第二章 ―縁の結び目―
たっぷりと風を含んだミディアム・ボブの黒髪を揺らし、若い女性が小さく咳込む。すみません、と小声でつぶやき、彼女は胸元に握った右手を左手で包み込んで軽く会釈をした。袖口から覗く白く細い手首がより頼りなげな印象を与える。阿藤よりも頭一つ分程度低い目線が正面を向き、生成りの布地を思わせる柔らかな声を発した。
「柳仁奈(やなぎにな)です。一応小学校教諭、です。とはいってもこの春からなので……まだ勤務経験がないんですけど。私、恋人がこの教団に入っていて……連絡が取れなくなったので、色々調べて、ここまで来ました。敷地に入った所で気を失ってしまったみたいで、詳しいことは何もわからないです」
柳の目配せに首を縦に揺らし、体格の良い中年男性が一歩前へ出る。些か寂しさの漂う頭頂が目を引くが、黒縁の丸眼鏡の奥に光る瞳からは厳格な気性が窺えた。黒一色の背広の胸元へ手を差し入れ、薄黄金のエンブレムで飾られた手帳を取り出すその仕草は、何百、何千と繰り返してきたのであろう経験と職務の熟練を匂わせている。
「倉知輝美(くらちてるみ)。警察官だ。ある政治家周辺のカネの流れについて捜査を行っている最中だった。軽く下見をするつもりで近隣を歩いていたんだが……実に迂闊だった」
手帳を再び胸元に収め、倉知は柳の傍らに立つ少女に続くよう掌で促す。まだ幼い桜色の爪の輪郭を指の腹で撫でていた少女は弾かれたように顔を上げた。高い位置で結った髪と大きな瞳、ノースリーブの袖口から突き出した腕の細さは少女を幼く見せていたが、深々と一礼した後口を開く様子は外見よりも随分と大人びている。
「熊崎花蓮(くまざきかれん)、十歳です。小学四年生です。知らない人達に車に乗せられて、お水を飲めって言われて、飲んだら眠くなって、気付いたらここにいました。よろしくお願いします」
言い終えた花蓮が緊張を解くように両肩を下げる様を見届け、ボリュームのあるファーの間に隠れていた青年が両手を叩き合わせる。
「ハイ、改めて。磯井麗慈(いそいれいじ)。麗しく慈しみのある麗慈です。所謂フリーターっすわ。ここに至るまでの流れは皆さんと大体同じ」
「……で、オニイサンは?」
Ⅰ
阿藤が目を覚ますと、灰色の天井が視界に広がっていた。クロスの貼られていない、コンクリートを打ったままの冷淡な色味が寒気を誘う。ご丁寧に首元まで掛けられた薄い掛け布団からは古い家屋のような埃っぽい臭いが漂っている。見覚えのない景色。左腕を固いマットレスに押し付けて身を起こすと、後頭部に鈍痛が走る。
「いっ……」
掌を痛みの根源と思しき箇所に当てるが、頭皮の一部が腫れ上がってはいるものの出血はないようだった。原因を追究すべく記憶の糸を手繰ると、意識を失う直前の風景が脳裏に浮かぶ。
阿藤を囲むように立ちはだかる、真っ白な人間の壁。正面に立つ一人が阿藤の方へ駆け出した瞬間、視界に星が散った。声を上げる間もなく体が前方へ倒れ、胸、腹と左の頬をアスファルトに強かに打ち付ける。
その痛みを最後に、記憶は途切れていた。背後から殴られたのだとすれば、あの白い人間達はこの組織の関係者なのだろう。敷地内への侵入者を察知して捕縛を試みたにしては、多勢に無勢が過ぎたようにも思えるが。
ベッドの縁から両足を放り出し、背中側へ両掌をついて周辺の情報を探る。正面には鉄の扉。覗き窓はおろかドアノブさえ存在せず、徹底的に内側からのアクセスを拒む造りになっている。左手の壁面には大きな十字架と文字の刻まれた石板。角地に手洗い場、その手前側に無造作に据え付けられた洋式便器がある。阿藤が腰かけているベッドを挟んで右手には飾り気のない事務机と、古びた木製の丸椅子。採光用の間口はどこにも見当たらない。床に敷き詰められたタイルは天井同様所々が朽ち、建物そのものの年季と手入れが放棄されている状況を物語っていた。
明らかに、一般的な居室ではない。阿藤の頭に真っ先に浮かんだイメージは刑務所の独居房だったが、独居房ですら窓が設けられていることを思えば、更に外界と隔絶されている空間と言える。まともな組織でない事は予想していたが、阿藤の想像を大幅に上回る異常な環境がそこにあった。
隔絶された世界には人はおろか生物の気配さえ感じ取れない。脱出の方法を模索すべく立ち上がって初めて、阿藤は自分が靴を履いたままだった事に気付いた。山歩きには到底似つかわしくない革靴の踵を鳴らし、事務机の前に立つ。
薄く埃が積もった天板は無数の傷に覆われている。その一部を右の掌で払うと、マジックペンで書かれた文章が現れた。
『日に日に自分が誰なのかわからなくなっていく。
何かに意識を蝕まれていく。今となっては家族の顔も思い出せない。
大丈夫だ。俺は選ばれたのだ。認められたのだ。
これは煉獄。この穢れを浄化し身を焼いてこそ、天へと至ることができるのだ。
大事なのは意識を保つこと。自我を保つこと。自分が何者であるか把握すること』
「以前ここにいた人のもの、か?」
色褪せたインクを指先でなぞる。蝕む。選ばれた。浄化。自我。並ぶ語句から発せられる空気は不穏以外の何物でもない。至高天研究所の調査資料に書き連ねられていたデータの内、何件か挙げられていた関係者の失踪情報を想起し、阿藤は僅かに身を震わせる。自分もそこに名を連ねることになるのだろうか。情報提供のために書類を作成する同僚はどんな顔をするのだろう。出来上がった書類をチェックしながら肩を落とす音羽の背中を脳裏に描き、青ざめた阿藤の口角が静かに持ち上がる。
「そんなことになってたまるかよ……。親父さんにも塁にも、返さなきゃならない恩が山積みなんだ」
拳を握り締めてそう口に出すと、胃の辺りに小さな熱を感じた。このまま流される訳にはいかない。鼻から吸い込んだ空気を細く長く口から吐く。
室内に設えられた物を脱出に繋げるのは困難だろう。せめて扉に覗き窓があったなら椅子を足場に外の様子を伺うことくらいは叶ったかもしれないが。
「そういえば、外はどうなってるんだ? 何かの建物の中なんだろうけど、何の音もしない……。そもそもこんな構造じゃ外からも中が窺えないじゃないか。牢獄って訳じゃないのか?」
広さ十畳程度の部屋を斜めに突っ切って扉を目指す。壁と壁との間に挟まれた鉄の板を第二関節で小突くとコツコツと高い音が鳴った。鉄板そのものにそれなりの厚みがあるようだ。かえしがあるせいで外の様子は窺えないが、間口と鉄板の間にはコンマ数ミリ程度の隙間が見て取れる。機密性はさして高くない。
扉に頬を寄せ、耳を当てる。壁、或いは外から伝わってくるものか、低く湧き上がるような駆動音が辛うじて聞こえる程度で、声や生活音の類は感じ取れない。何かヒントを得ようと阿藤は耳を澄ます。人の手によってここへ連れて来られた以上、阿藤の動向を管理している何者かが付近に居る筈だ。瞼を下ろし、視覚を捨てて、更に聴覚に集中する。胴をも扉に擦り付け、両掌から肘までを密着させた瞬間、阿藤の体が正面からの振動に揺れた。
「うわ、」
漏れた声を掌で声帯へ押し戻し、阿藤は一歩後ずさる。何かが扉にぶつかった、
否――叩いた?
