ふかかいなてんまつ

 美久が、重い口をようやく開く。


「捨てた?」

「うん。簡潔に言うと、浮気相手のところへ行ったの。その相手の子供を身ごもったまま」

「…………」


 要子おばさんとのやりとりから予想できた内容ではあるが、実際に聞くと衝撃ではある。当事者たちならさらに耐え難いだろう。


「……だけどね、お父さんは、『仕方のないことだ』って、あの人と別れて、浮気相手のところへ行くのを黙認したんだ」

「なんだって!?」


 美久の父親である、幸蔵こうぞうおじさんは、豪快だけど基本的に優しい人だ。それを黙認するのは優しさとは違うと思うが……


「おかしいよね……お父さん、涙を流しながら、浮気をした自分の妻を許したんだよ。あたしの前で号泣してたのに……」

「…………」

「あの人にもなにか事情があったのかもしれない。それでも、お父さんは何も悪くないのに……あんなふうに泣かせたあの人は、一生許せない」


 美久はかたくなに、『お母さん』という言葉は使わなかった。それだけ怒っている証拠だろう。

 まあ、要子おばさんは、確かに優しかったけど、あまり笑わない人でもあった。なにか陰のある……とでも言うか。


「あの人がいなくなっても、寂しさや悲しさは驚くほどなかったの。憎しみと後悔が強すぎて」

「……後悔?」

「そう。あんな、自分の色恋沙汰を優先して、あたしたち家族を捨てるような人を……母親と慕ってしまったことへの、後悔」

「…………」

「その後悔を振り切ろうとして、いろいろムチャしたりしたんだけどね」


 ああ、確かにムチャばかりしていたな、美久は。俺もあの頃は荒れていたのだが、美久のほうの荒れようは俺より突き抜けていた。

 だがそれは、寂しさや悲しさではなく、憎しみが理由ならば――――俺と美久が互いに傷を舐め合えたのも納得がいく。原因は違えど、荒れ方が憎しみからくる、同質のそれだったのだから。


「本気で怖かったな、あの頃の美久は」

「真一にそう言われてもなにも言い返せない……ねえ」

「なんだ?」

「そう言えば、上級生に袋叩きにされそうになったことあったよね」

「ああ……俺の記憶が確かなら、美久がギャル先輩に囲まれて全員返り討ちにしたら、わらわらと知り合いのヤンキーが湧いてきたんだっけ」

「真一は巻き添えだったよね。あの時はごめんね」

「気にするな。今じゃ笑い話だ」


 どちらかというと少ないほうの、美久の窮地を俺が救った例だ。あのときの俺は、体重八十キロ近くあったし。今はダイエットに成功したので六十六キロしかないが。


「ありがと。その後に言ったよね、『あたしと一緒だととばっちり食うから、あたしは真一から離れる』って」

「…………あ」


 ――――ああ、なるほど。いつのことかは失念していたが、その時か。ようやく思い出した俺が黙っていると、返事を待たず美久がしゃべり続ける。


「その時、真一が――『美久が俺の隣からいなくなったら、俺はずっと困ったまま途方に暮れるぞ』――そう言ってくれて、なぜか……」

「…………」

「すっごく、泣いちゃった……んだよね、あたし。真一がいなかったら、たぶんあたしは……」


 なんとなくむず痒くなってきて、俺は頬を指で掻いてごまかしながら、美久の話をわざと遮った。


「……じゃ、俺を困らせないでくれ」


 美久はちょっと目を赤くしてはいるが、ようやく口元を緩ませた。


「ごめんね。真一、気を遣うの苦手なのに」

「気にするな、俺と美久の仲じゃねえか。それに……」


 そう言ってから俺はおもむろに立ち上がり、松の間の襖に手をかけ、一気に引く。すると。


「うわっ!」

「きゃっ!」

「わっ!」


 上から順に朝斗と香織と由里、三人が襖の外で美久の様子を伺っていたのが露呈した。三人とも崩れ落ちて潰れる。一番下の由里は苦しそうだが、由里だからまあいいや。


「おまえら……」


「あ、あはは……だって、美久さん心配じゃないですか」

「そうですわ。美久お姉様には、暗い顔は似合いませんことよ」

「むぅ……兄さんと甘い雰囲気、許せませんけど、今は仕方ないです」


 三人とも顔をひきつらせてはいたが、それでも美久の心配をしていたのは間違いない。俺はやれやれ、という素振りを見せつつ、美久に向かって言い放つ。


「……な? 俺より気遣いが苦手であろうこいつらでも、これだぞ?」


 美久が声を上げて笑った。目からは涙が流れているような気もするが、悲しみではないだろう。そのくらいはわかる。


 ――――俺以外誰も寄せ付けなかった、あの頃の美久は、もういないはず。ここにいるのは、誰にでも笑顔を向けられる、人懐っこい、自慢の幼なじみだから。

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