、くしゃりと纏められた白衣の裾を押し付けている右手を溢れた鮮血が染めている。一見してもう助からない事が分かるその様に、阿藤は言葉を失った。
「ああ、ああ……嫌だ、カズ君、死なないで、お願い、嫌だよ!」
脱いだ白衣を丸め、男の手の上から押し当てて田中が涙声で叫ぶ。男は田中に顔を向け、床へ投げ出していた左腕をゆっくりと上げてその頬に触れた。薬指にはネオンブルーが光っている。
「君に困らせられるのは嫌いじゃないが、嘘は吐きたくない……わかるね?」
田中は大きく口を開き、ぶつけようとしていた言葉を飲み込んだ。血が滲む程下唇を噛み締め、眉根を寄せて頬に触れる手に擦り寄る。男はその温度を愛おしむように繰り返し親指を滑らせ、時折咳き込む。その度に口、鼻から血液が零れ、男の胸元に赤い染みを重ねた。
「……誰か、居るのか?」
男は阿藤を見た。否、阿藤が立つ方向に視線を向けた。懸命に両目を眇めるが、数秒と保たず脱力し、項垂れる。視線だけを動かした田中に招かれるように阿藤は歩を進め、二人の前に立つ。
「独房の……覚えてる? 意識も自我もクリアな状態なの。まだ生理欲求があるみたい」
田中は小声で男に告げ、男はほんの僅かに頷いて見せた。
「あの状況で、そこまでまともに生き残ったとは……驚いたな。何故、ユキと一緒に?」
「脱出の手掛かりを探す中で、クリーチャーから助けてもらいました。調査を続行するためには僕一人で歩き回るよりも、田中さんに同行した方が安全だと思ったので」
「なるほど、君は……」男が激しく咳き込む。田中は右手で腹部に当てがった白衣を押さえたまま男の背に左手を回し、上下に擦った。二、三度嗚咽に似た声を漏らした後、血の塊を吐いて男は言葉を続ける。
「君は、随分落ち着いている……。先程、ユキが錯乱した時も、冷静に……対処していたね。それが唯一、至高細胞の侵食を防ぐ手立てだ。……自分を、見失うな。絶対に手放してはならない。そうすれば、化け物にならずに済むだろう。俺のように……人間のまま、死ねるはずだ」
男が語気を強め、再び阿藤を見た。その瞳には力が宿っていた。確実に死を迎えようとしている人間が、これほど強い瞳をするものか。阿藤は頷き、床に広がる血溜まりに膝が触れないよう注意しながら腰を落とす。
「僕は貴方を救う手立てを持ちません。しかし、お聞きしたい。ここで、何があったんですか?あの化け物――オリジンβとは、何なんです?」
男の口元が歪んだ。笑っている。田中はただ、男の横顔を見つめていた。
「……そうだな。自分の身に起きたことくらい……知っておきたいだろうね。だが、ここにもう……まともな人間はいない。外へ繋がる出口も閉ざされた。助かることはないよ。諦めなさい……」
「それでも。死に方くらい、自分で選びたいもので」
薄らと浮かんでいた嘲笑が男の顔から消え、浅い呼吸だけが続く。己との対話に結論が出たのだろうか、小さく顎を上下に揺らした後、男の声が唇から滑り出た。
「……今、研究棟内ではオリジンβが猛威を奮い、ドールやクリーチャー……至高細胞に侵された、生物達が闊歩している。君も……クリーチャーに遭ったのなら、わかるだろう。失うのが自我か、肉体か……それだけの違いだよ。いずれにせよ……待っているのは、死だ」
小刻みに震え始めた男の体に寄り添い、田中は自らの肩口に男の頭を引き寄せる。男の虚ろな目が空を泳ぎ、天井の一点へと吸い付く。
「オリジンとは……初鳥様の跡継ぎとなり得る至高細胞の源。至高天研究所信徒の希望であり、我ら……研究員の、技術と知恵の結晶だ。しかし、オリジンβは……既に、オリジンではない……。宿主を変えた時点で、……理解していたはずなんだ。信じたくなかった、……十六年振りのオリジンが……、不完全なものだったと、ただ……信じたくなかったんだ……」
その言葉は、果たして阿藤に向けられたものだろうか。
血の気を失った唇が開閉を繰り返す。
「αを失った僕らにとって、βは……唯一の、希望……。初鳥様亡き、今、至高天へ至るには……救いの道は、最早、そこにしか……」
徐々に絞られる声に精一杯耳を澄まし、阿藤は男の呟きを脳裏に書き留める。
「……ユキ」
田中の耳元で、男が何事かを囁く。それを聞いた田中は男の白衣の左ポケットから小さな鍵を取り出し、阿藤へそれを放った。
「倉庫が……西の、一番奥……その、鍵だ。身を、潜めるくらいは……」
言葉尻が濁り、男の口から鮮血が噴き出す。田中はその赤に染まりながら身じろぎ一つせず、ただ男の髪を撫で続けていた。
「……精々、足掻くといい。君として……君の為に」
水音交じりに吐き捨てたその言葉を最後に、男は沈黙した。その体は未だ震えている。命が失われていく様を見つめながら、阿藤は受け止めた鍵を強く、強く握り締めた。
「……出て行って」
田中は男に視線を落としたまま、小さく、しかしはっきりとそう呟く。阿藤がその言葉の意味を解するよりも早く、田中の表情は哀しみと怒りとを握り潰し捏ね合わせたような、引き攣った笑みに歪んだ。
「二人にして下さい。出て行って。
出て行け、早く、早く早く!今すぐ出て行け!」
響く金切声に阿藤は立ち上がり、後ずさる。田中の唇が動き続けているが、内容を聞き取る事は出来ない。
男を抱く田中の左手と、痙攣を繰り返す男の左手に光る青。
阿藤は奥歯を噛み締め、二人に背を向けた。
数十秒、否、数分が経っただろうか。
閉めた扉の向こう。
木製の何かが倒れる音と共に、命の気配が消えた。
Ⅳ
阿藤は右に体を回し、ピクトマークに挟まれた間口へ向かう。
正面に現れた手洗い場の男性トイレ側に歩み寄り、機械的に蛇口を捻る。
田中から受け取った倉庫の鍵は、どちらのものとも知れない――否、二人の血液に塗れていた。勢い良く流れ落ちる水に指先で摘まんだ鍵を差し入れると、纏わりついていた生の証は呆気なく溶け、排水溝へ消えていく。
自我を失わなければクリーチャー化を回避できる。ではドールとは?聞けず終いだ。
自分のした事は結局、何だったのだろう。男は死んだ。恐らく彼女も。
三人は無事だろうか。どの部屋にも磯井は見当たらなかった。
男が倒れていたあの部屋もオリジンβに襲われたのか? あるいはクリーチャーに?
