イモウトノシアワセ

 日が暮れる前に帰宅できた。玄関を開けると、香織がパタパタとスリッパ音をさせつつ出迎えてくれた。


「おかえりなさい、兄さん」

「……ただいま。香織ひとりか? 父さんと義母さんはどうした?」

「母さんたちは……仲良くどこかへ出かけちゃいました。わたしは別に予定もなかったので、勉強が一段落してからぼんやりと……」


 夫婦そろってデートか。まさかまたホテルへと……いやいや、別に法に触れているわけじゃないし夫婦仲がよいのはいいことだ。下世話な妄想は控えよう。


 それにしても……いくら受験生とはいえ、遊びたい盛りの中学生が休みの日にひとりで家にこもってるというのも、ちょっと不健康じゃないのか。


「……ごめんな。ひとりにさせて」


 以前、香織が熱を出して一人留守番させていた時に、『寂しくて泣きそうでした』と言われたことを忘れちゃいない。それゆえにそんな謝罪がまず口から出たが、香織は首を左右に振って気遣いの否定をしてきた。


「大丈夫です。だって、兄さんが帰ってくる家はここだけなんですから」


 ――――だから、寂しくない。そう付け加えるかのように、精いっぱい香織が笑顔を作り俺へと向けてきた。


 少しだけ、胸の奥が痛む。


「そうか。俺も今日はもう何の予定もないし……香織とおしゃべり、したいかな」

「……はい! 嬉しいです!」


 靴を脱ぎながら、香織の頭の上に手を乗せる。身長差がちょうどいい。

 香織は相変わらずいやな顔一つせず、俺にされるがままになっていて、なんとなく安心する。


「……まったく、こんなかわいい義妹をもって、俺は幸せだな」


 香織が瞬時に真っ赤に変化した。


「あ、あの、あの、わたし、かわいくなんか……」

「自信がないにもほどがある。香織の可愛さには太鼓判を押すぞ、俺が。というよりだな、香織、すごくモテるだろ? 学校でも」

「そ、そんなことありません! それに……」

「……それに、なんだ?」

「わたし、まだ男の人が、少し怖くて……」


 俺が着ているシャツの裾をギュッとつかむ香織があまりに可愛くて、思わずレッドカードを出しそうになる。


 思いとどまって少し考察すると――――男の人が怖い、というのはやはり、前の父親だった俊哉さんが香織につらく当たっていた、ということから来るのだろうか。


「こうやってお話したり、普通に接することができるのは、兄さんだけ、なんです……」

「……ふつう?」

「はい。兄さん以外の男の人に手なんか握られたら……卒倒しちゃうかもしれません」


 意識してやっているのかそうでないのかは不明であるが、こんなこと言われたら兄としてグッとくるわ。


 俺は思わず、シャツの裾を掴んでいる香織の手を握った。


「俺なら、卒倒しないのか?」

「!?!? ち、違う意味で、卒倒しそうですけど……あぅ」


 柔らかい香織の手をなんとなく離したくなくて、俺はそのままリビングまで歩いた。香織もうつむいたままついてきたが、耳が真っ赤である。


 そうして、ソファに腰かけながら、しばし二人でおしゃべりをした。


 香織は楽しそうに話してくれた。


 新しく友達ができたこと。

 西野美月にしのみづきというその友達の兄は、俺と同じ高校に通っていること。

 同じ高校に進学しようね、と誓いを立てたこと。

 俺のことを訊かれて、嬉しくなって自慢したこと。

 学校へ行くのが楽しいと思えるようになったこと。


 ――――そして。


「わたし、こんなに幸せでいいのかな、って、最近考えちゃうんです」


 それらを俺に伝えてくれたあとに、そうポツリと漏らす。それを聞いて、胸の中に何とも言えない感情が込み上げてくる。


 俺がそばにいるから、幸せだと、打算もなく言ってくれる義妹。そのとき俺の中に当然のように浮かんできた疑問が、躊躇もなく口から飛び出た。


「幸せって、どういうことを言うんだろうな」


 香織は予想だにしなかったであろう俺のその問いにしばしきょとんとしていたが、真剣に数秒考えた後に、おそるおそる自分の考えを述べてきた。


「……明日のことなんて、誰にもわかりませんよね。でも」

「……でも?」

「でも、明日のわたしは、きっと笑っている。そういうふうに思えることが、幸せなんじゃないかなって……」


 幸せというものに飢えていたであろう香織だからこそ、導き出せる答えなのだろうか。

 屈託のない笑顔でいる香織とは対照的に、俺の表情は徐々に暗くなっていくのが、自分でもわかるほどであった。

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