2-15.

       ◆


 微粉があってはいけないのだとマスターは言った。


「メッシュが不揃いにならんよう気をつけて挽いてもだな、微粉はどうしても出ちまうもんだ。これが多すぎると抽出オーバーを引き起こして渋みやえぐみのもとになる。んで、こうやってこまめに手入れするわけだ……」


 分解した手まわしミルの部品を一つ一つ丁寧にブラシではたき、楊枝や布巾で細かな珈琲粉を落としていく。


「どうしても出てしまうんですか」


「出ちまうなあ。完全にはなくせねえ。ま、雑味をどんだけ減らせるかが俺の腕の見せどころよ。この手のミルは水気が駄目だからな、面倒だがこうやって分解して古い粉を取り除く」


「地道ですね」


「そういうのが好きで店をやってんだ、構いやしないさ。――ところで、受け取った品物はどうよ。ジオルたち、仕事は確かだろ?」


 ムーウは手にした細いブレスレットを見つめた。


 純金製で、ところどころに小粒のダイヤモンドがはまっていて、ひかりにあたるときらきらする、繊細なつくりのブレスレットは、先ほど双子の独立装置調律師であるヤズーとトーガから手渡されたもので、ものごころついてから肌身離さず大切にしてきた母の形見の見ためは変わりがないので、人文科のムーウには変化が分からなかったが、永久用グリクトとして使えるように大量の魔法陣が刻みこまれていると説明を受け、〈保証書〉を受け取った。


 この細い貴金属がいざというときにムーウを危険な場所から〈瞬間移動〉させたり〈シールド〉で障害物から守ったり〈修復〉や〈治癒〉でいのちを助けたりするのだという実感は正直まだあまりわかなかった。


 そうか、あの二人は姓をジオルというのか。と、もう会わないかもしれない人たちのことを考えていると、


「ジオルたちもここの常連だからな、もし装置を使っていて不具合が出たらまた相談したらいい。珈琲でも飲むついでにな。……おっ、そうだクォル、アールグレイ買っといたぞ。飲むか?」


 カウンター右手側の壁一面にぎっしり紙版本が並んだ本棚の、背表紙を無言で眺めていた教官がマスターへ軽く手をあげて、


「ん、どうも。悪いが今日はこのあと用があってな」


 相変わらずの平板な声だったがちょっと親しげなのにムーウはびっくりした。


「せっかく来たならゆっくりしてきゃあいいのによ」


「また来る」


 かつっ、かつ、と杖の音を響かせて樫のドアを開けた教官にムーウは慌ててついていった。店のすぐ外、人一人やっと通れるくらいの暗い階段の前で青年に追いつく。


 この階段で初めて美しい青年に会った。珈琲店に入るきっかけをくれた。珈琲の淹れ方を教えてくれた。そのままのムーウでいいと言ってくれた……。


 腰まで流れる透けるような白銀の髪がさっと風に動く。振り向いた教官にムーウはなんと言ったらいいのか分からなくなって一瞬言葉に詰まる。


 雨の音が静けさを埋めていく。


 めまぐるしく感情が揺れ動いて、言いたいことがたくさんあってかえってなにも言葉が出ない。


 そうしているうちに教官のほうから声を掛けてきた。


「本日グリクトを確認したので装置の再検査は免除する。それと貴方に、ひとつ。一桁グリクトをガラクタと呼んだことについて謝罪する」


「は――ガラクタですか、ええと、えっと――」


 今日の講義でゴウ以外の友人たちが教官を最後までおもいださなかったこと、先週名乗りについてあんなに騒いでいたゴウですら教官を影の薄い人だと言っていたこと、異常な、教官の忘れられやすい性質のあることを、ムーウは認めたくなくて、教官が言っている、ブレスレットを彼にガラクタと呼ばれたというエピソードにちっともこころあたりがないそのことがとてつもなく悔しかった。


 困り果てて懸命に記憶を探っているムーウに教官はいつもの無感情な調子で言う。


「昔、信じていた友にかけられた呪いだ。私の人間関係はやんわりと消されていく。記憶安定装置を持ち歩く変わり者でもない限りほとんどそうだ。おもいだせないからといって貴方が申し訳なくおもう必要は無い。こうやって話したところで数日経てば貴方も忘れるだろう」


 言葉が出てこない。


「だが、貴方が忘れても、私は覚えている。先ほど双子が話していたが、グリクトはご家族の形見だそうだな。……入学式のあと、装置検査のときだ。私は貴方に『ガラクタで検査を誤魔化すな』と言った。適切な表現ではなかった。謝る」


 ムーウは泣きそうになった。教官がふっと――珍しく、優しげな表情で笑った。


「案ずることは無い。この珈琲店には私のための紅茶がある。それで充分だ」


「――あの、わたし、」


 ムーウは目にいっぱいいっぱいちからをこめて涙が零れ落ちないようにした。両手をかたく握りしめ、毅然と教官を睨むように見あげる。


「――また、殴りますから。愚かな名乗りをするたび殴りに行きます」


「ふん。それまでお互いに死に損なっていたらな。……では失礼する」


「また会いましょう」


「ああ。さようなら」


 さようならとはこの人が発するなかでいっとう悪趣味で、意地悪で、胸がぎゅっと苦しくなるくらい、かなしい挨拶だとおもった。


 そしてそれは紙の本みたいだ。紙の本は棚に忘れられて、埃をかぶって、何ヶ月も、何年も手に取られることなく放置されて、でも淡々と人を待っていてくれて、何度忘れられようとも泰然と、長い文章を尽くして寄り添ってくれる。


 息のつまる魔法社会を春の小雨がゆるやかに濡らしていく。

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