目を覚ました阿藤の挙動を見かねた何者かがやってきたのか。相手の体格も装備も知りようがない現状では非常に高リスクではあるが、扉が開いた瞬間を狙えばあるいは。昨今稀に見る強さで脈打つ心臓を宥めすかすように左胸を叩き、阿藤は再び扉に耳を寄せる。
「おーい。起きてんすか」
若い男の声が問いかける。続いて扉の下部から打音が鳴った。蹴っているのだろうか。
阿藤は親指と人差し指で顎に触れる。どうやらこの若い男は阿藤の状況を把握していないようだ。先程阿藤が扉を小突いた音を聞きつけてやってきたのかもしれない。掛けられた言葉から敵意や害意の類は感じられなかったが、開いた扉の向こうに凶器が待ち構えていないとも限らない。まして、相手の背後に複数人が息を殺していたとしても、今の阿藤には察しようもないのだ。
「……あれ、聞こえてます? おーい」
再び男が呼びかける。阿藤は顎を引き、半歩扉へ身を寄せた。
「聞こえてます」
軽いノックと共に、出来る限り抑揚を抑えた声で言葉を返す。
「ああ、やっぱ起きてたんすね。とりあえず、扉から離れてもらえます?」
「待ってください。あなたは? ここはどこです?」
「質問には後で答えるんで。怪我したくないでしょ」
「怪我って……何をするつもりですか? 離れろってどういう」
「いいから。この扉、吹っ飛ばしますんで」
「は?」
「いきますよ」
先程より遠くから聞こえる声と靴底が床を踏みにじる音に、阿藤は十センチ程飛びのいて体を左に捻る。直後、巨大なエネルギーが衝突する激しい音と共に鉄板の中程が大きく膨らみ、壁から剥がれて宙を舞った。
大きな黒い鉄の塊がスローモーションで視界を横切っていくというあまりにも現実感のない光景に、阿藤は言葉を失う。
シンクにボウルを落としたような音と共に鉄板が接地すると、ぽっかりと開いた間口から小柄な青年が顔を出した。
「よかった、無事っすね。いや、この状況で無事っつーのもおかしいんすけど」
床の扉を一瞥した青年の視線が阿藤を捉える。青年の顔立ちを隅々まで観察し終えてもなお、やはり言葉は出てこなかった。
Ⅱ
磯井と名乗った青年に導かれるまま阿藤が向かった先には、寄り集まる三人の男女と気を失った一人の男が居た。磯井が「シメた」と宣う白衣の中年男性は項垂れたまま動き出す気配がない。浅く胸部が上下している様子を見るに気を失っているだけなのだろうが、遠目には生存を疑う程ぐったりと脱力した人間が転がっている状況はとても気が落ち着くものではなかった。
「……で、オニイサンは?」
めいめいに簡単な自己紹介と経緯を述べる三人を順繰りに見つめていた小さな黒目が阿藤を捉え、引きずられるようにして不安や疑念を帯びた三つの視線が向けられる。
阿藤は思考する。
小学生である花蓮はさておき、柳と倉知、磯井の情報についてはあくまでも自己申告でしかない。間者が紛れていないとは言い切れない現状で、探偵という職業を素直に明かしても良いものか?
