平穏は、一時

 ようやく顔の赤みも引いて、家に戻ってすぐ、貴子義母さんから声をかけられた。


「お風呂入れるわよ。真一くんも香織も、よかったらどうぞ」


 朝斗を有田家へ送り出し、いつもの四人による矢吹家の生活に戻る。きょうはいろいろあって汗もかいたし、一番風呂をいただきたい気分ではあるが。


「香織、先に入っていいぞ」


 一応、香織に伺いをたててみると、香織はとんでもないと言わんばかりに、俺の背中を浴室に向けて押してきた。


「兄さんが一番風呂、どうぞ。わたしはそのすぐ後に入りますから」

「お、おう、そうか。なら遠慮なく」


 最近、皆が入り終えたあと、一番最後に風呂に入ることが多かったので、一番風呂は久しぶりだ。やっかいごとも一段落したし、では失礼して最初にいただくとするか。


―・―・―・―・―・―・―


「あー、いい湯でした。あがったぞー、香織」

「はいっっっ!!」


 俺が声をかけて一秒もしないうちに、2リットルのペットボトルを小脇に抱えた香織が目の前に姿を現す。どこで待機していたんだ。


「お、おう、いい反応だ。世界チャンピオンになれるぞ」

「はいっ! わたしの歴史にまた1ページ! 今日こそは万全です!」

「……ま、まあ、また湯あたりしないようにな」

「もちろんです! では、いろいろといただきます!」

「………………」


 香織って……あんなに感嘆符を多用する性格だったか? ま、トラブルが片付いてハイテンションになっているのかもしれない。実害ないならいっか。


 さて、俺はあとは寝るだけ……なはずだったが、冷静に考えたら腹が減っていることを思い出した。歯を磨いてしまったが、また磨き直せばいいだけだし、ペヤ〇グヌードルを食べてから寝よう。お湯を入れて三十秒で食べられるのがペ〇ングのよいところだ。


 食べ終えて、リビングでボーッとすること三十分あまり。香織は風呂で温まったようで、白い肌を赤く染めながらほくほく顔で浴室から出てきた。液体が詰まったペットボトルを抱えて。


「いい湯だったようだな」

「はい、今日こそは、味わえます……」

「? まあ、湯あたりしてないならいいけど」

「湯あたりしそうなくらい、幸せです……」

「???」


 上機嫌の香織に声をかけるも、意志の疎通がいまひとつうまくいかない。細かいことにはこだわらないほうがいいと即座に決断して、これ以上ツッコミをするのはやめた。


 さて、歯を磨いて、寝る準備をしよう。


―・―・―・―・―・―・―


 歯を磨いて、さて部屋へ戻ろうかと思ったら、リビングに父さんと義母さんが揃ってティータイムを楽しんでいた。さっきまで部屋にふたりでいたのに……いや、想像はするまい。香織はどうやら自分の部屋へ戻ったらしいな。


「夫婦でお茶会?」


 俺はわざとらしくそういって近づく。


「お、真一もなにか飲むか? 香織はどうした?」


 父さんがコーヒーカップから口を離し、俺を横目で見てそう言ってきた。なんとなくだけど幸せな夫婦感がひしひしと。


「香織は風呂からあがって部屋に戻ったよ。俺は眠れなくなりそうだからいいや」

「ん、そうか。なら貴子、風呂先にどうぞ」

「あら、今日は先にいいの? それじゃお言葉に甘えて」


 義母さんは既に飲み干してあったらしいアイスティーのグラスを下げて、浴室へ向かっていった。リビングには父と息子のみ。


 ちょっと無言になり、ふと疑問が浮かぶ。

 ――父さんは、義母さんと香織の過去のことを、どれだけ知っているのだろう。


 俺は、父さんに少し訊いてみることにした。


「父さん、ちょっと質問、いい?」

「……ん? あらたまって、どうした?」

「父さんは、義母さんの実家の話、知ってるよね」

「ある程度のいきさつはな。詳細に関しては、知らないこともある」

「……義母さんの、妹のことは?」

「!」


 貴子義母さんの妹の話をすると、明らかに父さんの顔色が変わった。普段はわりとポーカーフェイスな父さんがこうなるということは、それなりに深刻な裏事情があるのだろう、とわかる。


