4-02.

「ご存知なのですね? ……じゃあ、どうして」


「あいつが来ねえなら、それはそれで俺は構わん」


 沸騰したお湯でドリッパーやカップをあたため始める。ペーパーフィルターを濡らさぬようドリッパーを拭き取ってから、フィルターを置いて珈琲粉を入れる。ドリッパーを揺すって粉をならす。やかんのお湯をドリップポットへ移しかえる。細い注ぎ口からそうっとお湯を粉へ載せるように注いでいく。


「マスター。シャノンは来たくないのではありません。来たいのに来られないんです」


「そうかもな」


 感情が欠落した声だった。こんなふうに彼が話すのを今まで聞いたことがなかった。ムーウはじっとマスターの目を見つめた。三十秒ほど粉が膨らむのを待つあいだ、誰もなにも言わず時間だけが過ぎていく。掛け時計がこ、こ、こ、こ、暖色の照明に照らされた夜の時間を、一秒ずつ刻んでいる……。


 わけが分からなかった。


 マスターなら協力してくれるとおもってアナログアンブレラへ来た。


「いのちを助けるために、シャノンの記憶安定装置を外さなくちゃいけないってお医者さまが判断したんです。シャノンはまた独りになるのがこわいって泣いてました。人間関係についての記憶が薄れてしまうからです。マスター、助けてください」


「できねえな」


 即答されてムーウは言葉につまった。意味不明だった。マスターが筋骨隆々とした腕でお湯を注ぎ始める。非魔法珈琲の香ばしさがいっきに店内全体に広がっていった。


 しばらくして二つカウンターに置かれた珈琲をそれぞれ受け取って、ムーウはその褐色の水面の揺れを眺めた。沈黙のなかで数十秒そうしていた。それからゆっくりと言葉を区切るように質問した。


「マスター。何故ですか?」


 魔法で簡単に片づけようとはせず、いつもの通りに一つ一つ器具を丁寧に手入れしているマスターはやはり、手元から視線をあげない。


 と、不意にかすかに笑った。諦めみたいな、覚悟をしているみたいな、なにかを悼むみたいな、なんとも言えない表情にムーウは声が出なくなってしまう。


 きゅ、と水をとめてマスターがこちらへ顔を向けた。目や鼻や頬を大胆に横切る古傷が、何本も視界に入る。この魔法社会で傷痕があるということそれ自体が稀有な、そのわけありの傷を、マスターは真っ直ぐにあげている。


「……俺は、来る奴を迎えるだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。俺は此処にいる。いつでもこの店にいて、待っている。あいつを連れてきたかったらお前さんがそうするといい。歓迎するさ。でも呼ぶために協力することはない。俺は待つだけなんだよ」


 ナモにねー、あたしほんとはすっごく感謝してるんだ。照れくさいから本人には内緒だけど。


 〈フェイク〉の噴水を背景にして、太陽のひかりで水滴がきらきら輝いている、その前で、スキップをしながら恥ずかしそうに言っていた女の子のことを、おもいだす。


 歩調にあわせて鳴っていたたくさんのアクセサリーも、黒く艶やかな長い髪も、耳まで真っ赤にしないとお礼を言うこともできない照れ屋なところも、『大丈夫だからね? 困ったらアナログアンブレラに行けばいいんだからね?』信頼しきった声色も。


 ムーウは立ちあがってマスターを正面から睨みつけた。


「アナログアンブレラはいのちに関する悩みを持つ人のためのお店ではないのですか」


 マスターは投げやりに微笑んだ。


「……何度か試した結果だった。記憶をなくすたび、あのバイトに『悩んでいる奴のための店だ』と説明してやると、あいつ、納得するらしくてな、ほかの説得方法も試したんだが、結局それに落ち着いた。要するにだ――」


 頭を殴られるような衝撃だった。


「――あいつのための嘘なんだよ。別に悩みを持たない奴も店に来るさ。客を選ぶ魔法なんてわざわざかけるかよ。むしろうちは魔法を極力使わない方針なんでね」


「……シャノンは何度も記憶をなくして此処に来てるんですか」


「そうだな」


 マスターは洗い終わったドリッパーを置き、手をタオルで拭きながら玄関のほうを見やった。


「偶然傘を貸しているときに発作が続いたから、数週間か数ヶ月で記憶をリセットされたあいつが、部屋に見覚えのない傘があって、『珈琲店アナログアンブレラ』と書かれているって、探しに来るんだ。自分は此処に来たことがあるのか、でもよく覚えていない、そう言って泣くので、悩みを持つ人間が導かれる店なんだって説明していた。しかし今回は」


 ムーウは慌てて傘立てを見た。シャノンが使っていた真っ赤な傘、ムーウが初めてアナログアンブレラへ来るきっかけになった、あの往来に咲いていた目の覚めるような深紅の花が、十本ほどの傘に混ざって其処に立てられていた……。


 ――置いていったのだ。


 ムーウの新しい珈琲カップを買いに行こうと勢いよく珈琲店を飛びだしたときに、よく晴れていたし、すぐアナログアンブレラへ帰ってくるつもりだったから、傘を持たなかった。


 シャノンは普段傘を持ち歩いていた。きっと、記憶をなくしても手掛かりになるようあえてそうしていたのだ。


 なのにあの日は慌てて買い物に出てしまって、カップなんて寮にいくらでもあったのに、何時間も連れまわして、からだが悪いのを無茶させた……。


 わたしの所為だ、とおもった。


 おもったらもうとまらなかった。


 あとからあとから涙があふれた。


「……どうして教えてくれなかったんですか! 知ってたらあんなに歩かせなかったのに……!」


「教えてどうなる? なにをしても、しなくても、どうせあいつはもうどうしようもない」


「これ以上病気が悪くならないようにすることはできます!」


「あいつが決めることだ」


「そんな……!」


 それでマスターはシャノンに仕事をほとんどさせていなかったんだ、と気がついた。シャノンはアルバイトだとは言いつついつもカウンターのこちら側に座って、ムーウと一緒に課題に取り組んだり、珈琲を作ってもらったりしていた。


「魔法だらけの学園都市はからだによくないから、わざとこの非魔法空間で休ませてたんですね……! そこまでするのにどうして! 連絡先を教えてくださらないのですか!」


 ひたと睨んだ先の古傷だらけの微笑が、重たく、非常に重たく、感じた……。傷痕を消せないのなら〈変化へんげ〉や〈メイク〉をかければいいだけの話で、魔法でいくらでも綺麗に取り繕うことができる現代ではそうするのがあたりまえで、そうしないのはおかしい、なにか理由があるのだろうとはおもっていた。


 マスターは傷痕にまみれる顔を伏せた。


 しぼりだすように呟く。


「毎朝鏡を見るたびにおもい知る。俺には誰も守れない」


 ムーウは叫んだ。


「シャノンはあなたを必要としてるのに!」


「あのバイトにはもっといい居場所がある」


「『あのバイト』じゃありません、『シャノン』です!」


「俺はもう二度と間違えたくねえんだよ」


「現状こそ、間違ってます!」


「去るならそれでいいんだ」


「去ったあとでどうなってもいいんですか!」


「どうなろうと、少なくとも俺はそれを知らずに済む」


「この――」


 ムーウは大股で玄関に突き進み、真っ赤な傘を引き抜いた。マスターを睨みあげて叫ぶ。


「――弱虫!」


 アナログアンブレラを飛びだした。

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