1-15.

       ◆


 帰ってすぐにしたのは自室の壁紙をオンにすることである。


 曇った星空のなかを浮遊する寮で、足元の住宅街を常に見おろしているとクラクラしてくるから、外の景色が見えないよう床と壁紙を可視化するスイッチを押した。


 毛足の長い絨毯を踏みしめて数歩進み、常に持ち歩いている古書みたいな革張りの手帳をライティングビューローへ無造作に投げだす。椅子に腰をおろして使用人を手招きした。


 月明かりに照らされて見える整った顔は、ヒトロイドグループの商品らしいよくできたものだった。眼鏡はアンティーク好きなムーウがわざわざ用意した品で、戦闘中のユアンにとって弱点になりやすい目を守る防弾仕様だ。すらりとした長身と、艶のある黒髪、べっこう色の瞳……よくできているが彼は人間ではない。


 目線があう高さまでかがませてから、一言一言を区切るように問いかけた。


「感情を、オフにしてって、言ったとおもうのだけど?」


「申し訳ございません、お嬢さま。命令に背き、感情をオフにしておりませんでした。私はお嬢さまが心配です。あなたは、もしあの場で呪いをかけられたとしても抵抗なさらなかったのではありませんか」


 だからどうだと言うのだ。ムーウは沈黙したまま無表情に使用人を見おろす。抵抗しないからどうだと言うのだ。なあ。だから、どうだと、言うのだ。


「いいですか、殺されていたかもしれないのですよ――」


「ユアン。戦闘科の学生は喧嘩っ早い人々ばかりだし、下手に言い返したら大怪我をすることになるかもしれない。そうおもったからわたしは言い返しませんでした。結果、大怪我になった。もちろん相手のことだけれど。貴方は人間にとって強すぎるの。解る?」


「そういう問題ではな――」


「ノクテリイ家がお客さまに怪我を負わせたとニュースにでもなってみてご覧なさい。あそこで彼らが言ってた通り、世間がどう曲解するかは一目瞭然で、それに、」


 カーテンのスイッチをまだ入れていないので窓からは雲に薄く覆われた曖昧な星空が一望できた。今雨が降っているかどうかはこの位置からは判らない。点在する雨雲はところどころ分厚く垂れこめて、空の真下の住宅街へ、時折細かい雨を落としている。


 ぼんやりとした月明かりだけの部屋で、精緻なレース編みの傘をライティングビューローのマホガニーの木目に立てかけてみた。


「わたしは呪われてもどうでもいい」


 かたちのよい顔を俯かせていたユアンが視線をあげた。真摯な表情で主人を見つめる。ムーウの趣味で持ちこんだ、音の鳴る振り子時計が二十三時を示す。しとしとと雪が降り積もるような色の声で、ムーウは告げた。


「コマンド。記憶調整プログラム起動。設定は残し、わたしたち二人の関係について感情・記憶をユアンからデリート。繰り返す。コマンド、デリート」


 ぜんぶ消えてしまえばいい。


「デリート。デリート。デリート」


 四歳の子どもが販売代理店による設定ミスで亡くなったことも。母親が産後すぐにムーウを置いて死んでしまったことも、父親がムーウを一度も呼ばず、声も掛けず、世界最難関の国立学園に自力で首席合格したにも関わらずそんな一人娘などいないものとして振る舞うことも、有名税としてあらゆる侵害を受けることも、消えてしまえ。


 お嬢さまっていいなぁ。入学式で聞こえてきた囁き声をおもいだした。あんなに恵まれて、生きててつらいことなんてなんにもないんだろうなあ!


 そうだ、消えてしまえ。


 羨ましいのならすべてくれてやるのに。


 ムーウはライティングビューローの引き出しを乱暴に開けるといつものカッターを取りだす。細いブレスレットを壊さぬよう左腕にあてておもいきり引っ張った。使用人は設定に数分かかるため微動だにせず跪いている。


 ぶづっ、と皮膚に刃がめりこみ、ぐぢ、ぢ……生々しい音をたてながら肉を切り裂く。


 涙がこぼれた。


 幸せだよ。わたしは幸せだ。家で飢えたことも殴られたこともない。だからどう対処したらいいのか分からない。


 自分はどうして生まれてきたんだろうか。


 そんな、考えても答えのない考えにばかりとらわれ、繰り返して、人生が何年間もとまっている。


 使用人はまだ無言で跪いている。月が雲に隠れて部屋が真っ暗になった。


 ムーウは泣きつつ「修復」と呟く。数分かけて何本も切りつけたはずの傷はひとこと呪文を呟くだけで嘘みたいに跡形もなくなった。


 魔法って真綿で首を絞めるように便利だ。このかたちの無い苦痛がムーウという人間をかたち作っている。分厚く心臓を覆う肉塊は、少女が今此処で確かに感じているはずの鋭い痛みを無かったものにして、雨雲で星空を隠すのと同じに、なにもかもを曖昧にしてしまう……。


 カッターをライティングビューローに置いた拍子に先ほど立てかけた傘が床へ倒れた。毛足の長い絨毯がその音と衝撃を吸収する。白くて、繊細な花模様のレースが編みこまれた、傘。


 傘は雨から身を守るための影を作る。何度もこうして切っては治し切っては治してそれでも切らずにはおれない、手動で影を作っている自分のようだとおもう。ひかりからはほど遠いな。覆ってばかりいてほんとうの自分なんてとうに分からなくなった。


 涙がぼたぼた流れる。


 きゅいん、と動作音がして使用人は顔をあげた。記憶の削除が終わったのだ。ムーウはゆっくりと微笑んで彼へ手を差し伸べた。雲が通り過ぎて月は戻り、部屋全体がぼうっと明るくなった。傷ひとつ無い真っ白なムーウの腕が照らしだされる。


「初めましてユアン。今日からあなたの主人になったノクテリイ・Mと申します。まずは部屋の明かりをつけてくださる?」


 使用人が深く頭をさげた。

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