あの強固な扉を蹴破った――のであろう――磯井は特に、何らかの事情を抱えている可能性が高い。倉知にしても、警察官という身分は一時の信頼を得る為に十分な力足り得る。被害者として調査依頼を出してきた女性が実は加害者だったという経験を踏まえれば、柳の心細そうな仕草もわざとらしく思えはしまいか。疑い出せば果てがない。
しかし、日常から逸脱したこの状況では、如何に正確な情報を得ようとも阿藤自身の判断すら正常と思わない方が良いだろう。理由は不明だが、何者かに捕らえられていた事実を鑑みれば、脱出と事態の解決に向け、彼らとの協力は不可欠となる。そうなった場合、虚偽を述べて疑いの目を向けられるのは得策でない。痛くもない腹を探られるのは御免だ――阿藤は込み上げた唾液を喉の奥へ押し込み、息を吸う。
「ええ、と。僕は――」
『あなたは、 ***』
重なる声と共に、痛みがフラッシュバックする。
声帯から放たれようと額の前に居並んでいた四つの漢字の輪郭が解け、グレーの靄へと姿を変えた。
名乗らなければならない。
それなのに、〝名前〟が見つからない。
「え、と」
笑いが込み上げる。敵意がないことを伝える為の原始的手段。引きつったその表情を、複数の眼が見ている。
早く答えなければ。不必要な間は疑いを呼ぶ。早く、早く、早く。
「『私』は」
「……大丈夫っすか、麻生さん」
低い声が思考を遮る。呼ばれた〝名前〟に首を傾げると、磯井は項を引っかいた後、ジャンパーのポケットから取り出した長方形の紙を人差し指と中指で挟んで差し出した。
「そこのロッカーに僕らの荷物が入ってましてね。それぞれ回収した後余った物があったんで、失礼を承知で中身を見させてもらいました。その中にこんなものがあったんですけど、オニイサンのじゃないんです?」
受け取った名刺はあの晩、ポケットに収めたままにしていたものだった。抑揚のない角張った文字がするりと脳に流れ込む。〝麻生 浩二〟。先生と呼ばれていた自分。
「こんな状況だ、混乱するのも無理からぬ話だろう。少し落ち着きたまえ、麻生君」
磯井の隣で腕を組み、掬い上げるように鋭い視線を向けていた倉知が目元を緩める。それを切欠に脳の駆動部が平静を取り戻し、再び動作を始めた。
「すみません、有難うございます……麻生浩二(あそうこうじ)です。どうも、後ろから殴られて気を失ったようで……はは」
「えっ、大丈夫ですか? もしかして、記憶に障害が出ているとか……」
柳が口元を抑え、狼狽を露わに一歩踏み出す。阿藤はそれを制するように右掌を向けて笑みを零した。
「大丈夫です。痛みも和らいできましたし、多分――動揺しているだけだと思います」
「それなら、いいんですけど……」
「麻生君」
柳が漏らす安堵の吐息を遮って、倉知のどっしりとした鋼のような声が阿藤を呼ぶ。
「はい」
「殴られた、と言ったね。君が目を覚ますまで、我々は状況の擦り合わせを行っていた。先程述べたように、各々の事情はあれど、至高天研究所中部支所の敷地付近で意識を失ったという点で共通している」
「そっすね。まあ、拉致られたってのが妥当な見解だと思います。熊崎さん?彼女だけはちょいと話が違うみたいっすけど、一番分かり易く拉致られてますね」
磯井の言葉を受けて阿藤が花蓮に視線を向けると、しきりに周囲を見回していた大きな瞳に阿藤の姿が映った。一瞬探るように阿藤の表情を伺った後、再びすいと目を滑らせる。
「ここ……何処なんでしょう。研究所の中なんでしょうか……」柳が小声で呟く。
「それも疑問だな。どの程度意識を失っていたのかはっきりしない以上、別の何処かに移送されている可能性も否定出来ん。今が昼なのか、夜なのか……それすら判然としない」
柳は己の身を抱き締めるように両手で二の腕を掴み、倉知は再び腕を組んで短い息を吐いた。空間を支配する重苦しい沈黙を打開すべく、阿藤は磯井に疑問をぶつける。
「磯井さん。ここに居る全員があの独房に閉じ込められていたんですよね?」
「ん?そっすよ。オニイサンがいたのが右奥の部屋。他に四つ部屋があるでしょ」
手持無沙汰と言わんばかりに唇を触っていた手を離し、先程阿藤が歩いてきた独房前の廊下を指しながら磯井が言う。廊下の最奥、正面に間口が一つ、左右にはそれぞれ二つずつの間口が見て取れた。そのどれもが扉を失っている。
「全部、磯井さんが開けたんですか?」
「ええ。僕が一番早く起きたみたいでしたしね。いけそうだなと思ったんで、ちょちょいと。お宅みたいな如何にもインドアなインテリさんと違って、ヤンキー崩れは力しか出すもんないっすから」
片の口角を釣り上げ、嘲るように磯井が笑う。一部始終を目撃したにも関わらず、未だに人間の脚があの鉄の扉を蹴破る様が想像出来ない。
「私が閉じ込められていたのが、彼がいた房の正面だったそうだ。まさか本当に開けられるとは思っていなかったが……少し話し込んでいる間にそこの男がやってきて、それも彼が黙らせてしまった」
「まあまあ、殺しちゃいないっすから。こんな状況っすよ。ぶっちゃけ殺したとしても正当防衛でしょ?」
「過剰防衛という言葉がある」
「コイツが駆け込んで来た時のあの表情、刑事さんも見たでしょ。やらなきゃやられてましたよ」
「しかしな、君……」
倉知の表情が険しく歪む。磯井は両掌を上へ向け、肩の辺りまで持ち上げてわざとらしく首を竦めて見せた。茶化す様な仕草に阿藤は苦笑いを零し、あてどなく周囲を見回す。
相変わらず人の気配はない。気絶している男が駆けつけてきたということは、やはり独房は監視されているのだろう。だとすれば、真っ先に突入した人員が危害を加えられているにも関わらず、後続が現れないのは不自然だ。泳がせて様子を伺っているのだろうか。いつ磯井と倉知の向こう側に設えられた大きな観音開きの扉が開き、あの真っ白な人間達が踏み込んできてもおかしくはない。柳もしきりに扉を気にしている。
「さて」
磯井が扉へと歩み寄り、自然に全員の視線が集まる。いつの間にか花蓮と会話していた倉知も口を噤み、続く言葉を待っていた。磯井は拳を握り、小指側の側面で扉を強く叩いて阿藤達を振り返る。