α、それは手書きの研究資料で。磯井来。三人の〝磯井〟。
全てが水泡と帰した。残ったのは地図と、この鍵だけ。
「亡き今」と男は言った。初鳥創、開祖。それに連なるもの、オリジン。
出口は閉ざされている。いずれ死ぬ。この巨大な石棺の中で終わっていく。
救えたと思った。確かに、彼女は笑った。それなのに。
左手に鍵を持ち替え、右の掌を開くと、そこには鍵の跡がくっきりと残っていた。西廊下の奥にある倉庫の鍵、だっただろうか。確かに、地図上でそのような文字を見た記憶がある。
蛇口の根元に鍵を置き、念入りに手を洗う。指の付け根、爪の隙間、手首の際までを二度繰り返し洗い流すと、先程まで残っていた僅かな温度は微塵も感じられなくなった。
顔を上げる。目の前の鏡に、酷く青ざめた痩身の男が映る。
阿藤は右手を振りかぶり、小指側の側面を鏡に叩きつけた。
「思い上がるな……!」
田中を救おうとしていた訳ではない。結果として、近い場所に着地しただけの事。
それを救えなかったとか、何も残らなかっただとか――思い上がりも甚だしい。
阿藤は己の目的の為、田中を利用しようとした。それが紛れもない事実だ。
成果を得るまでの過程で、副産物的に彼女の人生に触れたに過ぎない。そのほんの僅かを食い物に、感傷に浸るなど――
「……善人面かよ。反吐が出る」
小さな鍵を再び握り、踵を返す。掌で鍵を弄びながら開いた地図に視線を落とし、倉庫の位置を確かめた。間口から首を出し、西へ伸びる廊下を覗くが、クリーチャー――ヘッドは見当たらない。既にどこかに移動したのだろう。流し室から出たタイミングで遭遇せずに済んだのは幸運だった。
阿藤は地図をしまい込み、再びその部屋の扉の前へ立つ。ノブに手を掛ける事はしない。重く閉ざされた扉に指先を当て、小さく呟く。
「……俺は、足掻きます。俺の為に」
その言葉を聞く者は、もう居ない。
三人が待つ観察独房の扉の前を通過し、阿藤は西廊下へ足を踏み入れた。破損した蛍光灯が不定期に瞬いており、東廊下よりも薄暗い。
床に転がる壊れた元人間に数秒目を伏せ、廊下の突き当りへ向かう。身を潜めるくらいは、と呟く男の声を思い返しながら、細かい瓦礫を跨ぎ、真っ直ぐに左奥の扉へ向かって進む。流し室の扉よりも一回り程大きな鉄の扉、そっけなく銀に光る鋼のノブに鍵を差し込み、右に回す。静まり返った廊下に響く開錠音に思わず辺りを見回すが、動く物はない。
扉の陰に身を隠すようにしてドアを引き、室内を覗き込む。明かりは灯っていない。廊下の照明が完全に機能していない事もあり、奥の様子までを窺うのは難しそうだ。
背後からの薄明りに照らされる出入り口付近の安全を確かめ、阿藤はきつく目を閉じて扉を潜る。後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと目を開くと先程よりは暗闇を見通すことが出来た。大きな箱状の何かが所狭しと重ねられた室内は、人一人が通るのがやっとであろう通路を残して物に埋め尽くされている。仔細な様子までは窺えないものの、確かに身を潜められそうだ。
壁に触れ、照明のスイッチを指先の感覚で探る。窓から差し込む光に照らされたデスクと、そこに広がっていた黒を思い出す。右の壁に行き当たるものはなく、壁の角を超えた指先が空を切った。左の壁は右よりも狭く、すぐに棚と思しき鉄の冷たさに触れる。
早々に左の可能性を切り捨て、阿藤は壁伝いに室内を右へ向かう。角から十数センチ程度進んだ先で上下に壁を撫でると、阿藤の二の腕よりも少し低い辺りにプラスティックのつるりとした感触があった。スイッチを押すが、切り替え音を放つばかりで一向に光が灯らない。
「壊れてるのか……?」
舌打ちを飲み込み、阿藤は周囲を見渡す。徐々に暗闇に慣れつつあるとはいえ、かなり注視しなければ目の前のそれが木製の箱なのか、段ボール箱なのかさえ判別が困難だ。安全が確認出来なければ、三人を呼び寄せる事は出来ない。阿藤はこめかみに親指を当て、強く押し込む。
「……ん?」
阿藤の足元から四、五歩程度離れた床に、白い布が落ちている。脱ぎ捨てた衣服のように丸まったその布は、内側からぼんやりと光っているように見えた。一歩進んで爪先を伸ばし、表面を掠めるようにつついてみるが反応はない。身を屈め、布の一部を摘まんで持ち上げると、右奥の壁に向かって一直線に光が伸びる。
「懐中電灯……渡りに船だけど、これは……白衣か?」
想像よりも大きな布は、多くの研究員達が纏っていた白衣だ。拾い上げた細身の懐中電灯で照らすと、その一部が黒く染まっている。阿藤は部屋の隅へ向かってその白衣を放り投げ、周囲の音に耳を澄ませた。
沈黙が続く。呼吸音さえうるさく感じる。独房で聞こえていた駆動音も、ここには無い。光の線を壁伝いに滑らせ、道筋を照らす。右手の壁際には天井に届くほど背の高い鉄製の棚が並び、左手には木製のコンテナが積まれている。通路上に行く手を遮る物はない。
「……ふう」
阿藤は小さく息を吐き、手持無沙汰の左手で項を掻いた。懐中電灯を覆っていた白衣は黒く汚れていたが、あの黒い水溜りは見当たらなかった。つまり、この懐中電灯の主は自壊していない。クリーチャー化したか、或いは田中やあの男のように細胞の侵食に抗っている可能性もある。ヘッドが移動する際に立てていた水音、センチピードの足音――記憶を手繰るが、そのいずれも今この室内には存在しない。何より、三人と別れてからそれなりの時間が経過している。オリジンβによる再襲撃の可能性が否定出来ない以上、彼らが身を隠す新たな場所が必要だ。
右足を一歩、通路へ踏み出す。真っ直ぐに伸びる白い光が先を照らした。数メートル向こうに通路よりも広い空間があるようだが、木製の棚の背がその先を隠している。右手の棚には薬品類が並んでいる。しかしそのラベルは英語で記されており、何に用いられるものなのかは推察できない。複数のラベルの下部に記された文字がメーカー名だろうか。
「トラジキッド……休憩室の掲示板でも見た気がする」
至高天研究所とこのトラジキッドなる企業――恐らくは――がどの程度の関係にあるのかはわからない。しかし、薬物の取引があるからにはそれなりの事情を承知していると考えられる。国内のみで完結する話でさえないという現実。阿藤は眉間の皺が深まるのを感じた。
遠目に広く見えていた空間はほんの2、3メートル四方程の広さでしかなく、それを横切った先にはまた狭い通路が続いていた。先程の薬品棚よりも古びた木製の棚には既視感のある大きな瓶が並んでいるが、阿藤はその中身について考えるのを避けた。理科準備室に漂う独特の臭いを思い出しながら、更に奥へと進む。申し訳程度に飾られた棚の上の造花の鉢を横目に行くと、突き当りの壁に扉が設けられているのが見えた。
「二段構えか。なるほど」
廊下から倉庫への扉と同じく、銀のノブが白く光っている。こちらには鍵がついていないようだ。黒い汚れや不審な設置物のない事を確かめ、阿藤はノブを握り、扉を引く。
