2-10.
ムーウの古いグリクトに魔法をかけようとしてまたマスターからげんこつをくらったヤズーと、その弟の二人は、
「史上最年少の独立装置調律師たちの営業を妨害していいとおもっているのかいマスターよ」
「お前さんらが珈琲店の営業を妨害してんだろうがよ」
「魔法を少し使うくらいでいちいち目くじらたてるとは……」
「少しじゃねえぞ馬鹿たれ。グリクト作ろうとしてんだろうがよ。何百個陣を広げる気だ? あぁん? 一つでも広げたら消す」
「消すってなにを? 魔法を? ぼくのいのちの灯を? その物騒な笑顔をやめてくれないか、おそろしい珈琲店だよまったく」
「……と言って今こっそり魔法を使おうとしたな? 殺されてえんだな?」
「マスター。聞き分けのないやつで申し訳ない」
ごつん。
「美味しい珈琲のためだ、行こう。ヤズー?」
「やれやれやむをえん……行くぞ、トーガ!」
などと言いあったあとマキアートを飲んですぐ退散していった。
二人が樫のドアを開けたときも外から大雨の音が入ってきてムーウはなんだかほっとする。明るい春の陽差しより暗い土砂降りのほうがずっといいとおもった。
マスターに呼ばれてカウンター席へ座るとあたたかいエスプレッソが出てきた。
「お前さん、珈琲の苦味を楽しむ派だろ。非魔法珈琲のエスプレッソがきつすぎねえかどうか試しに飲んでみろや」
と言われカップを受け取る。ちいさくて分厚いエスプレッソカップを両手で包みこむように持つ。クレマに覆われた苦味が濃密に、とろり、と口のなかでとろけていく。ほんの何口かで飲み終えてしまいそうで、じっくりと、一口ずつ堪能する……。
心の奥に積もり積もったかなしみがこの深いコクのなかにとけだして洗われていくような気がする。なんとも表現のしがたい、言葉では言い表せない苦味の幾重にも重なった味と、苦味だけではない中深煎りの豆の個性を引き出す淹れ方に、マスターの繊細さを感じて感嘆した。
――彼の腕や顔にある傷はムーウが自分でつけるようなものとは違う。ふとくギザギザした切創や銃創、縫った痕、ケロイド、この魔法社会において「傷がある」ということそれ自体が異質だ。〈修復〉すれば大抵の怪我なんて治ってしまう世界で、どうして治せなかったのか。
只者ではないとおもう。ほんとうはこんなところで珈琲を淹れているような人物ではないはずだ……。
男性にしては少し長めのウェーブのかかった金髪、茶褐色の瞳、彫りの深い顔立ち、現実離れした、数々の傷。ほんものの地獄を経験したかもしれない人。
ムーウは考える。自分は確かにあのパーカーの人が言っていたように「甘ったるい金持ちのお嬢さま」だ。大怪我をしたことも餓死しそうになったことも無い。こうも実害の無い幸福のなかで、これほどまでに甘ったるい場所にうまれてきたにもかかわらず、それでも「生きる」にピントがあわない。
世界最弱の生きものだとおもった。ムーウがいなくなることは当然の自然淘汰でしかなく、アポトーシスだ。細胞だって自らいのちを断つのだから細胞の集合体である人間がそうしたってなんら問題ない。
熱いエスプレッソが口のなかでとける。涙が流れた。ぼたぼた大粒の涙が落ちた。嗚咽がとまらなくなった。
――要らないと一度言ったものを、ほんとうに要らないことにできるなら、こんなに迷うこともないのにな。うまれてきてくれた人を、出逢ってしまった人を、大事にしてきた人を、その思い出を、ある瞬間をもって「実は要らなかった」ってことにできたなら、強さ(であり弱さ)をわたしが持っていたなら、もっと正しくなれたかな。
死んでいない、が、生きている、になるわけじゃないということを知らなかった、子どもの頃の幸福がもうあんなに遠い。
年を重ねるごとにこの星の彩度は落ちていく。
笑顔を行使するたび自己が滅びていく。
意味が壊れているのに今日もまた生きた。
なにもかもがエラーだ。
足掻いて足掻いて足掻き続けていても一生消費しきれないこのかなしみはいったいどうしたらいいのだろう。
ぼたぼた涙がこぼれる。小説を書きたい。書いても人生という病は死ぬまで解決しないけど。
『甘ったるい金持ちのお嬢さまにどんな事情があってもぼくは興味ないね』
何年も待っていた誕生日と、二十五時間ほど食事もとらず待ち続けた殺風景な応接室の、真ん中に置かれた向かいあわせのおおきな革張りのソファー、指紋一つないガラステーブル、そこに広げた空中ディスプレイの教科書とノート、白い壁の掛け時計の秒針を数分おきに見ていた、あのとき、十歳のとき、あの日に、父からもらうべきものだった。今さら学園の先生に買ってもらうものじゃない。
祝福されず、どうしてうまれてきたんだろう。
頭に遠慮がちに置かれる手があった。マスターのふとい腕が涙でぼやけた視界に映る。戸惑うように、ぽん、ぽん、と優しい手がムーウの頭を撫でてくれる。
「なにがあったか知らねえが、泣いちまえ。な? ぜんぶ出しちまえ。よしよし。大丈夫だからなー……」
人にそうされたことがなくて、その優しさがしみて、ムーウは声をあげて泣いた。
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