「独房からは脱出できたものの、拉致されてここに居る、以外の情報は何一つない。とっとと状況掴んでシャバに出たいところっすけど、扉ぶっ飛ばしたり、ギャアギャア会話してるってのに、関係者は誰一人来ないどころか外の音も碌に聞こえてこない。この状況、不自然すぎると思いません?」
「私も、そう思ってました。この人だって、その……気を失ったままなのにって」
磯井の問いに言葉を選びながら柳が答える。磯井は小さく頷いて見せ、再び扉に向き直った。
「外がどうなってんのか、僕が偵察してきます。直ぐに戻りますんで、皆さんはここで待っててもらえますか」
「……この扉の向こうで、何かが起こっている可能性もあるんだぞ」
一層目元を厳しくした倉知が言うが、磯井は振り返らない。軽く握っていた阿藤の指先に力が籠る。
「そっすね。僕もそう思います。でも、やるしかないでしょ」
「あの、それなら皆で一緒に行動した方が……」
磯井の顔が足元に向き、深く深く、長い溜息が吐き出される。スニーカーの爪先が二度、床を叩く音。
上着のポケットに両手を収め、肩越しに半面だけ振り返った磯井は笑っていた。片眼を眇め、眉間に皺を寄せたニヒルな笑み。柳は続く言葉を飲み込み、半歩身を引く。
「大丈夫っすよ、さっきも言いましたけど、僕の取り柄ったら喧嘩だけなんで。それに――無駄な死人、出したくないんでね」
「そんじゃまた、生きて会いましょう」
Ⅲ
「阿藤春樹。あとう、はるき」
壁に沿って立ち並ぶロッカーの一つを開け、自分の荷物を上着のポケットに収めながら阿藤は呟く。今は思い出せる。ここに至るまでの記憶にもほとんど問題はない。意識が飛んでいた間を除けば――だが。
停電があったあの夜から数日が経った日曜の早朝。音羽からの電話で信濃の失踪を知らされた阿藤は、最低限の荷物をポケットに詰め込んで自宅を飛び出した。車を飛ばしている最中、何を考えていたかは既に思い出せない。ただ夢中でアクセルを踏み、ハンドルを切った。音羽の依頼で信濃に取り付けられていた発信機が最後に反応を残したという場所――至高天研究所を目指して。
調査資料に記載されていた住所は、隣県であるG県山間部に位置する街のものだった。香芝井市から高速道路を走れば一時間半程で辿り着くその街で、信濃は消息を絶ったという。
電話口の音羽は酷く後悔しているようだった。音羽探偵事務所が至高天研究所に関する情報を集めている事実が知れれば、所員に手が及ぶ可能性は十二分にあったのだ。黒い噂の絶えない組織に関わる事を甘く見ていた、もっと早い時期に警察を頼るようクライアントに勧めるべきだった、と、懺悔するように呟く親友の声に、阿藤は気道を握り潰されるような胸の詰まりを覚えた。しかし、五分にも満たない通話の中で再三発せられた「手を引け」という旨の言葉を全て振り切って、今阿藤は此処に居る。
「塁に連絡……、圏外か。山の中だからって訳じゃないんだろうな……。大事になってないと良いんだけど。ああ、それよりどうするんだよ、偽名で通しちゃったじゃねーか……」
額に指を当て、ふう、と一つ息を吐くと、散らかっていた思考が少しばかりクリアになった。阿藤は顔を上げ、各々周囲の調査に励む三人を見つめる。至高天研究所が何を目的に阿藤達を選んだかは不明だ。磯井が戻るまで、彼等の事情を仔細に訊ねておけば何かの足しになるかもしれない。手短な自己紹介ではあったが、倉知が調査していた事件、柳の恋人――気にかかる情報が幾つかある。まずは何を引き出すべきか――思考に没入する阿藤の上着の裾を、何かが引く。
「ねえ、おじさん」
「おじ……僕のこと?」
「うん。おじさん」
「はは、まだ二十八なんだけどなあ……どうしたの? 熊崎さん」
「おじさん、お部屋、見に行きませんか?」
花蓮の人差し指がT字型のフロアの縦棒部分――独房がある方向を指す。好奇心はあるが、同時に不安も抱えているのだろう。阿藤の細い目を真っ直ぐに見据え、返答を待つ花蓮に阿藤は頷いた。
「そうだね、見て回っておこうか」
阿藤の返答に花蓮は満足げに「うん!」と首を縦に振り、踵を返して先を行く。その背中を追い越さないよう歩幅を狭め、両側の二部屋を過ぎて突き当りの間口を抜けると、阿藤が目を覚ました房とは物の配置が異なるものの、やはり強い閉塞感を放つ空間が待ち受けていた。花蓮が真っ直ぐに向かう先、対面側の壁に叩きつけられたのだろうか。鉄の扉が鈍角を体現して床に転がっている。
「私、ここにいたんです」
阿藤に視線を向けないまま、花蓮が言う。その表情は何かを探すようであり、花蓮にだけ見える何かを追っているようでもあった。
「そうだったんだね。他の人はどの部屋にいたのかわかる?」
「おまわりさんに聞きました。次の左の部屋がおじさんで、右の部屋がお姉さん。お兄さんとおまわりさんは……」アの音を発した唇が動きを止める。成人に比べやや比率の大きな頭がことりと傾き、花蓮はばつが悪そうに笑いながら「どっちがどっちか忘れちゃった」と続けた。
「はは。忘れちゃったか」阿藤もつられて笑う。この状況で素直に笑えるのは子供特有の楽観によるところだろうか。まばらにタイルが剥がれた床を軽快に跳ねる花蓮からは、およそ絶望らしい感情は伝わってこない。割れたタイルの欠片を蹴飛ばして遊ぶ様は、まさしく下校中の小学生の姿そのものだった。
花蓮は「車に乗せられ、水を飲まされた」と言った。研究所付近で意識を失った阿藤らとは拉致に至る経過が異なる。「知らない人達」というからには犯人の風体も見ているのだろう。花蓮が無差別に誘拐されてきたのだとすれば、よしんば脱出に成功したとして、その後の生活もかなりリスキーなものになる。
「熊崎さん。君は……」
「あ、おじさん。これ、読めますか? わからない漢字があるんです」
阿藤の言葉に被せるようにして花蓮が言い、出入り口付近に掲げられた石板を指す。それは阿藤が居た独房に掲げられていたものと同一デザインではあったが、書かれている内容のボリュームが異なるようだった。
「どれどれ?」阿藤が石板の前に立つと、一歩左へ移動した花蓮が爪先立ちになって視線の高さを上げる。
