第63話、水分を補給せんと欲す類人猿也。

「これで、いいですか?」


 ガコン、と心地良い音が足元で鳴る。それを聞いてバーニングさんの表情はまるでおやつを前にした犬のように緩くなる。頬の筋肉が緊張を辞め、目尻が弛んで目線が揺れる。


はように渡せば良いものを。渋々としおって。ほれ、妾に献上せよ」


 なんでこいつは上から目線なんだよ。まぁいいや。


「どうぞ」


 一番安い水ですら100円。2分は戦える貴重な金額だ。


「大事に飲んでくださいよ?」


 思わず心の余裕のなさが言葉にも現れてしまった。自分でもわかる嫌味な言い方だ。しかし、バーニングさんは既にペットボトルに興味関心が惹かれているらしかった。


「ほんに不思議よのぉ。妾の生きる世にはこの様なナゾナゾハテナフシギちゃんな容器は無かったぞ。面妖よなぁ。よもや妖の皮膚では無いのか?」


「ただのプラスチックですよ。ってか、ナゾナゾハテナフシギちゃんってなんだよ。聞いたことねぇよそんな日本語」


 苛立ちが俺の精神面を酷く強く刺激しているのだろう。思わず初対面の女性に対しツッコミを入れてしまう。しかし、そんな俺など眼中に無い様子で彼女はペットボトルのキャップを乱暴に引きちぎり中の水を飲み干した。


「ってゴリラかよ!」


 驚愕する俺を無視して、彼女はぺちゃんこに圧迫されたポリエチレンテレフタレートの残骸を宙へと放る。

 空中で回転する半透明の容器からは、光を乱反射させた無色透明の液体が微粒な水滴となって飛び散った。


「んんっ! 美味いのぉ! あえてこの味を表現するのなら……そうじゃなぁ」


 口の端に付着したペットボトルの中身を、バーニングさんは無造作に和装の裾で拭いさってキメ顔をこちらに向けた。


「水の味がする!」


「水ですからね」


「なんじゃ? 妾の言の葉に何やら文句でもあるのか?」


 表情の変化が凄まじすぎる。先程まで酷く嬉しそうに緩んでいた頬が、急にピンと張り詰め目を吊り上げた。


「い、いえ。滅相もございません」


 思わずその圧に負けてしまった。なんというか、プロレスラーに恐喝されたような気分だ。逆らえば喉を片手で閉められ宙ぶらりんだろう。あの小学生が逃げたくなる気持ちもよく分かる。


 というか、こんな危険で乱暴で常識知らずの女性が、一体どうして今の今まで人目に触れず警察や他のヒーローに捕まることもなかったのか。不思議で仕方ない。


「さて、喉の乾きも潤ったところよな。次は腹が減った」


 あ、ヤバい。この流れは奢らされるやつだ。


「じゃあ、俺は用事があるので帰りますね。さ、さよなら!」


「おい待て」


「はいっ!」


 ほら来た。来ると思っていた。俺を呼び止めて夕食を奢れとかそういう事を言ってくるに違いない。


「いや、もう俺……所持金がなくて」


「……ん?」


 後退りながら残りの所持金を気にする俺に対し、バーニングさんは話の検討もつかない様子で首を傾げた。どうやらお金を出せとかそういうことでは無いようだ。


「えっと……、なんでしょうか?」


「い、いや。そのな。あ、あれじゃ」


 どれじゃ。


「わ、妾の胸についてな。う、うぬはどう思うておるのじゃ?」


 どうもこうも……。今の時代珍しいとしか言いようのない、和装から覗く胸は非常にイヤらしいとしか。いや、別に俺が変態とかそういう訳では無い。なんというか、歴史の教科書で見たことあるような遊郭の格好というか。赤と黄色を基調とした豪華絢爛たる衣装の隙間から覗く巨乳をなんと表現したらいいのかとんと検討がつかない。


 あえて文字にし、言葉に出すとするならば。


「すっごく、大きいです。素敵です。はい」


 あー、俺のヒーロー人生はこれにて終幕。ジ・エンドってね。確実に警察沙汰だ。見ず知らずの初対面の女性に対し「おっぱい」と叫んだ上に大きさを褒めてしまうだなんて。

 きっと録音されてて、これから警察に突き出されて事情徴収でもされるのだろう。さようなら佐藤亜月さん。さらば初恋の人。俺はこれからヒーローを辞めてムショ暮らし……。


 と思ったが、バーニングさんからはなんの行動もない。


 何事かと、俯いている表情を覗き見て俺は言葉を失った。


「…………っ」


 バーニングさんは、恍惚の表情を浮かべ、真っ赤な頬でにやけていた。

 俺はこの瞬間に気づく。この女、むっつりスケベだ。


「あー、んじゃ、俺帰りますね」


 痴女と絡みすぎて俺が犯罪者になるのは避けたい。こんな姿、亜月さんにも父親にも見せられない。


「お、おう。妾は満足じゃ。またいずれ」


 そのいずれがあってたまるかよ。とは言わず、俺は自販機から吐き出されたお釣りの分重くなった財布を握りしめて帰路に着いた。

 さっさと帰って今日のことは忘れよう。そう思い、二つ目の角を曲がったあたりでふと思い出す。


「そういえばあの人、お腹空いたとか言ってなかったか……?」


 ふと、嫌な予感が脳裏を過った。

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