開け放たれた扉の向こう、室内には棚の他、実験機材であろう大きな電子機器が並んでいる。薄らと埃を被ってはいるものの、いつ動き出しても違和感はない。先程歩いてきた倉庫とは打って変わり、動き回れるスペースも随分広く、空間そのものに清潔感があった。妙な音が聞こえるということもない。棚に収められている物も薬品より冊子等の資料類が多いため、安全に身を隠せそうだ。
「これなら、うん、悪くないな。これで電気がついてくれれば……ああ、ダメか」
右の壁に据え付けられたスイッチに触れるが、やはり明かりは灯らない。倉知か柳のいずれかがスマートフォンを所持していれば、少しの間はライト機能で凌げるだろうか。
扉を閉め、改めて周囲を照らす。電子機器に隔てられた向こう側に巨大な水槽が見える。人一人が余裕を持って収まりそうなその大きさが意味するものを思い、阿藤はぐっと歯を食いしばる。これまでに行われてきた〝研究〟が見事隠匿されているのは、研究所なり関わりのある企業の力なのか、或いは平穏を享受する人々が無意識に目を逸らしている結果なのか――〝神隠し〟という新聞の見出しが、阿藤の脳裏を過る。
「げ」
室内を二分するように横一線に並んだ資料棚を迂回した向こう、部屋の最奥を照らすと、床の一部に黒が広がっていた。最早見慣れてしまったそれから懐中電灯を反らし、その周辺を照らすが血痕は見当たらない。が――
「これは……」
黒溜まりよりも1メートル程手前の床に、ライフル銃が落ちている。それは独房の広間で倉知が調べていたあの銃に似ていた。その造形を仔細に照らす。外装に汚れは見て取れない。阿藤は膝を折って懐中電灯の端を前歯で挟み、両手でライフル銃を拾い上げた。床に落ちる細身の影とは裏腹に、掌にのしかかる重量はあまりに重い。引き金に指を触れないよう細心の注意を払いながら、床に接していた面や銃口を確認するが、特に異常は見られなかった。垂れ下がるベルトが揺れ、その影が床に蠢く。
やがて、阿藤はベルトに左腕を通した。銃器の取り扱いについて心得がある訳ではない。人を殺傷せしめる武器とはいえど、クリーチャーに効果があるとも限らない。しかし、目の前のそれが僅かでも己の生存率を上げる事を阿藤は理解していた。人に見える、細胞と拮抗している状況の被害者が、物理的な手段をもって阿藤に襲い掛かる可能性を知ってしまった以上、その誘惑に抗う事は出来ない。
「倉知さんに扱いを教わらないとな……」
懐中電灯を手に、阿藤は立ち上がる。資料棚よりも奥へは入らないように伝えれば、この場所は移動先として適切だろう。ようやく三人の元へ戻れる。込み上げる安堵を頭を振って振り払い、元来た通路へ光を向けた。
「対クリーチャー、ドール用ライフル……?」
正面の壁に掲示されている紙にはそう見出しがつけられていた。阿藤はその掲示物に歩み寄り、残りの文を照らす。
『この銃の使用の際は使用方法を厳守し、訓練を受けたBランク以上の研究員のみ使用するようにしてください』
左肩に掛けたライフル銃を見下ろす。田中が言っていた『全て持ち出されてしまっていた特殊な道具』が、阿藤の肩にぶら下がっていた。ベルトを握る左手に力が籠る。脱出に向けた一つの力。それが今、ここにある。
奥の部屋へ繋がる扉を静かに閉め、阿藤は狭い通路を歩く。田中と行動する間にこの地下一階で気にかかっていた場所はほとんど見て回る事が出来た。直接脱出に繋がる道がないとわかった以上、東廊下の突き当りにあった階段を下り、地下二階へ踏み入るしかないだろう。阿藤は己の勘を信じる方ではなかったが、あの階段から漂う気配は看過出来ないものだった。有効な武器を手にした今が、状況を進展させる最善のタイミングなのではないか。浮足立つ心を抑えつつ、阿藤は木製コンテナの角を曲がる。
――正面の壁際、瓦礫の傍。
真っ直ぐに伸びた光に、阿藤よりも一回り程小柄な白い塊が跳ねた。
それは大理石の彫像のようであり、しかし、時折震えて生命活動を誇示する。
無音の空間の中、自分に向けられた骨の浮いた〝背中〟。
阿藤は、部屋に入ってすぐ、照明のスイッチを探る己の姿を見た。
暗闇の中、白い背中に向かって進み、途中で引き返すその姿を。
「あんな、近くに、」
己の血の気が引く音を、初めて意識する。
『近づくと襲ってくることもある』クリーチャーが、周囲を探り回る己のすぐ傍で、息を潜めていた事実。
静かに光の線を外す。
その背は身じろぎし、更に小さく縮こまる。
阿藤は大きな物音を立てないよう、ゆっくりと出入り口へ向かって横滑りに歩を進める。
背中が震える。阿藤の足は止まる。
阿藤が動きを止めると、背中の陰から僅かに項が覗く。
そんな攻防を幾度か繰り返し、やがて阿藤の左手がノブに触れた。生暖かく感じるそれを回す数秒が、果てしなく長い。
押し開いた隙間に向かって阿藤は身を滑らせ、白い背中は視界から消えた。懐中電灯をズボンの背面ポケットに差し込み、側面ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込もうとするが、先端が震えてうまく入っていかない。浅い呼吸を止め、ようやく穴へ収まった鍵を回す。錠が落ち、鉄と鉄が触れ合うほんの僅かな音と共に、阿藤の体が崩れ落ちた。
扉の傍らの壁に左手を当て、右手で鍵を引き抜く。肺から一気に二酸化炭素が抜け出し、テンポの速い鼓動が鼓膜を叩き続ける。真っ白になっていた思考に色が付き始め、阿藤の青白い輪郭を汗がなぞった。
「あれが、バック……」
白と灰の骨張ったコントラスト。両膝を折り、祈るように頭を垂れる姿に、改めて阿藤は身震いする。センチピードとも、ヘッドとも異なる〝そこに在るだけの恐怖〟。確かに襲ってくる事はなかったが、一歩間違えば命を落としていたであろう状況。握り締めた左の拳は、冷えているのに湿っていた。
肺の深い部分まで空気を吐き切り、阿藤の眼が床に着いた右手を見る。顎から落ちた滴は床タイルの表面に光り、瞬きの間に広がって濃いグレーの跡に変わった。
顔を上げると、天井の蛍光灯は光を閉ざし、天井と壁の接線上に広い間隔で設置された小さな蛍光灯だけがぽつりぽつりと灯っていた。倉庫へ足を踏み入れる前よりも明らかに照度が落ちている。そこかしこに転がる肉体から広がる液体が赤なのか、黒なのかさえ判然としない。
「――戻らないと」
阿藤の脳裏に、薄闇に身を潜める巨大な影が浮かぶ。部屋の片隅で身を寄せ合う三人に迫る、真っ黒な後ろ姿。
阿藤は右膝を上げた。ノブを捻り、目の前の扉の施錠を確かめて、長い廊下を東に向かって小走りに進む。左肩に下げたライフル銃のベルトを握る手に力を込め、その存在を確かめた。先の襲撃の際は自分が守られた。ならば、次の危機には。
機械室の扉を通り過ぎ、独房への扉が姿を現した。東廊下も照明が落ち、西廊下と同じように薄暗闇に覆われている。
「無事で居てくれよ……」
布越しに花蓮から受け取ったお守りの感触を確かめ、阿藤はノブに触れる。扉の向こうから見て、右、右、左。倉知と交わした約束通りに観音開きの扉のノブを下げるが、反応はない。再度、右、右、左。――やはり、返る声はない。
ノブを見下ろす視界に、ふと、覚える違和感。阿藤は足元を見回す。この扉を出た時と現在で、何かが違う。何か――。
阿藤は記憶を手繰る。床に落ちていた〝サネミツ〟のメモ。壁に貼り付けられていた地図。地図を手に西へ向かう前、足元に何を見た?