「身を焼きたまえ。笑顔を忘れるな。ぎょう、ひ……?」
「業火と抱擁せよ。この痛みは凍てつく湖ではない、だね」
「ごうか? ほうよう?」
「この文章の意味まではわからないけど、業火は火のこと。抱擁は抱きしめるとか、抱き合うこと」
「火を抱きしめるんですか? 熱そう」
「何かの例えじゃないかな。僕がいた部屋のやつは、もっと長い文章が書かれてたよ」
時の経過によって薄らいだ文字の刻印に指を這わせる。比喩にしても脂っこい表現だ。その上紙の掲示物でなく石板を選択している辺り、ステレオタイプな宗教色が窺える。机に書かれていた先人の走り書きといい、ここは至高天研究所――或いはその関連施設と見て間違いないだろう。湖の月の部分を撫でていた指先を顎へやると、隣では花蓮が踵を下ろした。
その後、阿藤は花蓮を伴って全ての房を見て回ったが、取り立てて有用な情報は得られなかった。花蓮本人についても、この十数分を経て阿藤が得たのは、花蓮が父子家庭の一人娘であるとか、父親の作るじゃがいもが溶けたカレーが好物であるとか、得意な科目は体育であるとか、そろそろ身長が一四〇センチを超えているはずといった彼女のプロフィールと、躓いた彼女の手を取っても警戒されず、笑顔と共に感謝を述べてもらえる程度の距離感に留まった。
「そういえば、僕が部屋を出るまで他の人達と話してたんだよね」
「うん。ドアの向こうからすごい音がしたから、誰かいますかって言ったらお兄さんが出してくれたから。先におまわりさんがいて、私が出た後にお兄さんはお姉さんのお部屋に行って。おまわりさんが大丈夫かって聞いてくれて、お姉さんも最初は泣きそうだったけど、ちょっとずつお話して元気になってきました。おまわりさんがお姉さんから色々聞いてて、私はお兄さんとお話してました。……お兄さん、大丈夫かな」
「磯井さんか……大丈夫と信じるよ。花蓮ちゃんはあのお兄さん、怖くない?」
「うん、怖くないです。でも」
柳と倉知が待つ広間へ引き返していた花蓮の足が止まる。一歩前へ出た阿藤が振り返ると、花蓮の顔は床を向いていた。四十センチ程度高い位置から見下ろす視界に映るのは花蓮のつむじと、黒く艶めいたポニーテールの根元から覗く灰白色の髪ゴムだけだ。花蓮は背中側で両手を繋ぎ、爪先で床を小突きながら言葉を探しているようだった。
「……ないんです」
「ない? 磯井さんに?」
「はい。おじさんにも、お姉さんにも、おまわりさんにも、私にもあるのに。あの人、ないんです」
「それって、どういう」
問いかけた阿藤の声を小さな悲鳴が遮る。一瞬の間も置かず何かが割れる音が続き、花蓮が広間へ向けて走り出した。会話は完全に断ち切られ、阿藤も数メートル遅れて駆け出す。
磯井が出て行った観音開きの扉に向かって左手、気を失った男の更に向こう。事務机を中心に資料棚や雑多な小物が並ぶ一角で、柳が身を屈めて花蓮と話していた。よく見れば彼女の足元にはガラスの破片が散っており、先程の音の正体がフラスコ――恐らく、元は――が割れた際のものであった事が見て取れた。破片に手をつけようとする花蓮を宥めて遠ざけ、安堵の息を漏らした柳はそこで初めて阿藤の存在に気付いたようだ。
「す、すみません。うっかり落としてしまって……」
狼狽する柳はしきりに扉へ目を遣る。阿藤は柳に手を伸べ、ガラス片が散乱するその一角から出るよう促す。その意図を汲んだ柳は伸ばしかけた手を一旦引っ込め、躊躇いながらも阿藤の手を取ってひょいと煌めく包囲網を飛び越えた。
「お怪我は?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
緩く波打つ前髪の間から覗く柳の目元には、強い心労が見て取れる。彼女がいつから房に閉じ込められていたのかはわからないが、日常とはかけ離れたこの状況では無理もない。
「なんだかすみません……。花蓮ちゃんみたいな小さい子が弱音を吐かずにいるのに、私ったら……」
「いえ、こんな状況ですから。今のところ、人の気配はありませんし……気分が悪ければ、今の内に休んでおくのも一つの手だと思います」
阿藤の言葉に柳が俯けていた顔を上げる。一瞬丸くなった目はすぐに細められ、口元に緩く握った手を寄せてくすくすと小さく笑った。
「はは。僕、何かおかしな事を言いました?」
「いえ、……ふふ、違うんです。その言い方が、少し陽に似てるなって」
「陽?」
「……私の、恋人です。蛇(じゃ)淵(ぶち)陽(よう)」
解いた手で右の髪を耳に掛けながら柳は言う。
「私、今年ようやく採用試験に受かって、晴れてこの春から教諭になったところだったんです。それを、彼も喜んでくれていたのに……」
伏し目がちに呟かれる言葉は澱みに巻かれ、徐々に沈んでいくようだ。
「連絡がつかなくなってしまった、と」
阿藤の言葉に頷き、一呼吸置いた柳が再び口を開く。
「今月の頭、『もう君とは会わない』ってメールを最後に連絡が途絶えてしまって。ここの信者になったのも、本当に突然だったんです。私、その時も何もできなくて……もしかしたら、本当に私に愛想を尽かしてしまったのかもしれないんですけど、でも……」
「すみません、不躾に踏み込んでしまって」
「いえ。……麻生先生って、優しいんですね」
柳の微笑みは明らかに無理を押して作られたそれであり、阿藤は返答を濁して視線を逸らす。いかに突然の事とはいえ、この気の弱そうな女性がひとり、こんな人里離れた場所までやって来るものだろうか。記憶に混乱があるか、或いは。
「……麻生先生、お花、お好きなんですか?」
「え」思考に耽っていたところに降ってきた問いに、思わず素の声が漏れる。柳は首を傾げながら一つ瞬き、彼女の脇にある事務机を指した。正確には、机上に置かれたプラスチックの鉢と、そこに植えられた朱色のベゴニアを。
「お花、ずっと見ていらっしゃるから。お好きなのかな、と思って」
「ああ……ええ、まあ」
たまたま阿藤の視線が止まった先にあったのがその鉢だったというだけの話なのだが、てんで的外れという訳でもない。人は情報開示に対しても返報性を発揮するものだ。少しは阿藤自身の情報も明かしておいた方が良いだろう。
