4-05.

 探されていることなど実にどうでもよさそうだった。教官がなにげなく投げ返したペンは、とんでもない速さでユアンの頬を切り、後ろの雪景色のなかへ飛んでいった。


 ペンを受けとめきれなかったユアンは、頬の血へそっと触れてから、優雅に微笑んだ。怒ると笑うのがこの使用人の癖だった。機械なのに短気なのでムーウは内心ひやひやした。


 ユアンはすぐペンを拾ってきた。それを胸ポケットへ戻す。


「……ユアン、いつ教官に投げたの」


「先ほどですが、それが?」


「それが、じゃないでしょう、人に物を投げるなんて」


「クォルフォア教官が我々を無視して去ろうとなさっていましたので」


 ユアンがペンを投げるところなんかムーウには見えなかったし、その早業にあっさり対応する教官も教官だった。魔法の残り香は無い。物理的なペンのやりとりだけだ。人文科のムーウには分からないところで、二人の簡易な戦闘が行われて、ユアンが軽い怪我をしたのだということだった。


 自分の護衛人が負けるところを初めて見て、ムーウはかなり驚いていた。


 ノクテリイ家のヒトロイドグループが戦闘要員として本気でプログラミングした機械人類が、負けた。


 教官という地位が有名であるのはやはり相応にちからを持っているからだとおもった。それなのに魔法史研究室の院生たちがこの青年を知らない……。


 日記を脳にダウンロードしたにもかかわらず、ムーウも青年に気がつくことができなかった……。


「変換には」


 教官が講義をするみたいに滔々と言う。


「時間がかかる。視覚的記憶として『おもいだせる』のと、ダウンロードしたテキストデータから『知識として知る』のとでは、まったく別物だ。咄嗟に変換できなくても不思議ではない。――同じことが、二十九番の記憶全般にも起こっているのだろう」


 二十九番とはシャノンのことである。ちなみに先ほど呼ばれた八十二番はムーウの学籍番号だ。この人は親しみを持って他人の名前を呼ぼうという気がこれっぽっちも無いらしい。


 通された部屋は魔法史研究室の奥の広い空間だった。背の高い本棚に囲まれ、棚に入りきらないハードカバーの本がところ狭しと机や床に積まれ、原稿用紙、ブックマーカー、メモなどが散乱し、印刷された新聞記事やら地図やらが壁に留められ、描きかけの油絵が部屋の真ん中にイーゼルでたてられている。おだやかなクラシックのレコードがかかっていた。ほんのりと紅茶の香りがする。


 学園の研究室を完全に私物化している典型的な研究者という感じがした。


 教官は積まれた本を魔法でいくつか移動させて道を作ると、ムーウとユアンに椅子をすすめる。座るのを待ってから彼が切りだした。


「さて、まず個人的には貴方に不賛成だ、と伝えておこう」


 瞬間的に感じたムーウの感想は「どいつもこいつも」だった。教官を睨みつけて、一言一言を区切るように問う。


「クォルフォア・G教官、何故ですか」


「ふむ。そう結論を急がずに聞け」


 教官がアールグレイをムーウとユアンの前に置いた。


「二十九番が記憶をなくしたところまでは先ほど聞いた。で、おおかた、貴方は彼女を探しだしたいのだろう?」


「そうです。何故妨害なさるのですか」


「妨害するつもりはない」


「不賛成なのでしょう」


「その通りだ」


 相変わらずまわりくどい教官の話しぶりに、今日は苛々した。無言で睨む先で彼は悠長に紅茶へスティックシュガーを次々ちぎっては入れて混ぜている。無表情な教官と、反して一人気が急いている自分に、ムーウは腹が立った。


「シャノンのことをいつも『二十九番』と呼んでいらっしゃいますね。学籍番号ですか? なんの番号ですか? 手掛かりをご存知なら教えてください。どうして隠そうとなさるのですか。シャノンがどうなってもいいとおっしゃるのですか? あなたそれでも教員なんですか。知ってることがあるなら――」


「あー分かった分かった、落ち着け。まあその前に、紅茶が嫌いでなければ飲め」


 ムーウは教官を睨みながら渋々一口だけアールグレイを飲み、即座にカップを置く。正面から見据えると、教官が溜め息をついた。


「……ひとつ忠告したいだけだ。端的に言おう。持論だが、自力でできないことをしてまで他者を救おうとおもってはならない」


「――教官にご迷惑をお掛けし続ける気はありません――」


「いいから聞け。今回の場合だと、二十九番の個人情報をあらかじめ聞いておかなかった貴方ができることには限りがある」


「わたしはシャノンの体調を知らなかったのです――」


「知らなかった、は理由にならない。人生は想定外の事態に満ちているからだ。そのたびに、自力ではできない救いを他者に与え続けようとすれば、いずれ貴方が壊れる」


「毎回助けてくれとはおもってません、今だけ教えてくだされば――」


「今だけ、今だけ、とどこまで続ける気だ? 人間の内面にはおもいのほか深さがある。安易に他者を救おうとおもってはならない。自分にできる範囲以上のことを、しようとしてはならない。いいか。期待しすぎるな。線を引け」


「助けあえば救えるばずです――」


「相手が親しい者であればあるほど、のめりこんでしまう。よくない傾向だ」


「友人を助けようとするのがよくないとおっしゃるんですか――」


「ふむ。では訊くが、グリクトを作ったあと貴方は一度も死を考えなかったか?」


「っ……!」


 言葉に詰まったムーウに、教官は薄い雑誌を差しだしてきた。


「進むか終えるか迷っている貴方を、私は救おうなどとおもわない。無駄だからだ。だが少しは支えになれるかもしれん。私にできることがあれば協力しよう。これでも貴方を心配しているんだ」


 声が、出ない。


「二十九番を探すことが、貴方と彼女両名にとって幸福に繋がるのかどうか、私には判らない。うまくいけばいいが、いかなければどうなる? 特に貴方にとってはそれが『きっかけ』になってしまうかもしれん。そういう意味で私個人としてはこのことに不賛成だ。だが友人を探しだしたいのなら、せめて覚悟をしてからやることだな。線を引け。人は他者を救えない。期待を捨てろ」


 差しだされた雑誌は毒々しい薔薇の絵画が表紙だった。


「これを持っていけ。授賞式について書いてある」


 思考が追いつかなかった。でもムーウは藁にもすがるおもいで雑誌を受け取った。頼りなく薄っぺらな紙の雑誌は、見ための通りにとても軽くて、こんなものに救われたり救われなかったりするという現実がかなしかった。

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