3-16.

       ◆


 何処か遠くから泣く声が聞こえてくる。


 幼い子どもだとおもう。必死に声を押し殺そうとして失敗しているといったような、胸をひどく締めつけられるような、声の幼さに似つかわしくないかなしみが、したたるほどに含まれているような、痛々しくて、無性に抱き締めたくなる声だった。手をそっと握っていてあげたい。泣かないで、大丈夫だよって頭を撫でてやるのだ。


 あなたの所為ではないんだよ。


 そうやってあのとき誰かが教えてくれたなら、わたしは今こうはなっていなかったのだろうか。


 泣き声は次第におおきくなっていく。目を開ける前にまずおもったのは、生きてしまっている、ということだ。誰かの声を聞きながら目を閉じている。泣く声は夢から続いて急に大人びて、苦しげにぜいぜいと奇妙な呼吸音が混ざり始める。聞き覚えのある声だという気がした。生きたくはないが起きなくちゃならなかった。聞こえてくる声に反して、自分自身の呼吸音は馬鹿馬鹿しいほど安定していて、そのことが苦しかった。


 白い天井が見えた。壁も白かった。目を開けるとムーウを呼ぶ声に混ざって緊迫した大声が聞こえた。


「――そんな場合ではありません! シノ・Sさん! ご同意ください! いのちがかかっているんですよ――」


「ムーウさま、お嬢さま、よかった……!」


 ユアンを押しのけてムーウは飛び起きた。覆いかぶさるようにこちらを覗きこんでいた使用人が驚いてなにか叫んでいる。からだはいつも通りに動いた。痛いところもない。助かってしまった。でもそれよりなにより今、気になることがあった。


 ――シノ・S?


「シノさん! 今決断するしかありません! 生きたいのなら同意してください!」


 ……一度も来たことがない此処が病院であることはすぐ分かった。


 部屋中に〈修復〉や〈治癒〉などの魔法が満ちていて、一介の人文科学生であるところのムーウにはその詳細は分からない。ただし一般的な魔法でないことは一目瞭然だった。部屋が薄ぼんやりとひかって見えるほど大量の、専門的な魔法だ。酔ってくらくらとした。


 ムーウは掛け布団をどかすとベッドからおりる。脚は問題なく動く。すぐ隣のベッドへ駆け寄る。


 ちいさな粒の宝石や澄んだガラスビーズや細やかな貴金属などのアクセサリーが、いっせいにしゃららんと鳴っていたことをおもいだす。


 触れると気持ちがひやっとするほど冷たい、陶器人形みたいな手の温度も、いつも嫉妬してしまうくらい楽しげだった笑顔のことも、次々脳裏によぎって混乱した。


 どうして、ムーウは呟く。


 視線の先で女の子の過多な装飾がまぶしく輝く。ひかりとして目に見える量の魔法というのは相当なものだった。そうだった。現代人がアクセサリーばかりつけていたら、それはそれだけの数の装置が必要だからだ。処方装置だったのか。装置を省略するのがあたりまえのムーウには考えつかないことだった。


 この子は、あんなにたくさんの装置がないと日常生活を送れないのだ。


「あなた、シノさんのお知り合いですか。説得してください! 魔法があまりに多すぎて〈生命維持〉がかかりません。どれか取らなくては……延命のために記憶安定装置を外します!」


 ――そして魔法は、味や音や記憶や関心などの「物事の関係性」を奪う性質を持つ。装置を使えば使うほど、記憶を失いやすくなるということだった。


 後ろで使用人がなにか叫んでいる。彼の手を払いのけて、シャノンの手を握った。相変わらず冷たい手だ。


 真っ青でぜいぜいと奇妙な呼吸をしている。たくさんのアクセサリーがひかっている。弱々しく首を横に振る女の子の、目から、細く涙が流れ落ちる。


「……そ、うちを、取っちゃうと……記憶が……」


 震える唇から言葉をしぼりだすシャノンにムーウは言った。


「生きることが優先です」


「でもムーウ、こわいの……こわいんだよ……」


 入学式の前日、ぽつんと赤い傘が往来に見えたときをおもいだした。現代人たちは他人に関心を持たない。見たことがないほんものの傘がそこにあっても誰も注意を払わない。味も音も記憶も関心も油断していると魔法の性質によって消されてしまう。その違和感さえ抱かないうちに。そういう時代だった。


「ムーウ、ムーウ、今日ほんとうにありがとうね。あたし、これのせいで……学校に友だちがいないんだ。ムーウだけだったの。一緒に買い物できて楽しかった。でもここまでだね……」


 他人に関心を持たない現代の真ん中で、シャノンが記憶安定装置を外してしまったら、誰に頼ったらいいかの記憶がなくなったシャノンは、独りぼっちでどっちへ向かって歩いたらいいのだろう。


 友だちであるムーウがこの子を見つけだしてあげなくちゃ、だめだ。そうおもった。


「グレインせんせに会いたい……さようならと言われるたび、いつお別れになるか分かんなくて、あたしも……何度も、さようならって返事してた……」


 くしゃりとシャノンの顔が歪んだ。呼吸音がさらに乱れる。周囲で医者や看護師が大声でなにか言っている。目に見えるほど大量の魔法がまばゆく発動している。冷たいシャノンの手が震えている。


「シャノン。あなたが忘れても、わたしは覚えています」


「ムーウ……」


「生き延びてください」


「……あたしこわいよ……」


「必ず探しに行きます。一緒にまたアナログアンブレラへ行きましょう」


 涙が枕を濡らす。


「……どうせもうすぐ死んじゃうのに、あたし、なんでうまれてきたんだろうね……」


 シャノンが医者に頷いた。同意を得て、医者が記憶安定装置を外す。シャノンは目を閉じる。複雑な〈生命維持〉が何種類もかけられていく。手をかたく握りしめる。


 ムーウは残念ながら生き延びてしまった。ユアンが助けに来たのか、グリクトが自動的に発動したのかしたんだろう。


 でも今、此処で、シャノンと会えたのは偶然ではなく必然なのかもしれないとおもった。いや、そうおもいたかったのだった。これまでシャノンはムーウを迎えに来てくれる側だった。パーティー会場から連れ出してくれたときのことを考えた。


 こころもとなくムーウを救おうと何度も甘ったるい言葉を撃ち続けてくれた女の子を、今度はムーウが、迎えに行く。


『――あたし、シャノンというの。シャノン。氏はシノ。友だちになってほしい。あたしにとっては最後かもしれない。人の人生にあまり口出しすべきじゃないっておもうけれど、明日も来てほしい』


『人生、だなんて大袈裟では』


『ううん』


 繋いだ手の、内心ひやっとするほど冷たい温度。


『このお店には看板がないでしょ。死んじゃいそうな人しかここを見つけられないの。いのちに関する悩みを持つ人だけがあの狭い階段を降りてくる。だから、人生だよ。人生が変わる瀬戸際』


 珈琲は苦いけど、甘くて美味しい飲みものにもなる。人間はなんでも好きなように自分を変えることができる。――人にはそう言いながら、自分の運命だけは決して変わることが無いとシャノンはいのちがけで知っていた。チョコレートシロップは珈琲を飲みやすくしてくれるが、珈琲を珈琲じゃないものに変えるわけではない。


 自分だけ死へ取り残されて、それでも甘く、甘ったるく、ムーウを未来へ送りだそうとしてくれていた。


 そういう女の子だった。

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