「花に限らず、植物全般が好きなんです。幼い頃の僕にとって、唯一の友だったもので」
「唯一の……?」柳の声に緊張感が滲む。
「僕、生まれつき体が弱くて病気がちだったんですよ。大体家か病院で過ごしていたもので、友達もできず。両親は忙しい人でしたし、兄弟もいない……おまけに動物アレルギーだったので、ペットを飼うこともできなかった。だから、お見舞いで頂く花や窓から見える植物が心安らぐ友であり、話相手でもあったんです」
「それは……え、今もお辛いんじゃないですか? 私より麻生先生こそ休まれた方がいいんじゃ」
柳の声が一回り大きくなる。遠目に阿藤と柳の会話を窺っていた倉知も手を止め、阿藤を見つめているようだ。阿藤は両手を胴の前で軽く揺らして続ける。
「今は問題ありませんよ。十二の時に一度生死の境をさまよってからは安定してます」
「そう、ですか。よかった……」
「すみません、余計な心配をさせてしまいましたね」
「いえ、いいんです。私の話も気持ちの良いものではなかったですし」
柳は会話を通して情緒が安定するタイプの人物であるらしい。今阿藤に向けられている微笑みには先程のような違和感はなく、幾分か顔色が良くなったようにも見える。
「おじさん、このお花はなんていう名前ですか?」
会話を聞いていたのか、花蓮が阿藤と柳の間に立って鉢を指し尋ねる。口を開きかけた阿藤に掌を向けて「待ってください」と制し、柳は不敵な笑みを浮かべた。
「……ベゴニア、ですね?」
「正解です」
「お姉さん、すごい!」
「ふふ、学校の花壇にも植えてあるの。いろんな色があるんだよ」
柳は鉢を動かして花蓮の目の前に寄せ、ベゴニアの生育について話し始めた。まだ勤務経験はないと言っていたが、阿藤の目に映る二人の様子は紛れもなく教師と生徒だ。
「麻生君、少しいいかね」
「あ、はい」
先程から度々阿藤に視線を送っていた倉知が手招く。会話が途切れ、声を掛けられるタイミングを窺っていたようだ。見た目の印象と磯井との会話から想像していたよりは高圧的でもないらしい。
「これを見てくれ」
顎を片手で包み険しい表情で言う倉知の視線の先には、壁に沿って設えられた木製の枠と、そこに等間隔で並べられた黒い直線が静かに佇んでいる。
「おそらく全て本物だ。ここは本当に日本なのか?」
「これ、全部ですか。狩猟用……ではないんでしょうね、きっと」
「我々の現状を鑑みればそうだろうな。詳細に調べるべきか……」
目頭を摘まんで深々と溜息を漏らす倉知の横顔は、阿藤の人生に於いて幾度か関わった警官と呼ばれる人々の誰よりも含蓄のあるものだ。
「倉知さんはG県警の方なんですか?」
阿藤の問いに向けられた視線は鋭い。答えあぐねるような僅かの間の後、倉知は静かに頷く。
「県警捜査第二課の所属だ。政治とカネに絡む事件は我々二課の管轄になる」
「なるほど。ここへもその調査でみえたと仰っていましたね」
ふ、と倉知が息を漏らす。「まるで探偵だな、麻生君。詰問されている気分だよ」
「そんなつもりは……気分を害されたのであれば、すみません」
「いや、こちらこそすまない、意地の悪い物言いだった」倉知は目を伏せ表情を緩めると、背広の胸元に手を差し入れて白い手袋を取り出した。慣れた様子で両手をそれに差し入れると、立ち並ぶ銃器のひとつを手に取り、慎重に調べ始める。
「まだ表立って捜査を行える段階ではなくてね。ほんの下調べのつもりだったのだが」
「倉知さんが追っていた政治家と、この研究所に何か関係があったという事ですか」
「察しがいいな。その通り、入信者だ。いずれ捜査に入る可能性を見据えての事だよ」
銃の各所を注意深く見つめていた倉知が細い金属のパーツを起こし引き、細く開いた口の中を覗き込む。一瞬歯を食いしばるように唇を一文字に引き結び、金属パーツを元の位置に戻すと「弾が装填されている」と小さく呟いて再び銃器を棚に収めた。阿藤は咄嗟に並ぶ鋼鉄の数を数える。四――否、五挺。独房に詰めた人間に向ける為揃えられたのか、と想像し、背筋に冷たいものが走る。
「麻生君は、何故ここに?」手袋を背広に収めた倉知が阿藤に視線を向ける。恰幅が良いというよりはがっしりとした体格。警察官は皆何らか武道の心得があると聞いた覚えがあるが、倉知も腕に覚えがあるのだろうか。
「知り合いを探しに。心当たりがここくらいしかなかったので」
「ほう。その知り合いも入信者かね」
「いえ、そういう訳では……まあ、それで、森の中で殴られて、気付いた時にはここに」
倉知が眉を顰め、目を細める。数秒の後、ああ、と納得したように頷くと「裏の雑木林の事か」と続けた。
「雑木林……?」
「うむ。森という程規模の大きなものではないな。裏口から侵入しようとでも考えたのかね?場合によっては君が通報されかねんぞ」
「ははは。返す言葉もありません」
笑う阿藤に対し、倉知の表情は依然固い。黙したまま阿藤の反応を窺う様は強い威圧を放ってすら見える。厚い硝子を隔ててさえ、その視線は阿藤の後ろめたさをちくちくと刺激し、洗いざらいを吐き出してしまいたい衝動に駆られた。
「麻生君、そう固くならないでくれ。職業柄、色々と探りを入れてしまうものなんだ。特に強く君を疑っている訳ではない」
阿藤の緊張を察してか、倉知の声音が和らいだ。右の二の腕を軽く叩かれてようやく、阿藤は自分が腕を組んでいた事に気付く。探りを入れられるのは慣れたものと思っていたが、本職のそれは向けられる重圧が段違いだった。体は素直に心を映すものだと妙に感心する。
「ええ、理解しています。お気になさらず」
「良かった。君は若いのに随分落ち着いているね。磯井といったか、彼と大して変わらない年頃に見えるが……こうも違うものか」
「はは……」阿藤から見た磯井は、十とはいかないまでもそれなりに年下に見えるのだが。誤解を招きがちな己の顔に些かの恨みを込めた指先で触れると、頭にうっすらと漂う鈍い痛みを自覚した。殴られた痛みと混同していたのか、先程までは気にも留めなかったが、いつもの偏頭痛だろうか。