「〝いない〟……!」
オリジンβの襲撃を受け、扉の前で絶命していた白衣の男。臓器の一部と思しき肉塊を澱んだ赤の液体に残し、その本体は姿を消していた。阿藤の靴の下から、扉の内側へと向かう足跡が覗いている。破られた扉の中央から室内を窺うが、長く伸びた通路の奥は闇に沈んで様子が分からない。
阿藤は右の扉を押し開き、広がる空間へ声を放つ。
「倉知さん!……柳さん? 花蓮ちゃん!」
柳が落としたフラスコの欠片は、壁際に追いやられていた。ベゴニアの朱がやたらに濃く見える。阿藤はベルトから左腕を抜き、先台を握って体の脇に寄せた。
通路を奥へと向かい、両脇に並ぶ扉を失った間口をひとつずつ、覗き込む。花蓮と見て回った時と何ら変わりのない房内。いずれにも照明は灯っておらず、通路の薄明りに照らされて阿藤の影が前へと伸びる。どの房もくの字に歪んだ扉が床に横たわっているのみで、人の姿は見当たらない。
阿藤が目を覚ました房も念のために中を確かめ、通路の最奥、花蓮が入っていた房へと向かった。
間口を潜る。正面、部屋の中央付近に置かれたベッド。その奥に転がる扉。
左手から音がする。視界の端で、黒髪が縦に揺れている。
斑に赤と黒が滲む白。粘着質の咀嚼音。
首を回す。視界が横へと滑る。
中央に据えられる後ろ姿。その陰から、阿藤の立つ方へ向かって伸びた腕。
「……」
ほんの三、四歩先で、ヒトが、人を、食っている。
口に含み切れなかったのだろうか、或いは噛み心地が悪かったのか。捕食者が手を左へ伸ばし、白い塊を脇へ捨てる。固く、軽いそれが床へ落ち、転がった。
阿藤は握っていたライフル銃を前へ向ける。左手は先台を支え、右手はグリップへ。人差し指を引き金へ掛け、背を丸めてサイトを覗く。
未だ人のカタチをした〝それ〟が、低く声を漏らしながら立ち上がる。阿藤は頭の中心から外れないよう、照準の位置を上げた。
踵を返し、振り返った顔。方々へ散っていた左右の視線が、阿藤を捉える。フレームの歪んだ眼鏡に辛うじて残っているレンズの破片が、ちらりと光った。
眉間に照準を合わせる。弾の残数は確認していない。何発撃てる銃なのかさえわからない。間合いは一メートル程度か。外すことは出来ない。
力を込めようとする人差し指が震えている。
目の前の〝それ〟は、長く声を発し続けていた。不定期に抑揚が付き、鼻歌のようにも聞こえる。
口角が上がり、その口が大きく開いた瞬間――左右の頬が千切れ、下顎が落ちた。
「ッぐ……!」
頭痛が閃く。
力んだ指が躊躇いを無視し、引き金を引く。
阿藤の体が発砲の衝撃を支えきれず、後傾する。その正面で黒が弾け、男の姿が消えた。食われていた人間の頭部に黒が飛び散り、半分ほど失われた頭蓋と脳を覆い隠す。
「……」
サイトから視線を外し、阿藤は自分の足元に黒が散っていない事を確かめた。弾を受けた〝それ〟も後ろへ倒れようとしたようで、液体は全て向こう側へ流れている。
先程まで〝それ〟が居た場所には、千切れた下顎だけが落ちていた。
――溶ける事なく。
視界が、赤く明滅する。
頭痛が脈打つ。
片目をきつく閉じ、再びサイトに視線を載せる。
黒い液体が食われていた死体を染めていく。
侵食は瞬く間に進み、全身を覆い尽くした。
シャワールームで阿藤を追ってきた、溶けかけた人型のように。
死体が纏っていた白衣も、衣服も、全てが一体化していく。
そして――。
その黒い塊が宙に浮いた。四方八方へ毛細血管に似た細い触手を伸ばし、空を探る。
その内一本が残されていた下顎に触れ、傍で漂っていた無数の触手が群がって中央の大きな塊へと運んでいく。
灯った二つの赤。
不定形の物体に浮かぶ、二つの眼球。
「ひッ……!」
阿藤は引き金を引いた。
弾はその黒の一部を引き裂き、飛び散らせたものの、触手の動きは止まらない。
間髪入れず、再度弾を撃ちこむ。
右の眼球付近に着弾し、赤は黒に沈んだ。
続けて引き金を引く。
乾いた音が鳴る。
引き金を引いた数だけ、空砲が爆ぜる。
「マジ、かよ……っ!」
眼球が再生し、明確に阿藤の方向へ触手が動き出す。
構えていた錘を投げ捨て、阿藤は間口へ向かって大きく足を踏み出した。
心臓が早鐘を打つ。
跳ねるように通路を駆け、向かい合う二室の間口を通過し、阿藤は肩越しに背後を振り返る。
浮かぶ黒い塊の中心に人の顔に似た皮膚が浮かび上がり――触手は無数の〝腕〟へと変貌した。
独房の間口から中央の顔が先行し、左右の壁に阻まれていた腕達がコンクリート壁を前方へと押し崩す。絡み合った腕は何かを求めるように蠢き、内幾つかは阿藤を指さしているように見える。
「くそ、早い!」
瓦礫を跨ぎ、剥がれたタイルに躓きかけながら、阿藤は開けたままになっていた扉を抜けて廊下へ出た。体を左へ半回転させ、左目で追ってくる姿を捉える。想像していたよりも遥かに近いその距離に、弾かれるように西へ向かって走り出す。
背後から聞こえる音の正体が何なのか、想像する余力さえない。
左右の脚が普段の何倍も早く交互に動き、阿藤の体を前へ、前へと押し進める。
呼吸も、瞬きも、今は意識の外側だ。
どこへ逃げ込もうというのだろう。
倉庫の鍵は施錠して来てしまった。
咄嗟に飛び込めるような場所では、背後のクリーチャーに追い詰められてしまう。
無我夢中、絶体絶命とは、この状況を指すのだろうか。
そんな現実逃避じみた思考さえ、体内で薄まりゆく酸素が白く染めていく。
白。
白が、揺れた。
西廊下の右手奥。倉庫の正面。
先程阿藤が倉庫へ向かった時は閉ざされていたその扉に、白い影が流れ込んでいった。
薄く開いたままの扉。阿藤は進路を右へ逸らし、その扉へ向かって一目散に駆ける。
半ば倒れ込むように室内に踏み込み、阿藤は両膝に手を着いた。血管という血管が拡張を極め、今にも破裂せんばかりに激しく脈打っている。全身が震え、まともに呼吸が出来ない。頭痛も視界の明滅も、何かの気配を感じているのか、日常から逸脱した疾走の結果なのか判別できない。
背後で、衝突音が響いた。
右手側から振り返る。
流れる視界に白い影。
壁から引き剥がした扉を押し潰す無数の腕と、その中央で嗤う顔。
「こっち」
鼓膜に触れた声が促すまま、阿藤は白い影へと突進した。
顔を俯け、大きく腕を振って――最後の力を振り絞って――駆ける阿藤を躱し、白い影がクリーチャーへ向かって足を踏み出す。
強く床に押し付けた左足を軸に、遠心力に任せて方向転換した阿藤の視界に、その姿が映る。
白い髪。
裾が綻び、赤と黒に汚れた白衣。
右足の側面を引っかいていた左足の踵が床を捉え、両腕が正面へ持ち上げられた。
その白に向かって伸びる、数えきれない程の腕。
先程阿藤が放ったライフル銃と比較すれば、その何分の一にも満たない小さな音と共に、巨大な腕の環は崩れ、弾け、形を失った。
Ⅴ
「いやあ、危機いっぱぁーつ。命拾いしたね、モルモット君」
