第95話、その女、魅皇と名乗りて。
冷たいアスファルトからは、しんと静まり返った室内の異様さが際立っていた。それは、エレベーター内部で見ていた異常な空間からのギャップに脳が麻痺してしまったためだろうか。それとも、この部屋を漂う異様な空気感が俺の本能を恐怖させているからなのか。
春も半ばとなり、暖かい日々が続いていた今日この頃。日が暮れ夜となっても気温は下がりきることなく、過ごしやすい時期だ。それにも関わらず、この部屋は寒い。寒すぎる。体感温度が突然3℃ほど下がったような気になる。
「……ここは、どこなんだ?」
周囲を見渡すも、鼠色のコンクリートが雑多に敷きつめられた空間だという印象しか抱かない。また、家具も美品も一切ない。本当に何も無い。
「なんというか、引越し後のオフィスって感じだな」
一階のロビーに見られた照明も、煌々と輝くエレベーターもない。本当に何も無い空間だ。
「なんでこうも何も無いんだ……?」
と、声を漏らして気がついた。
俺の心の中でモヤモヤと広がっていた違和感の正体に。
「扉が……ない?」
そう、この部屋にはドアがないのだ。それどころか窓もない。アスファルト。四方をアスファルトに囲まれた謎の部屋だ。
「な、なんだこれは!?」
思わず恐怖に引き攣る頬を、冷や汗がそっと伝う。
そんな俺を嘲笑うかのように、クスクスと笑い声が聞こえてきた。
「……っ!?」
「うふふふ……あははは」
笑い声は次第に大きくなる。部屋が冷たいせいか、それとも声の主のせいかは分からないが、室内に白いモヤがかかってくるのが分かる。これは、霧だ。
「誰だお前は。どこにいる!」
「おっと、それは失礼仕った。わっちが見えぬのでありんすね?」
声の主は、笑いを堪えたままそう尋ねると続け様に俺の方を叩いた。
「ほぉら、後ろに」
「な……!?」
慌てて振り向くが、誰もそこにはいない。人の気配はしない。
「なんだお前は、どこにいるんだ!」
「あはは、わっちはお主をここへ呼び込んだ張本人でありんす。ほうら、この声に覚えはありましょう?」
姿は見えない。だが声のする方向はわかる。俺の周りをぐるぐると回るように、笑い続ける女の声。俺はその声をどこかで聞いた気がした。
「いや、お前もしかして」
教室で噂話をしてた声だ。
「あはは、ようよう思い出したことは偉うありんすよ。わっちの名は
魅皇、こいつが魅皇だったのか。窮鼠を使って俺たちをビルに閉じ込め、以津真天の命を代償にここまで案内させた張本人。
「ふむ、少々暗くて見にくいでありんしょう? ほうら、明るくなった」
背後でそっと囁く声が聞こえたかと思うと、頭上からボトリと何かが落ちてきた。白くて、両手で軽々持ち上げられそうな程度の大きさの……。
「猫の、死体ッ!?」
そこに転がっていたのは、口から血を吐き眼球が飛出た猫の死体だった。おそらく死因は交通事故。どこで死んだのかは分からないが、それが突然天井から降ってきたのだ。
「な、なんだこれ……」
思わず絶句した俺の前で、猫の死体は突然発火する。まるで最初から火薬が仕組まれていたかのように、突然明るくなり室内を強く照らした。
「ほうら、見やすい」
魅皇の声がする中、燃え始めた猫の死体はだんだんと膨れ上がり、体の中からタイヤが飛び出してそいつを覆う。
その姿を俺は知っていた。
「……火車」
「ほう、流石は天照大御神さまのお近くにいらっしゃっただけのことはある。ご存知でありんしたか」
その声がする方に目を凝らすと、火車の光に当てられて若干人の姿が見えた気がした。
「ほうら、見えるでありんしょう?」
そこで微笑む女性は、何となく透けているような気がしたが、そのシルエットを把握するのに大して時間はかからなかった。
真っ黒の腰まで伸びた黒髪を持つ巫女服の女性。その体は蒼翠の鱗に覆われており、火車の放つ真っ赤な光が乱反射していた。
また、彼女の頭からは鹿のような二本の角が生えており、暗闇の中で金色の瞳だけが輝いているように見えた。
「失礼失礼、客人を持て成すつもりではありんしたが、思わず遊んでしまいました。改めましてこんばんは。わっちは魅皇。魑魅魍魎を束ねし
優しく微笑むその姿から、今までの敵とは圧倒的に異なるオーラを感じとれた。
「なぜ、なぜ俺をここへ呼んだ!」
警戒心から思わず声を荒らげた俺に対し、火車が火を吐いて唸り声を上げた。
「おい、貴様! この方を八百万の神頂点にも匹敵しうる存在だと知っての
「八百万の神……?」
もしかして、あのエレベーターの数字の意味が示していた階級というのは神様としての階級だろうか。
「よいよい、火車よ。わっちは何も怒ったりはしないでありんす。今日はただ客人に相談があってお呼び立て申し上げたのでありんすから」
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