3-15.

 ユアンを都市のにぎやかな通りへ見送り約束通り白い無地の扉を開ける。なかへ入るときに突如背後から強く押さえつけられ声をあげるまもなく殴り倒されていた。


 ドアが閉まる。


 ビルの五十階から百階の高さでランダムに国内上空を移動している学生寮は、なにせ寮全体が浮遊しているので、地上から階段などで出入りすることはできない。魔法で〈瞬間移動〉して入るのだった。


 そのために部屋の持ち主はブルートパーズの鍵を使って魔法のドアを出現させる。部屋に入ると閉じたドアは校門前から消え、もう誰も勝手には出入りできなかった。


「ふん、これが首席だけにあてがわれる根無寮ねなしりょうか――噂にゃ聞いていたが、ほんとに浮いてんだな。どうせ裏口入学のくせに……」


 侵入者が部屋を見まわして吐き捨てた。鍵を持っているユアンか、寮の管理人に気がついてもらわなければならない。考えながらムーウは手足を動かそうとしてみるがうまくいかなかった。護衛人を呼びだす魔法陣を書き始める。


 きつく男に拘束され、気がついたときには右手首を切りつけられていた。


 鋭い衝撃があった。


 きっ、と激しく男を睨みつける。男が鼻で笑って「しー静かに……」言いながら彼自身の右手首を一瞬だけ握る動作をした。


 ユーザー辞書起動。自分の利き手を封じてみせる動作つまり右手首を左手で握ることは「今すぐ魔法を引っこめないとお前の手首を切り落とすぞ」との乱暴な意味を表す場合があり、使から、第二次魔法期直後に浸透した。


 ムーウは暴れるのをやめた。かけようとしていた呼びだしの魔法も、利き手に怪我をしたことによって自然解除された。切りつけられた手首に生あたたかい感触がある。血が流れているのだろう。


 腕力では男に勝てない。


 魔法を使って逃げることもできない。


 ユアンも呼べない。


 完全防音の部屋で叫んでも寮の管理人は気がつかない。


 この男が攻撃系の魔法でも使ってくれたらアラームが鳴るのに、彼はそれを分かっているからかあえて魔法をいっさい使わずこの犯行に及んようだ。


 睨んだ先に、目に痛いショッキングピンクの髪が見えた。あ、とおもった。知っている人だった。


『おーいムーウちゃん、さっそく取り巻きを引き連れてんのかぁー……おい無視してんじゃねえよ、ノクテリイ・ムーウ!』


 入学式のあとムーウのフルネームを呼んでユアンにボコボコにされた挙句警察へ引き渡されたあの男だった。戦闘科のピンバッジをつけていて、仲間と店先でジョッキを傾けながら騒いでいた。父との不仲のことや母の死のことを楽しそうに話題にしていた、あの――。


 学園の戦闘科といえば卒業後は王族や貴族、政治家などの要人の護衛にあたったり、軍や警察の特殊部隊として世界を飛びまわったりする。


「てめえのせいで」


 ぐっと胸が圧迫されて息が詰まった。


「てめえのせいで王守おうしゅの内定を取り消されたんだよ」


 ユーザー辞書起動。王守とは文字のまま王族の身辺警護を担当するエリート中のエリートのことだ。数年に数人程度しか募集がないためいくら世界最難関の学園を卒業するとしても王守になれる人間はほとんどいないに等しい。


 受かっていたのか。ムーウは驚いた。受かっていたのにムーウの被害届のために取り消されたのか。それは恨まれても仕方がないかもしれないとおもった。


 手首が痛い。切りつけられてからもう五分以上経ったかな、とぼんやり考えた。ユーザー辞書起動。〈修復〉は五分以内に壊れた物体について有効だ。利き手の怪我を〈修復〉できなかったから何日かは魔法が使えない不便な生活を送ることになる。


 考えておかしくなった。この男がムーウをただで開放するかは分からないのにな。ははは。


「わたしをつかまえてどうするおつもりですか」


 ムーウはおもう。


「てめえ……」


 ――殺してくれませんか?


 腹をおもいきり殴られて咳きこんだ。男が〈契約〉魔法を広げる。なるほど、王宮から内定がもらえるのは伊達ではないと分かった。


 一介の人文科学生に過ぎないムーウには内容が詳しくは分からなかったが、無詠唱で書かれた魔法陣の巨大な文字コードが部屋中の床を埋め尽くす。ただの〈契約〉魔法ではここまで巨大な魔法陣にならない。あとから警察に捜査されにくいよう残り香が少なくなる魔法が入れこまれているんじゃないかなと悠長に思考していた。


 ムーウの首へ手を掛けながら「〈契約〉しろ」と男が言った。


「被害届を撤回すると〈契約〉しろ」


「お断りします」


「立場分かってんのか、てめえ」


「ええ。お断りします」


 ひたと男を見据えた。ショッキングピンクの髪は乱れ、無精ひげをはやし、濃いクマもできている。おもいつめた様子でムーウの首を絞め始めた。こんなことをすると余計に状況が悪くなるということがもう冷静に考えられないようだった。


 息ができない。


 ぽろっ。涙がこぼれた。からだ中のちからが抜けていく。ぼぅと気怠くなった。これでいい、とおもった。ぽろっ。何故泣くのか自分でも分からなかった。男の声が遠のいていく。別に被害届なんかどうでもよかった。撤回してやればよかったのかもしれない。分からない。


 なんのために生きてきたのかなぁ……。


 視界がかすむ。


 意味の無い涙がまた落ちる。


 ――これでいい。ムーウは意識を手放した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る