振り返った白い影が言う。その足元に広がる黒とのコントラストに目が眩み、阿藤は二、三度目を瞬く。一直線にサークルを貫いた弾丸を発した小型の拳銃を腰に下がるホルダーへと収め、指を組んだ両掌を天井へ向けて思い切り伸びをする姿は、まるで一仕事終えたデスクワーカーのそれだ。
「あ、貴方は……」
やっと絞り出した掠れ声で問うと、眼鏡の奥の瞳がぎょろりと阿藤を見た。大きな白目と小さな黒目――否、それは青いのだが――、眉までも白いその外観から受け取る印象は、色のイメージに反して清浄なものではない。
すぐさま逃げ出せるよう両脚に力を込めようとするが、呼吸さえ整わない体を支えるのが精一杯だ。不格好に歪んだ阿藤の立ち姿を後目に倒れていた木製の低い丸椅子を足で立て直すと、その男は腰を下ろして口元を緩める。
「俺? ああ、ここの研究員。生き残った所までは運が良かったけど、取り残されちゃう程度には運が悪かった、ってやつ」
「……」
「名前は嘉納。嘉納 扇(かのう あおぐ)ね。必要なら覚えて使って。でも、俺になろうとしないでね」
「……は、あ……」
阿藤の相槌を聞いているのかいないのか、嘉納は爪先で床を押し、丸椅子を前後に揺らしながら辺りを見回す。つられて阿藤も周囲へ視線を巡らすが、その部屋の内装にはほとんど損壊がなく、阿藤の右手側に並ぶ大きなガラス窓にもひび一つ見当たらなかった。サークルが阿藤を追って室内へ侵入した際に出入り口は破損してしまったようだが、廊下や阿藤が見て回ってきた他の部屋に比べ、明らかに状態が良い。西廊下の最奥という位置取りが故に、オリジンβの襲撃を免れたのだろうか。思えば、対面に位置する倉庫にも大した損壊は見られなかった。この部屋のすぐ隣、女性研究員――中川だったか――が居た実験室は、どこよりも激しく破壊されていたというのに。
「その窓、あんまりよく見ない方がいいよ。肉片とかついてるからさあ」
丸椅子の前足が床を叩く音で、阿藤は我に返る。嘉納は両の口角を上げ、膝の上に肘を乗せた前傾姿勢で指先を合わせた。阿藤を見上げる目は好奇に満ちており、田中とは別種の観察を感じ取って阿藤の両肩が竦む。
「あー、そういえばさ、君? 倉庫の鍵、置いてってくれたの。俺、うっかり無くしちゃってね。必要なものが取りに行けなくて困ってた訳さ」
「え? 倉庫って、正面のですか?」
「そうそう。扉の前に落ちてたからさあ、鍵。ほーんと助かっちゃった★」
けたけたと――不気味に――笑う嘉納の言葉に記憶を手繰り寄せる。バックと遭遇し、慎重に廊下へ出た後。崩れ落ちた体は膝を着き、鍵を引き抜いた右手を床に着いて――。
「あ……」
「ありがとー、ね?」
吊り上がった口角に隙間が開き、黄みがかった犬歯が覗く。歪む目元に浮かぶ瞳は決して笑っておらず、小刻みに動く視線が阿藤の意図を探る意思さえ示して見せる。
「しっかしさあ、よくやるね。ロクな武器も持たずに、クリーチャーやらドールやらがうようよしてるこの中を歩き回ってた訳? 度胸っていうか、バッカじゃねーの? ほんっと、俺が居て良かったねえ!あの腕お化けは厄介だから!」
下がる目尻と上がる下瞼が視線を覆い隠し、嘉納は大きく口を開けて笑った。それは先程までの〝笑っている顔〟とは異なり、心底愉快そうに見える。徐々に落ち着きつつある呼吸を短く吐く息で整え、阿藤はぐっと腹に力を込めて背筋を正した。
「……貴方は〝あれ〟らとは、違うと?」
自分でも驚く程の、警戒心を露わにした低い声。阿藤の問いに嘉納は笑い声を止め、大きく見開いた目を幾度か瞬く。一瞬下がった両頬はみるみる内に再び高く持ち上がり、嘉納は曲芸を目の当たりにした子供のように両手を叩いた。
「はは……ははは!いやあ、すごいね、君!素晴らしい、最高だよ!冷静で、淡々としていて――図太い!その上勇敢ときた。大した精神力だよ!ははは!」
丸椅子から立ち上がり、嘉納はそう述べながら阿藤の正面、十五センチ程度の距離まで歩み寄る。爪先に向けて拍手を続けていた背中が不意に伸び、比較的高身長である阿藤の鼻先で白い前髪が跳ねた。
「いいね。気に入ったよ、モルモット君」
黒縁眼鏡の薄いレンズを隔てて爛々と輝く目と、一段トーンを落とした声。嘉納の青い瞳に映った己の姿を見つけ、阿藤は思わず首を後ろへ引く。その様子が滑稽であったのか、しし、と歯の隙間から息を漏らしながら、嘉納は左足を軸にくるりと一回転して見せた。
「でも、安心したまえ。いやあ残念かな? 俺はまだ『まっさら』な人間だ」
両手を阿藤へ向けて差し出し、どうだとばかりに胸を張る。芝居がかったその姿に、阿藤は眉を顰める。
「信じられない? そうだろうねえ、そういう顔をしてるよ!はは!本当に君は賢明だ。いいさ、よしよし。健気で聡明な、か弱いモルモット君。聞きたい事がたくさんあるんだろう? えらーい嘉納さんが何でも答えてあげよう。さあ、どんどん聞きたまえ!」
天から注ぐ何かを受け止めるように天井へ伸ばした両腕を勢いよく下ろし、嘉納はリズミカルに揺れながら丸椅子の方へ戻っていく。腰を下ろした嘉納が右の踝を左の膝に乗せる様を確かめた後、阿藤は狭い歩幅でそちらへと歩を進めた。
「では……ここは何処ですか? 貴方は、何者なんです?」
「ちぇ、無難な事聞くね。つまんねー。……まあ、いいや。ここは『至高天研究所』の『中部支所』。ちなみに地下一階。俺はここの研究員。とっても研究熱心で優秀なそこそこのお偉いサンだけど、飽くまで一介の研究員だからね。組織の中枢に関わるような情報は持ってないよお」
阿藤が用意していた質問に先回りするようにすらすらと述べられる回答から、嘉納の知能指数が低くはない――その言動とは裏腹に――事を伺い知り、阿藤はふむ、と顎へ手を遣る。
「……単刀直入に聞きます。貴方達は――至高天研究所とは、一体何ですか? ただの宗教団体ではありませんね。この状況はどういう事なのか、ご説明頂けますか」
嘉納の左脇、扉に近い側の二、三歩離れた所で阿藤は立ち止まり、嘉納の様子を伺う。その視線を受けて嘉納もまた、阿藤を見上げた。
互いに身じろぎ一つせぬまま、無言の時間が流れる。五秒、六秒。やがて嘉納は体を前後に揺らし、唇を弓形に歪めた。
「いいねえ……ふふふ、いいよ、その目。ちゃあんと答えてあげようね」
丸椅子に跨ったまま、嘉納がくるりと身を翻す。阿藤に対して体の正面を向け、見下ろす阿藤の顔を見つめて口を開いた。
「我ら『至高天研究所』はご存知の通り、宗教団体だ。表向きはね。実態を見て来たんだろう? 人体実験も何のその、超が付くほどブラックな組織だよ。全ては『至高天に至るために!』ってね」
左手の指先を胸元へ、緩やかに肘を曲げた右手は宙へ向けて。オペラ歌手かミュージカル俳優のような嘉納の振る舞いに冷ややかな視線を送りつつ、阿藤はその言葉を反芻する。
「至高天……」
「そ。俺はそんなオカルトじみたもの、信じちゃいないけどね。カトリック教徒でもあるまいしさあ」
「神の坐す場所、でしたか。ダンテ・アリギエーリの『神曲』ですね」
