04.




「目を閉じながら人探しとは。器用な芸当をする」

「め、目は開けてました」

「ではカメを人間と間違えるほど混乱していたのだろうな。悩みがあるならスクールカウンセラーを利用するといい」

「悩みなんてありません。これっぽっちもまったく一つも」

 身辺整理を済ませて部屋から飛びだしてきたことについてはまるごと棚にあげたし、屋上にあがりたい人生だった。

 少女は彼の姿に気づかなかったことに恥じいって顔を赤くし時折青くもなり何度目になるか分からない謝罪をしようと息を吸ったところで、

「そうか。悩みがないのは結構なことだ。だがカメと人間の見分け方については悩んでもいいかもしれん」

 少女は静かに口を閉じ、深呼吸した。微笑んでみせながらあえて一言一言を丁寧に発音する。

「ですから、無礼をいたしまして、大変申し訳ございませんと、かれこれ十分ほど繰り返しているわけですが、どうしたら、お赦しいただけるのでしょう」

「赦す? 別に怒ってなどいない」

「…………。……だったらこの会話はなんなのです」

「退屈しのぎのはずだったがしのげていないな。退屈だ」

「……無礼な人……」

 唇を噛み黙りこんだ少女に一瞥もくれず青年は世にもつまらなそうに文庫の紙版本をめくった。顔に似あわず最近流行りの恋愛小説である。会話中も始終こんな調子でページをつまんでは無表情で眺めている。この男は人に対する言動のみならず読書態度までもが失礼だ。

 作品には作者がいて、痛切なおもいがあって書いていて、受け取る側も、同じ人間として最低限の敬意を払うべきだとおもう。

 そして自分の現実逃避はそろそろここまでだともおもう。

 急激に思考が冷えていくのを感じた。両手で包みこんだマグカップはもう冷めきり、珈琲は底のほうに1センチもない。言いあいをしたり微笑んだりするからだだけが、勝手に日常生活を取り繕ってくれている。ほんとうの自分は膝を抱えて泣きながら、紙版本のフィクションみたいな世界で、自分のからだがうまく笑えているかどうかについて監視している。なんだか疲れた。

 疲れてしまった。

 ――しまった、とおもったときには遅かった。ぽた。カウンターテーブルに載せていた手に水滴があたる。ぽた。温度をなくした遺体になりたいのに、こんなときでも涙はあたたかい。

 世界が閉じていく……。

 自分がなにをしているのかが分からなくなっていく。少女のからだが自動的に笑顔を浮かべ、ゆっくり持ちあげたカップで顔を隠す。ほとんど残っていない黒い液体を時間かけて飲みきると、美味しかったですと当たり障りのない感想を添えてソーサーの窪みへカップを戻す。横ではなにやらアルバイトの女の子が青年にまくしたてているようだ。少女の美味しかったですを聞いていたのはマスター一人だったけれど、それに対するマスターの表情も見えないし、返事している内容も分からない。音がなにもかも水へ沈んだみたいなぼわんとした曖昧さで鳴っていた。適度に微笑で応えてまた、ハイヒールを響かせチェアーからすべりおりた。涙ってわりと他人には見えないものだ。透明だから簡単に無かったことにできる。

 自力で笑えないときに人と会ってはならない。

 人生の基本だ。

 虚ろな挨拶を落とし可もなく不可もない一般人として退場した。しようとした。手をつかまれていて、陶器人形のように生気の無い指がか細く少女の左手を絡め取った。息切れした女の子の必死に張りあげる声が、でも迫力皆無な声が耳に飛びこんできた。

「謝ってよっ!」

「ああ。わかった」

「なにっ!? 謝んないだとっ!? せっかく友だちになれそうな子が店に来たところであんたが怒らせたせいで帰ろうとしてるのに!? せっっかくあたしが人見知りせず年の近い子に話しかけるチャンスだったのに!? せっっっっっっかく連絡先の交換を企んでたのに!?」

「いや、人語を解する脳はあるか? 悪かったと言っているだろう。おい。先ほどの無礼を詫びる」

「謝る気がないとかどういう神経してんの!? あんたが失礼すぎてこの子ヤバげな微笑みを浮かべてるんだよ!? このまま帰していいの!? こっわ! 謝って! 今後の友情にヒビが入るじゃん!」

「まだ十八時前だな。訊くが」

 初めて青年が顔をあげてこちらを見た。

「このあと忙しいか?」

「はい」

 まっすぐ尋ねてきた青年に、おもわず即答していた。

「そうか。ではその予定をキャンセルすることだな。マスター、彼女になにか甘いものでも」

 状況を把握できずぼんやりとした笑顔の少女の前で、マスターがぞんざいにメニューを示した。照明の暖色をそうっと伸ばし広げたような色あいの紙だ。

「うちは珈琲しか出さねえんだけどよ?」

「いいから適当に出せ。貴方がいつもその辺で貪り食っているチョコレートかなにかあるだろう」

 少女の左手を握るアルバイトの子の指にちからがこもった。

 こうして、ビルを探しに行かなくてはならないはずだった少女は何故かまだ珈琲店から出られないことになった。

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