きっとこれからも

「今日は、ありがとうございました。こちらが気を遣わなければならないのに、コーヒーまでごちそうになってしまって」


 喫茶『あすも』を出て、まず俺は鉄平さんにお礼を言う。鉄平さんは気にするなとばかりに手を前に出してきた。


「気にすることはない。さすがに扶養されている学生からおごってもらうつもりはないよ」


 先ほどの鉄平さんの雰囲気と、今のそれは全くと言っていいほど別であった。

 だが、鉄平さんが熱い志をもった人物だということには変わりない。


「実は……慶子さんらしき人物を、以前見かけたことがあるんです」

「……なんだって?」


 鉄平さんがまた険しい表情になる。もうこれ、心臓に悪い。


「前に、節熊市駅前で。実際にその人物が慶子さんかどうかは俺もわからないんですが。すぐ立ち去ってしまったので」


 事情説明を聞いて、鉄平さんは軽くため息をついて、斜め上を見上げるようにしながらつぶやいた。


「そうか。だが、生きているならいい。元気ならば……」


 ――――確かに、それだけ悲惨な家庭環境で過ごしていれば、慶子さんが自殺を考えたりしてもおかしくはない。

 鉄平さんも慶子さんの安否が心配なはずだし。


「……もし、慶子さんの現在の状況がわかったら、鉄平さんにもお知らせしますから」


 今日のコーヒーのお礼、というわけではないが、そのくらいしないと鉄平さんも救われなさそうだ。

 俺はそう思い、ついそんなことを口走ってしまった。


「! そうか、ぜひ……お願いしたい。その代わり、こちらも引き続きいろいろ調べてみよう」

「はい、本当にありがとうございます」


 俺は鉄平さんとのやり取りを一段落つけて、隣に立っている恭平のほうを見る。


「恭平、もしよければだが……いろいろ、おまえには知っておいてもらいたいこともある。まず解決しないとならない問題が何とかなったら、相談に乗ってもらえないだろうか」


 俺の願いを聞いた恭平が、『何言ってやがる、水臭いやつめ』と表情で返してきたので、俺も思わず笑みがこぼれてしまう。本当にできた友人だよ、俺にはもったいないくらいの。


「いつでも呼べ、真一。俺はどうせ年中ヒマしてるしな」

「ヒマがあるなら勉強をしろ、恭平。おまえは」

「やってるって! これでも成績はいいほうだし!」


 親子の会話が楽しそうだ。こう見えて恭平は、成績学年十番以内に常に入ってるしな。


 菱本親子に改めて挨拶をし、俺は自宅へと帰った。


 ―・―・―・―・―・―・―


 夕焼けが心をせわしなくさせる。俺は家路を急ぐ中で、どのような順序で過去を調べればいいのか、頭をフル稼働していた。


 美久のこと、そして、要子おばさんのこと。


 香織のこと、そして、慶子さんのこと。


 要子おばさんに尋ねないとならないのは、今は亡き俊哉さんのこと――というより、俊哉さんが貴子義母さんと結婚してからのことなのだが、要子おばさんは詳しく知らないかもしれない。


 もちろん美久と要子おばさんが和解することが最優先ではあるが、もし要子おばさんが何も知らないならば――やはり大奥酒造のことは貴子義母さんに訊くしかないのかもしれない。


 ――――訊きづらい。


「はぁ……」


 結局そこに行きつくのだ。


 ――――まあ、とりあえずは美久と要子おばさんの件が一段落したら、考えようか。


 問題を棚に上げて家の玄関扉を開けると、「おかえりなさい、兄さん」と間髪入れずに声が飛んでくる。


「……ただいま、香織」

「どこかに寄り道してたんですか? 今日は遅かったですね」


 スリッパ音をパタパタさせて玄関に寄ってくる香織に、俺は引きつりながら笑顔を向けた。

 何も知らないでいる香織が幸せそうで、何となく不憫で、思わず頬に手を伸ばしてしまう。


「……えっ? えっ?」


 頬に触れた俺の手に照れ、目の前で赤くなっている香織は――貴子義母さんの実の娘ではない。まだ証明はされてないけど、おそらくその事実は十中八九間違いない。

 それでも、今の香織からは、不幸な面影は消え失せている。


 俺は再度悩んだ。このまま知らないふりをして、香織の生い立ちに関することを忘れたほうがいいんじゃないか、と。

 乗り越えられないならば、忘れてしまえばいい。それは決して責められることではない。そう思うからだ。


「……香織は、今、しあわせか?」

「あ、あ、あ、あの、兄さん……?」


 俺の質問に瞳だけを動かして、香織がどもる。それでも、視線の先にある義理の兄の雰囲気が普通ではないことを感じ取ったのだろう、心からの笑顔を作って香織が答えてくれた。


「兄さんと一緒に暮らせる毎日が、幸せじゃないわけ、ないじゃないですか……」


 俺はその答えを聞いて、安心したと同時に胸が痛んだ。

 香織は今までつらいことばかり経験してきたのだ。少なくとも、幸せだったとはいいがたい。

 そんな香織が、俺がいるだけで幸せと言ってくれている。


 その気持ちを、俺がスッキリしないという理由だけで壊してしまっていいのか。真実を明らかにしたところで、それは香織のためになるのだろうか。


「俺は……香織のために何もしてやれない」


 最大級の自嘲。香織に否定してほしくて、そんなことを言う俺は汚い人間なのだろう。


「そんなことありません! 兄さんのおかげで、いじめられなくなりました。笑っていられるようになりました。あーちゃんとも由里ちゃんとも仲直り出来ました」

「……そんなことない」

「あるんです! それに、兄さんは……私の気持ちも、変えてくれました」

「……気持ち?」

「はい。わたしが、自分を変えなきゃ、そう強く思えるようになったのは、兄さんのおかげなんです。自分が変わらずに、まわりから好かれようと思ってもダメなんだって。自分が変われば世界も変わるって。兄さんのために、自分も変わらなくちゃって」