「おっ、詳しいね? 流石はミスター・モルモット!その通り。至高天に導かれるのは選ばれた者だけ。偉大な標である天の加護を受け、啓示を賜り、迷える人々を……ひいては腐った世の中そのものを救い導く救世主――それに相応しい存在になるため、至高天研究所の信徒達は日々、魂の洗練に努めている訳さ」
嘉納が言葉を区切り、憂いを帯びた表情で俯く。額に右手を当て僅かに逸らした顔、その色を伺おうと阿藤がほんの少し、身を屈めた瞬間。
「イカレてるよねえ!そんな奴らばっかりだよ、この研究所は!マトモな人間なんて居やしない!」
突然立ち上がった嘉納の右手が、阿藤の鼻先を掠めて振り下ろされた。阿藤が反射的に引いた一歩分の距離――否、それ以上の距離をサンダル履きの大きな歩幅が詰める。
「その『天』とやらはどこにあると思う? モルモット君。宇宙開発事業が発展しつつあるこのご時世に、『天』なんて概念をどう押し通していると思う? 聞いて驚け。次元が違うんだってよ。異次元だよ。この宇宙とは別の、連中が言うには『上』に、『天』は確かに存在する。失笑ものだろ? そんなトンデモ理論が罷り通っちゃうのが『至高天研究所』なのさ」
阿藤が言葉を差し挟む間もなくそう言い終えると、嘉納はやれやれと両掌を空へ向け、垂れた頭を振った。――沈黙。やがて床へと長くくぐもった呻きが零れ落ち、「で?」というそっけない音と共に薄ら〝笑っている表情〟を貼り付けた顔が阿藤と向かい合う。
元々の人間性として、感情表現の振り幅が大きい――と、捉えて良いのだろうか。田中がそうであったように、この男も細胞に蝕まれつつある自我を維持するため、不安定になっているのではないか。阿藤の心中を疑念が巡る。嘉納が纏う白衣は黒と赤にまみれてはいるが、インナーが汚れている様子はない。顔や髪、手にも傷や汚れは見当たらない。――まだ、判断材料が足りない。
「そこまで仰るのに、何故貴方はここで研究をしているんですか? ここでなければならない理由がある、と?」
「うん」
間髪入れず、嘉納の首が縦に揺れる。肩越しに丸椅子の位置を確かめながら後ろ歩きに阿藤から距離を置くと、静かに着地した座面の端に両足の踵を引っかけ、その隙間を両手で埋めた。
「まずねえ、至高天に相応しい存在として認められるには『至高細胞』を受け入れなくちゃならない訳」
顔中の筋肉という筋肉を脱力させ、無表情ではないものの、表現に適した言葉を見出せない程薄い表情で嘉納が言う。
「至高細胞……とは、何ですか」
阿藤は深く腕を組み、首を傾げて無知を装った。至高細胞に関して阿藤が持ついくらかの情報は、飽くまでも断片的なものだ。それらを繋ぐための情報を得るよりも、研究の当事者から全ての説明を引き出す方が完成度は高い。ましてや正常である確証のない相手だ。反応が読めない以上、手札は明かさないに限る。
「奇跡の細胞。これまでの万能細胞なんかとは比べ物にならない、世紀の大発見」
嘉納が目を伏せる。穏やかに緩む口元が、悠揚迫らぬテンポで言葉を紡ぐ。
「俺はそれに惹かれたんだあ。神だの天だのって、お伽噺めいたものは知ったこっちゃない。受け入れさえすれば、宿主の意思ひとつで何にでも変化する――そんな驚異的な神秘がこの世に存在する。そんな事実、現実を知って放っておけるもんか」
「近年話題になっている万能細胞との違いは?」
「宿主――それも生体からでないと生成できない。あと、さっき『何にでも変化する』って言ったけどね、あれは比喩じゃない。本当に『何にでも』なる。どういうことか? まあまあ、待ちなよ。今から説明するからさあ」
濁った咳払いを喉で鳴らし、嘉納が右手の人差し指を立てて見せた。阿藤の視線がその先端に吸い寄せられる。研究者のものとは到底思えない程、つるりと滑らかな指紋。それが宙に円を描く。
「至高細胞を取り入れた生体が見せる反応は、大きく分けて三つ。成功して順応する、失敗して死ぬ、順応したものの到底使いものにならない出来損ないになる。さっきモルモット君と追いかけっこしてた腕お化けも出来損ないの一種。わかる? あれも元は被験体……生体だったんだよお。元の生体の形状をあそこまで変質させられるんだから、『何にでもなれる』っていうのも頷けるでしょ」
田中から得た情報を反芻しながら、阿藤は顎に手を当てる。
「先程仰っていた『クリーチャー』『ドール』というのは、それらにつけられた呼称――ということですね」
「そうそう。話が早いね、ミスター。ざっくり言うなら人型してればドール。そうでなければクリーチャー。……ああ、もう一つ教えてあげよっか。あのねえ、至高細胞は正式な投与以外でも取り込めるんだよ。体液を媒介してね。そして出来損ないに襲われた生体はほとんどの場合、死ぬか出来損ないになる。外の状況はそういう事」
「つまり――」
「とってもシンプルなゾンビパニックさあ!」
窓を拭くように大きく開いた掌を外回しに広げ、嘉納が笑う。明け透けなその様子に眉間を押さえ、阿藤の肺から長い溜息が押し出された。
嘉納の言葉を鵜呑みにするのなら、ドールとは人型のまま細胞に自我を侵されたもの――田中はそれに成りかかっていたのだ――順応出来なかったものは元のカタチを失い、ヘッドやバックのようなクリーチャーになる。この地下一階で阿藤が見て来た惨状は全てがオリジンβの仕業という訳ではなく、失敗検体がネズミ算式に増えた結果だろう。
「そんな、胡散臭い物が……」
阿藤の唇が無意識に呟く。言葉尻が溶けるよりも早く、その数倍の音量で響いていた嘉納の笑い声が、
ぴたりと止んだ。
「あ?」
眉を上げ、目を丸くした、一見すると呆気に取られたような表情。一瞬の後に半開きになっていた唇が空間を塞ぎ、嘉納の顔面から色が消える。
その変化を目の当たりにした阿藤の脳が、己の失言をようやく理解したと同時。
――顎の下を、銀に光る〝何か〟が掠めた。
「――ッ!」
揺れる白いカーテンの内側から、青く鋭い眼光が覗く。肥大した瞳孔は阿藤を捉えたまま、瞼は一度たりとて視線を遮ろうとしない。
明確な、殺意。
全身が総毛立つ感覚に、阿藤の呼吸が止まる。視界の端で翻った嘉納の手には、小振りなサバイバルナイフが握られていた。
顎を引き、一歩退く。一瞬前まで阿藤の喉笛があったその空間を、躊躇いなく刃が切り裂いた。
「胡散臭い、だ……? もう一回言ってみろ、このドブネズミ!」
耳を劈く――とは、こういう音を指すのだろうか。突如として大音量を受けた鼓膜に高音の耳鳴りが後を引き、阿藤の足元がよろめいた。
ナイフを振るう右腕と共に、赤と黒と白の裾が繰り返し揺れ、翻り、荒々しく波打つ。激情に任せた舞から繰り出される斬撃を二歩、三歩と後退りながら躱す内、阿藤の背が壁に触れた。
逆手に持ち替えたナイフの切っ先を阿藤の喉仏から数センチ右に突き付け、柄を握り込んだ拳を震わせながら嘉納は叫ぶ。
「馬鹿か? 俺の話を聞き流してたのか? それともその首の上についてるご立派な塊にはスポンジでも詰まってんのか?