「真一、誰からその話を?」

「いや、義母さんから直接きいたんだけど、行方不明になってるって」

「……そうか」


 父さんの落ち着かない様子を、久しぶりにの当たりにした。ある程度の事情は、父さんも知っているのは間違いないだろうから、もう少し突っ込んで訊いてみることにする。


「たしか、慶子さん、だっけ?」

「……! 真一、おまえはその名を、貴子から聞いたのか?」

「……いや。偶然その名を知っただけ」

「…………」


 父さんが睨むように俺を見てきたので、俺は一瞬恐怖を感じた。ただでさえいかついんだから、本気睨みはやめてほしい。


「どういう偶然かは知らないが……真一、そのことは、貴子と香織には言うなよ」

「…………」

「まさか、泊まりに来ていた子から、聞いたのか?」

「いや、違う。昔、大奥酒造で働いていた人と偶然知り合って」


 あまりに本気モードの父さんの雰囲気に、焦った俺は口からデマカセを言ってごまかす。


「……予想以上にありえない偶然だな……」


 父さんは納得していないようではあるが、厳しい視線はそのままに、俺にさらに念を押してきた。


「いいか、絶対に、その話は、貴子と香織の前では、するな。わかったか」

「……はい」


 もう迫力負けである。このあたりに人生経験の差が出た。俺は黙ってうなずくしかない。


「……何があっても、香織は貴子の娘だし、私たちは家族だ。それは忘れちゃいけない」

「…………」


 だが俺は、腑に落ちない顔をしていたのだろう。それに気づいた父さんが、厳しい表情を少し崩してから、俺を諭すよう柔らかく話してきた。


「……真一、おまえが他言しないと命を賭けて誓えるならば……近いうちに、ふたりで話をしよう」

「え?」

「いいか、知らない方が幸せなことはたくさんある。だが、それを知っても、貴子を母だと、香織を妹だと、そう思えるだけの自信が真一にあるならば……」

「……そんなの、当たり前だ。大事な家族だ、それはずっと変わらない」


 俺は、父さんの目を逸らさず本心を言い切ると、ようやく父さんの顔がいつもの優しいものに戻った。


「わかった。では、またの機会にだな。おまえは……兄として香織を守ってやるんだぞ。何があろうと」

「もちろん」

「即答か、さすがは俺の息子だ」


 父さんは夜中だというのに大きな声で笑い出す。風呂の義母さんや、部屋にこもっている香織には聞こえないだろうけど。


『妹を守ってやらなきゃだめだ』


 再婚した直後に父さんから言われたあの言葉は、実は違う意味を持っていたんじゃないだろうか。

 そんな推測を確信に変えさせるくらい、父さんは笑い声を上げ続けていた。


―・―・―・―・―・―・―


 明けて次の日。すがすがしい朝、湿度もさほど高くない快晴だ。だが。


 俺が起きたとき、香織はトイレにこもっていた。お腹を下したらしい。


「……香織、大丈夫か?」


 いつまでも出てこない香織を心配して、トイレのドアの前でそう話しかける。


「に、兄さん、恥ずかしいから、あの……」

「兄妹なんだから気にするな。だが、昨日なにか悪いものでも食べたのか?」

「……あ、あぅ……」

「俺はペヤ〇グだったからなんともないが、でも父さん義母さんは何ともなさそうだしなあ」

「……あ、あの、お湯に、あたりました……」

「お湯? 湯あたり、とはちがうか」

「湯あたりではなく、お湯に中っただけです……ううう、煮沸消毒しないとだめなんでしょうか……でも、兄さんの成分も飛びそうです……」

「?? まあ……お大事に」


 よくわからないが、俺はとりあえずトイレ前を離れて支度にかかる。

 俺も尿意を催していたのだが、このままでは用を足せない。


「しかたない……早く学校に行くか」


 香織がトイレの主になってしまっているため、矢吹家の一人が仕方なく欠けた朝食を済ませ、俺は家を早く出る。


 そのとき、ちょうど美久とバッタリ出会った。


「あ。……おはよう」

「……おはよ」


 そういや美久は週番だったから朝早いんだっけ。


「なんか、久しぶりに感じるね」

「……そうだな」


 昨日の夜はふつうに話せたのに、なぜか今はちょっと気まずい。昨日はなぜふつうに話せたのだろうか、などと思考を巡らせて、朝斗と由里のことが浮かんできた。


「そういや、朝斗と由里、どうした?」

「うん、朝早く、車で帰ったよ。ふたり仲良く」

「……ん、なら安心だ。本当にありがとう」

「いいってば。あたしと真一の仲じゃない」


 美久の口癖が出てきて、ちょっと安堵する。うん、多少のぎこちなさは残るけど、おおむねいつも通りだ。


「最近は、借りばっかり作ってるような気がするからな、美久には」

「あはは。貸し借り記録帳でも残しておく?」

「それこそ無粋だろ」

「そだね。じゃ、真一にはカラダで返してもらおうかな」

「……怖い」

「失礼ね。こんなかわいい幼なじみ捕まえて」


 ふたりとも、思わず笑いがこぼれる。こんな空気が、俺と美久には一番合ってる気がする。


「……ね、真一はさ」

「どうした?」


 後ろに組んだ手で鞄を持ちながら、美久が首を傾げて俺の顔を横からのぞき込む。少しドキッとしつつも、平静を装ってみるものの、俺のポーカーフェイスは、美久の次の一言でやすやすと崩されてしまった。


「香織ちゃんと、キスしたことはある?」

「ぶふぉっっっ!」

「その反応……まさか」

「あるわけないだろ!」


 もっとすごいことはしたんだけど、などとはさすがに言えず、顔が熱くなるのを感じながら否定する。

 そして、そのときに美久が見せた笑顔は――――今までよりもずっと、艶やかな笑顔だった。


「ん。なら、あたしが一歩リードしてるね」

「なんの話を……」

「三歩リードまで、いけるかなあ」

「……おい、なんの話」

「んーん。さ、学校行こうよ」


 美久が駆け出して先に行く。俺は尿意に邪魔され、全力で後ろをついて行くことができなかった。


 まあ、なにか変化はあったにしても、元通りだ。きっと、きっかけさえあれば、元通りになれるんだよな、俺と美久は。


 やっと戻った日常。だがおそらくは、この普通な毎日も、すぐに崩れ去ってしまうのだろう。

 それをおぼろげながら理解はしているけど――――今は、これでいい。一時の平穏を楽しもうか。


 さて、まずは学校に着いたら――――




 ――― 第一部 完 ―――

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