 香織は優しい子だ。こうやって俺が欲しかった答えをちゃんと伝えてくれる。

 だが、その香織の思いやりは、不思議なことにますます俺の心をチクチクとさせてくるのだ。


「そしてわたしがそう思うことで、義父さんも母さんも、みんな幸せそうにしてくれて。わたしは、いらない子じゃなくて、みんなに愛されているんだなって、そう思えるようになりました。兄さんには、感謝してもしきれないんです」

「……大げさだぞ」

「ぜんぜん大げさじゃありません! 本当に、兄さんはわたしの恩人なんです! だから……」


 香織の表情に決意らしきものが浮かぶ。俺はそれに気づき、一瞬ひるんだ。弱気になっている俺の心に喝を入れられた気分だ。


「……だから、わたしも好かれるより、好きになってあげないと、兄さんがわたしにしてくれたように、わたしも兄さんに気持ちを伝えないと、そう思えるようになったんです」


 玄関先でかわされる真剣な兄妹のやり取り。父さん義母さんはいまだ帰宅していないため、静かな家の中に俺たちの声がただ響く。


 俺は、香織にそんなことをしてもらえるような、人格者の兄ではない。

 そんな後ろめたさから、思わず香織を軽く抱き寄せてしまった。


「きゃっ! あ、あの、兄さん……?」


 突然の俺の奇行にとまどう香織をよそに、俺は決意を固めた。


 ――――もう、いいだろう。香織が誰の子だろうが、どんないきさつから生まれた子だろうが。俺は一生、香織の兄として、この可愛くて心の優しい義妹を守ればいい。真実を知る必要なんて、ない。


「香織……これからも、よろしくな。兄妹として」


 俺がそういうと、香織が俺の制服の脇腹の部分を両手でギュッと握って、とろけそうなシチューのルーのような甘い声で返事をしてくれた。


「こちらこそ、お願いします……兄さん、離れるなんて、いやです」


 しばしそのままでお互いの心臓の鼓動を伝え合う。シンクロするように拍動が激しくなるのとは逆に、心は徐々に穏やかになっていくのが心地よかった。


 そうして結構な時間がたった後。


「……シチュー……」


 ボソッと香織がつぶやいた料理の固有名詞。


「ん? 今日もシチューなのか?」


 俺が訊き返すも、香織は俺のほうを見ずに、言葉を続ける。


「兄さんの……」

「……俺に作れって? 無理無理」

「兄さんのクリームシチュー、わたしのお腹の中に……ほしいです」


 その言葉を聞いて、すぐさま俺は香織から距離を取った。


「な、な、な、何を言っているんだ」

「もうスキンシップだけじゃ物足りないです。シチューを飲みたいです……」


 ヤバい、とろーんとしすぎて香織の自我が崩壊している。

 そして瞬時に、俺は以前見た『恐怖! シチュー女!』というホラー小説のタイトルを思い出した。


 今の香織は、シチュー女に自我を乗っ取られたに違いない。寸胴鍋いっぱいのシチューをあっさり飲み干すくらいの底なしのバケモノに。


「バカ正気に返れもうすぐ父さんも義母さんも帰ってくるぞ」

「ふふふ……三分で事足りますよ、兄さん」

「人を早撃ちマック扱いすんな!」

「兄さんのシチューのひみつ、そーれーは、愛情ブイヨン


 なんだその広告的キャッチコピー。


 まずい、このままでは、『恐怖! シチュー義妹!』にタイトル変更することになってしまう。幸いにも靴を履いたままだった俺は、いったん逃げることを選択し、今入ってきた玄関のドアから再度外へ出た。


「あっ、兄さん!? 逃げるなんて卑怯です!」


 香織はそう言いつつも、追ってくる様子はなさそうなので一安心。

 俺は自分の家の新聞入れから新聞を取り出し、ハリセンを作った後に再度家の中に戻って、すぐに香織の頭を軽く叩いた。


「……あ、あれ? 記憶が飛んでます……」


 どうやらハリセンの一撃で、あっさりと香織に憑りついていたシチュー女は出て行ったらしい。

 だが、いつまた香織に憑依するかわからない。ハリセンは大事にとっておこう。


「ただいま。おや、真一も今帰宅したばかりか?」

「ただいま。すぐに晩御飯の準備するわね」


 俺が安心して靴を脱いだ後すぐに、父さんと義母さんが揃って帰宅してきた。危なかった。


 ――――そうして矢吹家はいつもの平常営業に突入した。


 少しの笑い声とともに、穏やかな雰囲気に包まれて。


 あくまで、かりそめの幸せだとしても。誰も、不満などあるわけがないのだ。

 過去にこだわる必要なんて、どこにもないのだから。


「お待たせ。晩御飯にしましょうか」


 しばらくしてから発せられた貴子義母さんの声で、矢吹家全員がリビング兼ダイニングへと集合した。表向きだけは何の不満も懸念もなく。


 さて、今日の晩御飯は――――



 ――― 第二部 完 ―――

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