これは人類の未来を一変させる、まさに『至高』の細胞なんだぞ! 今日までの常識を覆し! 全ての学問に影響を与え! 不可能をも可能にする『奇跡』そのものだ!
それを? 言うに事欠いて? う さ ん く さ い ?
この匹夫、愚物、頓痴気の木偶の坊が! 至高細胞の有用化のために貴様らネズミ如き、何匹死のうが――いや、その為に死ねるなら光栄だろうが! 違うか? なああ!」
今にも頸動脈を裂きそうな位置で寸止めされた刃先を、生存本能が疎らに見遣る。固唾を飲む――事さえままならず、コンクリート造りの壁にめり込む程、ひたすらに背中と掌とを押し付ける。止まらない指先の震えと、莫大な量の血液を全身に送る強い心拍。五感の全てを、目の前の白い狂気――或いは凶器――に注ぐ。
瞬きも数少なに阿藤の目元を凝視し、肩で息をしていた嘉納は、やがてナイフを持つ右手を引き、短い刃を折り畳んで白衣の内側へ収めた。言葉と共に垂れ流した口の端の唾液を手の甲で拭い、ふう、と短く息を吐く。数センチばかりの距離まで詰めていた阿藤との距離を開け、こめかみを掻きながら臆面もなくにっこりと笑って見せた。
「ははは、ごめん。ごめん、ごめん、怒鳴っちゃって。びっくりした~? したよね~。ごめんね! 俺は君を脅かすつもりなんてないんだよ。勿論、攻撃するつもりもね!」
顔の脇に掲げた両手を左右に揺らしながら、待ち合わせに遅刻した事を詫びるような軽快さで述べられる謝罪の言葉。阿藤を警戒する事もなく背を向け、真っ暗な窓際に歩み寄った嘉納がくるりと振り返る。
「だからさ、君も口の利き方には十分、気をつけることだ。嘉納さんはこの場所で唯一の! 君の味方だよ?」
窓枠に両手を着き肩を窄める姿からは、先程まで阿藤の肌を刺していた殺意は毛ほども感じ取れない。阿藤はようやくコントロールを取り戻した右手を喉元に当て、その安全を確かめる。心臓は未だ早鐘を打ち、今更になって膝が笑い始めた。死を免れた――その実感が、細く、長く、阿藤の肺から流れ出る。
「話を続けようか」
その場を動けずにいる阿藤の姿を見つめていた嘉納が、退屈を持て余したとばかりに再び口を開いた。膝を伸ばした右足を上げ、サンダルの踵部分がぶらぶらと揺れる軌道を目で追いながら言葉を続ける。
「そんな素晴らしい至高細胞なんだけど、唯一、そして致命的な欠点があるんだよね。俺達はそれを解決する為に日夜研究に励み、世の為人の為に身を削ってるのさ」
「欠点、とは? それがあるが故に、表立って世に出す事が出来ない、と?」
「そうそう、そう来なくっちゃ。いいよおミスター、その調子!」
極めて明朗にそう言い放った嘉納が窓の外へ視線を遣る。阿藤が立つ位置からは塗り潰された黒にしか見えないその先に何を見ているのか、薄ら笑う横顔を視界の中心に捉えたまま、阿藤は一歩ずつ、距離を詰める。
「世に放つ以前にね、その欠点がある限り、この素晴らしい細胞は救いの光足り得ないんだよ。悪戯に命を奪っていくバイオ兵器にしかならない」
「……それは、どういう……」
「うん、だからさ、さっきも言ったでしょ。クリーチャーになったりドールになったり……至高細胞を投与しても、それを受け入れられる個体は非常に数が少ない。人間だけじゃないよ、植物も動物も、全ての種において。
……残念だよね。種としての飛躍が、進化が、その先にはあるっていうのにさ……」
一メートルほどの間をもって足を止め、阿藤は苦笑する嘉納と向き合う。発言の最後部のみを拾えば、生命の発展に寄与すべく尽力する、熱心な研究者にも見えよう。しかしその為にいくつもの――否、何十もの命を踏み台にしている事実を、その結果を、阿藤は見て来た。信仰の名の元に、或いは己が望むものの為に、本来関わりのない命を『用いる』事。阿藤の中の正義は、決してそれを良しとしない。
腕を組み、顎を引いて先を待つが、嘉納は一向に口を開こうとしなかった。憂いを帯びた目を半分伏せ、かつて壁であったコンクリート片を爪先で捏ね回すばかりだ。その手が間違いなく窓枠に添えられている事を確かめた上で、阿藤は声を放つ。
「貴方は先程、味方だと仰いましたが――俺の目的が何なのか、分かった上での事ですか」
「勿論」
嘉納の青い瞳がぐるりと上向き、阿藤を見た。足元で弄んでいた欠片を部屋の奥へと向かって蹴り飛ばし、緩く『く』の字に曲げていた体を伸ばす。腰に手を当て、体の前面に向かって押しながら天井を仰ぎ、しかし声は阿藤の方へ向く。
「出たいんでしょ、ここから。お仲間サン達も一緒にさ。わーかってるよお、そんな事!俺の頭脳を舐めてもらっちゃ困るね~!」
白衣のポケットに両手を入れ、布地を前へ押し出すようにして裾を揺らす。顎を上げ、片目を眇める姿は不遜そのものだ。
「……俺は貴方を信じていません。それでも構わない、と?」
「勝手にしなよ。ミスターがどう捉えようが、この状況下で頼れるのは俺だけって事実は変わらない」
反論の余地さえ残さずそう言い切り、嘉納は左足で二度跳ね、阿藤との距離を詰める。
「そろそろ俺からも質問していい? ミスター、お名前なんてーの?」
ポケットの両手はそのままに上半身を左に傾け、嘉納は身を固くする阿藤の顔を覗き込む。蛍光灯の光を反射する分厚いレンズが歪める輪郭が揺らいで見え、阿藤は焦点を逸らした。
「麻生……麻生浩二です」
「麻生クン。ん~? ……アソーちゃん! おっけー。よろしくネ、アソーちゃん★」
上半身を立て直した嘉納の右手が阿藤の左肩を叩く。掌が触れた瞬間、恐怖の残滓が背筋を掠め、阿藤の体が僅かに跳ねた。己の意思に反して揺れた右手を引き、嘉納は何かを確かめるように掌を見る。
「あっはは! そんなにビビる事ないでしょ~、傷付くなあ! 大丈夫だよ、貴重な成功検体をうっかりやっちゃう程、嘉納さんは馬鹿じゃないって!」
再び伸びた手が数回二の腕を叩き、上機嫌この上ない嘉納の声が弾む。唇は動き続け、何らかの音を発しているようだが、阿藤の脳には音としてしか届かない。
――成功検体?
