過去を、知る者

きんじい、この街に住んでいらしたのですか?」


 由里が心底嬉しそうにそう尋ねる。どうやら、この男性は由里をかわいがってくれた杜氏とやらで間違いなさそうだ。


「いや、ちょっと用事があってこの街に来たのですよ。そういう由里嬢こそ、なぜここに?」

「…………」


 欣じいと呼ばれる男性の質問返しに黙り込む由里。説明が面倒なだけか、それとも言いたくないだけかはわからない。俺は横やりを入れて、沈黙を壊した。


「……ええと、先ほどは駅前でお世話になりました」


 男性は視線を由里からこちらに向けると、一瞬だけ目を見開いたがすぐさま元に戻し、淡々と俺に話しかけてきた。


「おお、偶然ですね。由里嬢のお友達でしたか」

「友達なんかではありませんわ!」


 即座に否定する由里に、俺も首を縦に振って同意。


「こんな下賤の者と友人になるくらいなら、カメムシと寝泊まりするほうがましですわ!」

「おいてめえ何を言いやがるこの金髪ゴキブリが」

「ミジンコごときに言われたくないですわね」

「やかましいわ由里菌」

「小十郎ごときが名前で呼ばないでくださいましと何度言えばおわかりになるのかしら? 脳がリケッチアレベルですわね」

「由里由里由里由里由里由里」

「小十郎小十郎小十郎小十郎小十郎小十郎小十郎」


 まさしく低レベルな子供のケンカを繰り返す俺と由里の様子を見て、欣じいは声を上げて笑った。


「由里嬢、やはりお友達ではないのですか。あの内気な嬢とは思えないやりとりですよ」

「……はっ」

「……内気? 誰がだ?」


 笑い続ける欣じい、我に返り赤くなる由里、意味が分からない俺。微妙な公園のワンシーンである。


「わ、わ、わたくし、ちょっと席を外させていただきますわ!」


 由里は赤くなったまま、いきなり立ち上がり、どこかへ歩いていった。向かう先は――――ああ、トイレか。

 ――――って、あのトイレは……ま、いっか。忠告する義務もない。


 そして残される俺と欣じい。何を話していいのかわからんので、無言で様子をうかがうことにする。。


「……由里嬢は、人見知りする子でしてね」


 気まずさを感じたのか、欣じいが何も聞いてないのに、突然話し始めた。


「いろいろ複雑な事情があるから仕方ないにせよ、本当に気に入らない相手には罵倒すらしません」

「……俺、まだ二回しか由里と会ってないんですけど」

「なんと。それであの態度とは、由里嬢にかなり気に入られてますな、小十郎どの」

「はぁ?」


 欣じいに小十郎呼ばわりされ、ちょっと苦笑いしつつも、その言い方から察するに、思ってないことを言っているわけではなさそうだ。気に入られる要素がまったくないので戸惑う。


「ところで申し遅れました。私、須藤欣次すどうきんじと申します。以前、由里嬢の父が経営する会社で働いていまして」


 欣次さんが突然自己紹介を始めた。ふつう、このくらいの年齢の人なら、高校生のガキ相手にこんな話し方はしないと思うんだが、由里の友達と思われているからか、それとも元々穏やかな物腰の人なのか。まあ、たぶんどちらもだろう。由里がなつくのも納得だ。


