ハギレノワルイツグナイ

「……欣じい!」


 おそらく懐かしい、たった一人にしか呼ばれないであろうその呼び方に、須藤さんは目を丸くした。


「おや、これはこれは……由里嬢、思わぬところでお会いしましたな」


 この前の公園以来の再会。だが、須藤さんは駆け寄って抱きつく由里からすぐに俺のほうへと視線を移してきた。


「さらに小十郎殿までおられるとは……偶然、にしてはできすぎというか、運命的な何かを感じますな」


 穏やかな笑顔を浮かべながらそう言ってくる須藤さんの真意がつかめなくて、俺は愛想笑いでごまかすだけであった。


 ――――そして。俺も由里もそのあと須藤さんに対して挨拶返しすらできなかった。

 なんといえばいいのだろう。須藤さんがまとっている雰囲気が、なにやらただ事ではないように感じたからだ。


「須藤さん……またお越しいただき、恐縮です」

「いやいや。歳を取ると脂ぎったラーメンはなかなか厳しくなりまして。ここのラーメンは、そんな年寄りすらまた食べたくなるという魔力を持っています」


 そんな中、要子おばさんがスッと須藤さんの前まで歩み寄っていった。要子おばさんと須藤さん、二人の間に微妙な空気が流れているように思う。


「須藤さんなら、いつ来ていただいても、お代は結構ですから」

「そういうわけにはいきませんよ。きょうは客としてきたのです。ラーメン、お願いできますか」


 なんとなく食堂内の温度が下がったようで、俺はもちろん由里も朝斗も美久も、一斉に固唾をのんでいる。


「そういうわけにはいきません! 須藤さんには、謝っても謝り切れないことを……」

「……もう、いいでしょう。決して、俊哉さんだけが悪かったわけじゃない。私の孫も、道路に急に飛び出したりしなければよかったんですから」


 慈愛と、あきらめと、少しの『もう思い出したくない』という気持ち。

 そんな感情がミックスされたかのような須藤さんのセリフを聞いて、俺は一瞬のうちにすべてを理解した。こんな状況で、言葉など発することもできない。


「……だから、俊哉さんが孫をはねてしまったことは……もう、いいのです。それに、俊哉さんの思いのこもったこのラーメン、私の心にも……響きましたよ」


 努めて冷静を装う須藤さんではあるが。


 もう確定事項だ。


 ――――俊哉さんが酒酔いで起こした死亡事故。その犠牲になったのは、須藤さんのお孫さんなのだということが。


 ふと由里のほうを見てみると、ガタガタと震えている。詳しいことは知らないとしても――ただでさえ感のいい由里のことだ、だいたいの事情はつかめただろう。


「……小十郎、俊哉さん、って……」

「……ああ。要子おばさんの……」

「そう、ですのね……」


 極めて小さい声で、由里とそのような会話をした。俊哉さんが、要子おばさんの元婚約者かつ最期を看取った相手で、美久の実の父親で、香織の元父親。そんな詳細な説明は当然ながらできない。


 深々と頭を下げ、注文を受けた要子おばさんが厨房へと消える姿を見て、俺はさらに推測する。



『――――それが、かかわってきた人間全員を不幸にしてしまった俺にできる、せめてもの罪滅ぼしだ』



 おそらく俊哉さんが最期に残したその言葉を、要子おばさんは愚直にも実行しようとしている。俊哉さんが不幸にしてしまった相手に、その言葉とともに、ラーメンをごちそうしているに違いない。

 無関係な人間から見れば、おそらく贖罪にすらならない。それでも、食べればわかる。俊哉さんのお詫びの気持ちがこもっている、という説得力がこのラーメンにはある。そのくらいの味なのだ。


 俊哉さんの車によって命を絶たれた被害者の遺族である須藤さんたちにも、要子おばさんは腕を振るったのだろう。不器用なままに。


 さっきまでやたらとにぎやかだった食堂内が、しんと静まる。誰も沈黙を破る度胸など持っていなかった。


 やがて運ばれてきた素朴なラーメンを、いただきますすら言わずに、食べる前に目を閉じて何かを祈ってから、須藤さんも黙々とすする。


 何やら感覚がマヒしそうな重苦しい時間の中、完食した須藤さんが五百円玉を一枚テーブルにパチンとおいて、立ち上がった。


「ごちそうさまでした。また、寄らせてもらいます。それでは……由里嬢、小十郎殿も、縁があればいずれ」


 軽く会釈をして、そのまま須藤さんは消えていく。由里は何かを言いたそうに、拳を貧相な胸の前で握りしめていた。


 須藤さんがいなくなってからもしばらく、誰もが固まったままだ。だが、このままではどうしようもない。俺は思い切って要子おばさんに質問をぶつけてみた。


「おばさん、須藤さんには、お詫びのつもりでラーメンを……?」


 答える前に、要子おばさんは、困ったように笑った。


「……お詫びとか、そんな謙虚なものじゃないわ。俊哉はこの世からいなくなってしまった。誰からも悲しまれず」

「……」

「俊哉は、死の間際になっても、自分のことより、自分が不幸にしてしまった人たち――私たちのことを、事故で命を奪ってしまった被害者のことを、その遺族のことを、なにもしてあげられなかった以前の妻と子どものことを――いつも悔やんでいた」

「!!」

「そんな俊哉のことを、ずっと誤解されたままいられなかった。せめて悔やんでいたことだけは、許されなくてもいいからその人たちにわかってほしかった。だから、これはただ私の傲慢な行いなの。俊哉が悔やんでいたことだけ伝えたいって」

「……そう、ですか……」


 俊哉さんのためではなく、俊哉さんを愛した自分のための、自己満足な行為。

 その行為はひょっとすると、贖罪どころかさらに相手を傷つけてしまうことになる可能性もある。


 ――――それでも、要子おばさんは、そうせずにいられないのか。

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