「……は?」
「は?」
持ち上がったままの両の口角。一般的なそれよりも面積の広い白目に浮かぶ青が、阿藤の表情を撫ぜる。今、自分の表情筋がどんな動きをしているのか、把握出来ない。
「成功検体?」
唇から零れる音は、嘉納の言葉をなぞっているに過ぎない。理解を拒む脳に、画としてその四文字が浮いている。
「うん。至高細胞を受け入れたから、アソーちゃんは今、生きてるんだってば。話、聞いてた?」
さも当然と言わんばかりに傾げられた首に、阿藤の胸元に何かがせり上がる。神経が昂り熱を帯びるのに反して、手足の血の気が引き、冷えが襲う。高速で回転する思考は結論を見出せず奔走し、開いた口は何度も声にならない息を吐く。
「本当にね、すごい事なんだよ。アソーちゃん。君とお仲間さん達はね、ちゃあんと至高細胞を受け入れたんだ。同時期に複数の成功検体が現れた、それも人間だ! これには流石の俺もカミサマの思し召しかな、なーんて思っちゃったくらいさ!」
「俺……達は、既に実験を受けた後だって言うんですか……!」
「うん。そう言ってるだろ。何、急に頭悪くなったの? 思考力、その辺に落っことしちゃった?」
嘉納が大きく身を捻り、足元を見回す。眼前で揺れる白い毛束を引っ掴みかけた右手の手首を左手で押さえ、阿藤は奥歯を噛み締めた。
可能性を無視していた訳ではない。磯井の超人的な怪力や、花蓮の危機察知能力。それらが『実験』と何らかの関わりを持つ〝かもしれない〟事は、思考の隅に置いていた。しかしいざ、それを事実として突き付けられると――。
「動揺してるね、アソーちゃん」
「あっ……当たり前でしょう! そんな、事が……」
口元を押さえ、吐くべき言葉を探る阿藤に嘉納は溜息を吐き、やれやれとばかりに首を振る。そして肘を曲げ、両掌を上へ向けて阿藤の方へ腕を開いた。
「あのね、過ぎた事よりこの状況に動揺しなよ。分かってる? 俺達、閉じ込められてるんだよ?」
「分かってますよ! だからこうして、脱出経路を探して――」
「いいや、分かってないね。
俺達は見捨てられたんだ。この建物はもう、閉鎖されてる」
「閉……」
次々と放られる情報の小石が、思考の歯車に噛み込まれていく。今にも外れそうな軋みをあげながら、歯車はゆっくりと回り続ける。
「この階に『脱出経路』なんてものは存在しない。上階へ続くシャッターは見た? あれが唯一の道さ。開けられれば話は早いんだけどね。どうやら能力発現には至ってなさそうだし、望み薄なんだよな~」
「能、力」
「何があったのか、今は予備電力が働いてるみたいだけど、電力が復旧したら数分と経たずに緊急装置が作動するよ。そうなったら終わり。この実験棟ごと処分。この世とバイバイ。俺も、君も、君のお仲間さん達もね」
横っ面を叩かれたように、阿藤の頭を覆っていた靄が吹き飛んだ。
サークルと遭遇したあの時、あの広間に三人の姿はなかった。サークルに『変容』した研究員から逃れる為、何処かへ移動したのか、或いはいずれかの房に隠れ潜んでいたのか。
「探さないと……!」
扉へと半身を向けた阿藤の腕を、嘉納の手が掴む。さして強くない力ではあるものの、その感触に振り返った阿藤に向け、嘉納はにんまりと笑った。
「まあまあ、そう慌てないでよ。俺はね、『この階に』脱出経路はない、って言ったんだよ? 続きを聞かなくていいの?」
「っ……何か、手段があるって言うんですか?」
掌の上で転がされている感覚。阿藤は勢いよく脇を閉めて腕を上げ、掴む手を振り払う。
解かれた手に「ありゃ」と小さな呟きを漏らし一瞬唇を尖らせた後、嘉納はその手の人差し指を立て、次いで床を指した。
「地下二階――この下の階には、緊急用通路があった筈だ。使えるかどうかは分からないけど、縋る藁くらいにはなるんじゃない? まあ最も、更にヤバ~い現場に踏み込む事になるんだけどね★」
さあどうする、と、嘉納が首を傾げて見せる。
阿藤がどれくらいの時間このフロアを歩いたのか、正確な所は分りかねるが、それなりに仔細に見て回った自負はある。このフロアに脱出経路が無い事は間違いないだろう。また、どのエリアにも三人の姿はなく、上階へのシャッターは閉じられていた。となれば、移動先が下階である可能性は高い。
改めて、目の前の男を見る。
外傷はない。衣服の汚れから皮膚、或いは粘膜から寄生されている線を疑ったが、錯乱している様子は見られない。阿藤の目の動き、末端の動作といった内面が露呈する部分をよく観察している点から、言動に反して冷静に物事を見ている事が窺える。単純に『極端に衝動に任せた行動を取りがちな』人間なのだろう。
建屋の構造、機能について、ある程度の知識を有しているのも事実だ。阿藤がサークルを連れてくるまで、被害を受けなかったこの部屋に居た事実がその証左と言える。阿藤にとって未知――構造にせよ、被害状況にせよ――の領域である地下二階。踏みこまざるを得ない現状において、その情報源となり得る人間。
「俺に味方する事で、貴方に何のメリットが?」
「生き残りたいのは俺も一緒。情報処理端末は多い方が良い。二本の腕じゃ越えられない障害でも、腕が四本なら何とかなるかもしれない。検体の経過――能力発現に至る可能性もゼロじゃないからねえ、アソーちゃんを観察できる事自体が、俺にはメリットだよ。どう? これで安心した?」
語らなかった心中を見透かしたかのように投げかけられた問いに、阿藤は溜息を漏らした。
この男は――一般的解釈としてのそれではなく――正常だ。
「分かりました。下へ、一緒に潜ってもらえますか。嘉納さん」
目を逸らしたまま、半ば吐き捨てるように述べた阿藤の言葉に、嘉納は音を立てて掌を合わせ、すぐさま右手を差し出す。
「勿論答えはイエスだよ! 力を合わせてやっていこうじゃないか、アソーちゃん★」
「よろしくお願いします……」
渋々候として握手に応じた阿藤の左手を、嘉納の手が強く握る。屈託のない笑みを形作っていた目元が緩み、瞼の隙間から青が覗いた。
「俺は君の味方だからね」
道化の仮面のような、薄気味悪い表情。
――この選択は、果たして本当に正しかったのだろうか?
阿藤は己の眉間に皺が刻まれ、口元が嫌悪に歪むのを自覚した。
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