「遅いですね、磯井さん」
阿藤の沈黙に滑り込むようにして、花蓮を伴った柳が近付いて来る。正確な時間の確認こそしていないものの、磯井が出て行ってから随分と時間が経っていた。「直ぐに戻る」という磯井の言葉が、あの日信濃が残したメモの文面と重なる。脳裏に点滅する赤と黒。阿藤は静かに目を伏せ、額に指先を当てる。
「……逃げたのかもしれんな」
「え?」
「奴は一見冷静だが、行動は短絡極まりない。逃げ道を見つけて一人で出て行った可能性は十二分にある」
「そんな……」
「あの力を持ってすれば、多少の障害は乗り越えられるだろう。我々を足手まといと見なしたのかもしれん」
「そう……ですよね、磯井さん一人なら……私達、たまたま同じ所に閉じ込められていただけですしね……」
「お兄さんは、そんな人じゃありません。今は近くにいないけど、大丈夫です」
「花蓮ちゃん?」
「熊崎君、何か知っているのかね」
「ちゃんとしたことはわからないです。でも私、なんとなくわかります」
「ふむ……」
「……麻生先生、大丈夫ですか? 顔色が良くないみたいですけど……」
数十センチも離れていない場所で話しているはずの三人の声が、まるで深い水底から響いているように遠く歪んで聞こえる。
徐々に強まる痛みと共に地鳴りに似た脈動が重なり、阿藤と世界を隔てていく。
伏せた瞼の裏、透ける毛細血管の赤。
そこにぽつりと落ちた黒が滲み、浮かんでは消えるイメージを蝕む。
思考に迫り来る巨大な〝何か〟の存在感が、阿藤の肌を粟立たせる。
「麻生先生?」
柳の指先が阿藤の肩に触れた瞬間、阿藤と花蓮の声が寸分違わず同じ音を発した。
「「来る」」
刹那の沈黙。全員の視線が観音開きの扉へ集中する。
外界と遮断された空間。出所の分からない僅かな機械音。
倉知が一歩、扉へ向かって踏み出す直前。
「ポチだ!みんな、早く逃げて!」
叫ぶ花蓮の声と、太い男の悲鳴が重なる。
間髪入れず大きな質量が扉に叩きつけられ、空気が震えた。
「あ、あれ、血…? じゃあ、さっきの、声」
大きく目を見開いた柳の顔からみるみる血色が失われていく様を、
倉知が拳銃を構える様を、
花蓮が柳の手を引き駆け出す様を、
扉と床の隙間から流れ来る鮮紅を、
コマ送りで流れる時間の全てを、阿藤は見ていた。
頭が痛い。
「おじさん、早く!ポチは誰か探してる!」
瞼が上げられない。
「麻生君!君も行け!」
ここは何処で、
「麻生先生!」
自分は誰だ?
「いかん、扉が破られるぞ!」
「おじさん!おじ、さん……!」
倉知が扉に銃を向けたまま後退し、俯いて立ち尽くす阿藤を左肩で押す。揺らいだ阿藤の腕を花蓮が抱え、力一杯に引いて独房の間口をくぐると柳が倒れかけた阿藤の体を支えた。
その動きの全てを阿藤は認識していた。しかし、指先一つ動かすことができない。目線すらも。ピントを合わせ損ねたビデオカメラのように視界の全てにぼんやりとしたフィルタがかかり、次第に足元から床へと力が流出していく。壁に背中を預け、下へ向かって体を滑らせると、ようやく薄ら何かが見えてきた。
黒い世界で、大小様々な瞳が阿藤を見ている。その瞳よりも少し下の黒が裂け、生々しい歯と舌が現れた。それらは声を放つ。阿藤に向けて、次々と言葉を刺す。
「俺は■津木、■「お願い、私■■子を助「は■にい「■うな、走れ!「東■の「転■生「首のない■が見「田中が■ら「超能■「人■し「■殺し「人殺し「人殺し「人殺し」
――『おいで、阿藤春樹』
空気を裂く、銃声。二発、三発、四発――。
霧散する闇の向こうから、蛍光灯の光が差す。掻き消えていく数多の器官と、何かを抱き止めるように両手を広げた薄い輪郭。伸ばした阿藤の指先が捉えるよりも先に、それは五発目の銃声に撃ち抜かれた。
数秒、数十秒――やがて静寂が訪れる。部屋の隅で花蓮を抱えるように蹲っていた柳が顔を上げ、阿藤の四肢にも再び神経が通った。残っていた僅かな痺れと頭の痛みも完全に鳴りを潜め、感覚が平常復帰する。
「気配が、止んだ……?」阿藤は殆ど吐息程度の声で呟く。阿藤同様気配を感知していた花蓮へと目をやるが、花蓮は小さな体を全て内側に折り、頭を抱えて縮こまっていた。その背を撫でる柳と目が合う。ここは任せて、と、彼女の声が聞こえた気がした。
片足は室内に残したまま、もう片足を廊下へと踏み出す。間口から半身を乗り出すようにして視線を巡らすと、壁に寄りかかって項垂れる倉知の姿があった。
「倉知さん!」
駆け寄る阿藤の声に反応し、倉知が首を回す。
「ああ、麻生君……よかった、無事だな」
「どうお礼を言ったら……何も出来ずすみません。お怪我は? 大丈夫ですか?」
「ああ。ありがとう」阿藤が伸ばした腕に掴まって立ち上がった倉知は腰に両手を当て、深々と息を吐く。こめかみから首筋へと大粒の汗が流れ、一筋の軌道を描いた。黙したまま扉の方へと向けられる視線を追い、阿藤もそちらを見遣る。
「あれは――人の、形をしていた」
一つ一つの音を噛み締め、重く、深い声で倉知が呟く。
「とにかく、無我夢中で……撃った内の何発かが当たったんだろう。奴は悲鳴を上げて逃げて行った。血ではなく、あの黒い液体を噴き出して」
頑強に閉じていた扉は錠がかかっていたと思しき中央部が歪にひしゃげ、室内へ向けて押し開かれていた。その陰から僅かに見える血に染まった白衣の袖先が、あの時の悲鳴の主だろうか。そちらへ向かって幾つかの黒い水たまりが続き、阿藤達に〝それ〟の来襲を知らせた血溜まりと混ざって気味の悪いマーブル模様を現している。
「人の形こそしていたが、人と呼べるものではなかった。化け物だ。とても、この世のものとは……」
「ポチです」
眉間に皺を寄せ、眼鏡の鼻当てを押し上げるように目頭を摘まむ倉知の背後から花蓮が言う。両手で赤い薄手のワンピースを握り締め、柳に両肩を支えられながらゆっくりと阿藤達の元へと近づいて来る。
「お父さんが言ってたんです。ポチは、とってもすごいかみさまのこども。でも、今はまだ危なくて……だから、逃がしちゃいけなかったんだって。なのに逃げられちゃったから、もうここにはいられないって」