「あ、ご丁寧にどうも。お……僕はやぶ……いえ、源五郎丸小十郎げんごろうまるこじゅうろうと申します」


 源五郎丸ふたたび。本名を言うのはなぜか憚られた。少し気になることがあったからだ。


「おお、源五郎丸とはまた珍しい名字ですね」

「よく言われます。ところで須藤さん……」

「……ん、どうかしましたか?」

「先ほど言ってましたが、この街へいらしたのは、どのような用事が? このあたり、何もないですけど」

「ああ。ちょっと人捜しをしていましてね。先ほど小十郎どのにお会いした時は、ちょうどこの街に着いたばかりだったのですよ」


 欣次さんは俺の質問内容にさほど疑問を抱かなかったようで、すらすらと答えてくれた。


「……そうでしたか。捜し人にはお会いできたのですか?」

「いえ、残念ながら。……小十郎どのは、この街に住んでおられるのですか?」

「ええ」

「そうですか。……桐山、いや今は確か……矢吹貴子さんでしたか。私の捜し人の名前なのですが……ご存知ありませんか?」


「えっ……」

「キャーーーーッッッッ!!」


 俺が一瞬その言葉に動揺した瞬間に、公衆トイレのほうから悲鳴が上がった。たぶん由里の声だろう。


「なんだなんだ」


 ナイスタイミングで叫んでくれたな、由里。これ幸いと、俺はトイレへ向かって駆け出した。俺が一瞬動揺したのは悟られちゃいけない気がして。


 ここの公衆トイレは男女兼用だ。だが……先ほどは忠告しなかったが、窓ガラスにハエがびっしり止まっている最悪な環境のトイレなのであった。知ってるヤツは利用しない。


 俺はトイレまで行き、ドア越しに由里に声をかけた。


「由里、大丈夫か?」

「こ……小十郎……助けて……腰が……抜けて……」


 ……えーと。助けようがないのだが……一応同意を得ないとならんか。


「助けるっていっても、ドアを開けないと話にならんぞ。いいのか、開けて?」

「……お、お願いします……」


 よし。同意は得た。実は会話をボイスレコーダーで録音してるから証拠は残る。

 男女兼用の多目的トイレは、実はとある方法で外から開けられるんだよな。詳しい方法は割愛するが。


 ガチャ。

 俺が鍵を開けて、ドアを開くと。


「うわっっ!」


 すさまじい数のハエがぶっ飛んできて思わずしゃがんで避けた。なんでいちいちハエを刺激するんだ、由里。

 とか思いつつ、しゃがんだままトイレ内を見ると――――由里が、床にへたりこんだまま、失禁していた。


「………………」

「あ…………あ…………」


 失禁を俺に見られる屈辱より、ハエに囲まれる恐怖と嫌悪の方が勝ったらしい。さっき『カメムシと寝泊まりするほうがましですわ!』とか言っていたのはどこのどいつやら。


「おまえ……バッカだなー。窓ガラスに止まっていたハエ確認してなかったのか」

「……だ、だって、窓ガラスらしきものがなくて、真っ黒な壁があると思ったら……」


 うわっ、全部ハエだったのか、その壁。さすがに鳥肌立つわ、気持ち悪すぎて。


「ひょっとして、由里って近眼か?」


 由里はコクコクと頷いた。ふむ、ならば……まあ、武士の情けだ。なるべく見ないように助けてやろう。


―・―・―・―・―・―・―


 とりあえず、由里のぱんつは濡れたままトイレ内に放置した。スカートまで濡れているのでどうにかしないとならんだろうが、さすがに着替えなどないだろう。


「多少気持ち悪いだろうが、まあ仕方ないな」

「ううう……怖かった……なんでこんな目に……」


 由里の口調が普通に戻ったことに、違和感がありすぎて麻痺しつつある。まあ、無害だから別にいいとして。


 どうするかな。由里が大奥酒造の社長令嬢じゃなければ、俺の家に呼んで着替えを貸すくらいはしてもいいんだが、いろいろ問題がありすぎる。

 コンビニでぱんつ買うにしても、びしょ濡れなスカートのまま行かせるのはある意味羞恥プレイだしな。ふつうに歩く分には、暗くなってきたので目立たないかもしれないのが唯一の救いか。


「……しゃーない。俺の言うことに逆らわないと約束するなら、俺の部屋で着替えろ。しょんべんで濡れたままのスカートじゃ、車にも乗れないだろう」


 羞恥を感じる閾値いきちを超えてしまい、何も感じなくなったのか。由里は顔色も変えず無言で頷くだけであった。


「ハプニングがあったのに申し訳ないのですが、私もそろそろ行かねばなりません。では、また縁があれば。由里嬢、すみませんな。お元気で」


 由里に気を取られすぎて、欣次さんの存在が吹っ飛んでいた。声が割と切羽詰まったようにも聞こえたので、いろいろ時間がないのだろう。――――たぶん、義母さんを捜すのに。


「あ、はい。では、また縁があれば」

「……欣じい……」


 由里がその時、すごく寂しそうな顔をしたのを、俺は初めて見た。欣次さんは軽く会釈してから早歩きで去っていき、やがて見えなくなった。

 さて、俺たちも動こう。着替えは内緒で香織のを借りるとしても……朝斗と香織と由里、こいつらを会わせちゃならないな。まぜるな危険だ。


「いいな、由里。俺の言うとおりにするなら、着替えさせてやる。だが、もし言うことを聞かないならば……今日の失態を……わかるな?」


 俺の念押しの言葉に、放心状態の由里はようやく人並みの羞恥を取り戻したのか、顔を真っ赤にして首を縦に五回ほど、無言で振るだけであった。

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