「神様の、子供?」柳の言葉に花蓮が小さく頷く。
「花蓮ちゃん。君のお父さんは、ここの人なのかい?」続く阿藤の問いにも、花蓮は首を縦に揺らした。「うん。私もお父さんと一緒に〝けんきゅうじょ〟でお泊まりしたり、勉強したりしたこと、あります」
花蓮だけが阿藤達三人と異なる状況で拉致され、〝あれ〟をポチと呼んだ理由。阿藤の中の疑問が氷解する。その傍らで花蓮の話に耳を傾けていた倉知が膝に手を当て、身を屈めて問う。
「お父さんは、今どこに? 君がこんな目にあっている事を知っているのか?」
その声音に滲む僅かな怒りを感じ取ったのか、花蓮は俯けていた顔を勢いよく上げ、結い上げた髪を激しく左右に揺らした。
「ポチが逃げた次の日、お父さんが逃げるぞって、おうちの荷物を持って言ったんです。すごく朝早く、まだ真っ暗な時に荷物を車に載せて、アパートの駐車場を出たら……」
「……襲われたんだね」
小さく頷いた花蓮は再び俯き、顔を上げずに呟く。「お父さんは別の車に連れて行かれました。私はお水を飲まされて、それでここに来ました」
俯いたままの小柄な少女が今どんな表情をしているのか、目にするまでもなくこの場にいる全員が察していた。柳は花蓮に向かい合い、静かにその背に両手を回す。
立ち上がった倉知は歯噛みし、心中に渦巻く感情を握り潰すように強く拳を握って声を荒げた。
「何らかの危険を察して逃げようとした……か。――一体何なんだ、この宗教団体は!」
化け物――と称される何か――と対峙した倉知の困惑は、阿藤の比ではないのだろう。自分よりも十年、二十年も長く人生を歩んできた人間が冷静さを欠く様は、状況の異様さをより際立たせ、比例して阿藤の思考回路を冷却した。
「花蓮ちゃん。ここに来た事があるなら、道とかわかる?」
阿藤は扉の向こうを見る。点滅する蛍光灯に照らされた通路。距離を経るにつれ仄暗く澱み、その広さを推し量る事さえ叶わない。磯井はあの通路に居るのだろうか。
「このお部屋は知りません。どこかもわからないです」
「そうか……」
阿藤は訝しげに己を見る倉知と目を合わせ、その胸元に収められているであろう拳銃を指した。「弾は何発残っていますか?」
「え、ああ、弾か。残念ながら、先程全て……いや、待て。そこの銃には弾が入っていたな」
倉知が指差す先には銃器の収められている棚が並ぶ。素人である阿藤にはその取扱いなど想像もつかないが、それらを調べる倉知の慣れた手付きを思い返して阿藤は頷く。
「倉知さん。恐らく貴方は先程の化け物にマークされている。この場所に僕らが居る事も、知られてしまった。磯井さんが戻って来る保証がない以上、これ以上此処に留まるのは危険です」
「同感だ。……そうだな、不慣れな銃を扱うのは大いに不安だが……背に腹は代えられん。私があれを持って先導しよう」
「いいえ、それも得策ではないでしょう。僕らにはこの場所についての情報がない。こんな状況に直面しても未だ、何が起こっているのかさえ把握出来ていないんです。今後また何かの危険が迫るのか否かさえ、分からない」
端的に事実を並べる言葉に、倉知が視線を逸らし「ううむ」と顎に手を当て唸る。柳に抱かれたまま顔だけを向ける花蓮の表情は暗く、柳もまた不安に飲まれていた。
阿藤はひとつ息を吐く。いつか親友に教わったように下腹に力を込め背筋を伸ばすと、幾らか力を得たように感じる。
「僕が此処を出て偵察してきます。倉知さんは此処で、彼女達を守って下さい。さっき、あの化け物から守ってくれたように。安全を確保出来る場所か、脱出ルートを見つけたら必ず戻ります」
「き、君はどうするんだね? またあの化け物と遭遇しないとも言い切れんのだぞ」
「そうですよ、麻生先生だけを危ない目に遭わせるなんて!」
強く詰め寄る言葉に軽く手を上げ、阿藤は意思の及ぶ限り表情筋を緩める。
「僕一人なら何とでもなります。幸い、身を隠すには苦労が少ない薄さですし」
冗談めかして背と腹を撫でつけて見せると、二人は脱力したように言葉を飲み込んだ。天使が通過できる程でもない沈黙を経て、倉知が「わかった」と声を漏らす。
「一般市民を危険に晒すのは本意でない。本来なら、警察官である私が率先して立ち向かうべきだ。しかし、君の言う事も一理ある。いや、恐らくそれが最善手だろう。……麻生君。頼む。柳君と熊崎君は私が必ず守ろう」
「ご理解頂けて助かります。僕が残るよりも数段確実性が増しますから」
「しかし、これだけは約束してくれ。決して無理はするな。どうにもならない状況に直面したら、自分の身の安全を第一に考えてほしい」
再び語気を強める倉知の顔は厳しく、しかし縋るような弱々しさをも含んでいた。阿藤はゆっくりと首を縦に振って「お互いに」と返し、扉へ向けて歩を進める。
「おじさん!」
駆け寄った花蓮が半ば体当たりするように阿藤の腰に抱き着き、よろめいた阿藤の足が黒い水たまりを踏む。瞬間、頭に走った痛みと視界の点滅。それはあの夜職場で、そして先程の〝あれ〟の気配と共にやってきたもの。
「これ、貸してあげる。お父さんがくれたんです。絶対、絶対返してくださいね。約束ですよ」
身を返す阿藤から一歩離れた花蓮が首元に手を入れ、長い紐が付いた角型の布地を取り出す。首から外した紐ごと阿藤の両手にそれを握らせると、花蓮は祈るように両手を組んだ。阿藤が引き寄せたその手を開くと、そこには星の印が縫い込まれた小さなお守りがあった。
「わかったよ、必ず返す。ありがとう、花蓮ちゃん。心強いよ」
阿藤がジャケットの胸ポケットにお守りを収め、確かめるように押さえて見せると、花蓮は頬を引きつらせながらも必死に笑顔を見せた。先程花蓮が立っていた位置から見ている柳に一度、迷いを帯びた視線を向ける倉知に一度、頷いた後、改めて阿藤は通路へ向かう。
「( ――これは、勇気とか、正義感とか、そんなものじゃない。ただ、もう逃げられないことを認めただけだ )」
『そうだね』
「( 恐らく俺は、偶然巻き込まれた訳ではないのだから )」
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