美久の、部屋にて

「えーと、じゃここは?」

「“Handle”じゃないか? 取扱い注意って意味で」

「あ、そっか。“with great care”だもんね」


 in、美久の部屋。高校入学してからは初めてだ。夜に来るのは……人生で初めてだ。

 女の子のそれとは思えない、シンプルな部屋。部屋の壁には、相変わらず竹刀が掛かっている。


「……こんなもんかな」

「ん。ありがとうね。おかげでなんとか終わったよ」

「いや、俺もやってなかったから助かる」


 課題が終了して、軽く伸びをする美久。俺はとりあえず目の前のコーヒーを飲み干して、退出の準備をしておく。


「それじゃ、俺はそろそろ」

「……真一、傘なんてあとでもいいのに、わざわざ来たってことは……なにか悩み事?」


 さすがにわかるか。だが……さすがにホテル前遭遇などから始まる矢吹家の遭難物語などは言えない。


「……んー、まあ、ちょっとあったけど、これは父さん義母さんの名誉にも関わることなので……察してくれると助かる」

「??? ……要するに、今は言えない、ということね。了解。でも、なにか力になれることがあったら、遠慮なく言ってよね」

「……ああ。頼りにしてるよ」

「うん。……香織ちゃんと、やましいこととかはないよね?」

「ぶはっ」


 不意打ちを食らって、つい正直なリアクションをしてしまった。どうにも俺は、隠し事が下手くそらしい。


「あ、どうやら何かはあったのね」

「……その推測はどこから」

「なんとなくだけど……あのあとね、何かあったとすれば」

「…………香織に、ホテルに誘われた」


 ガシャーン。


 美久が持っていた、コーラの入ったグラスが床に落ちて粉々になった。そして、美久が真っ青である。……隠し事が下手だからといっても、何でも素直に話せばいいというものでもないらしい。


「……まさか、真一……」

「行くわけねえだろ!」

「……ほっ」


 俺の力いっぱいの否定を聞いて顔色を元に戻した美久は、落としたグラスの片づけをし始めた。


「……香織ちゃん、見た目によらず積極的ね。さすがに予想外だったわ……」

「いや、あれは……」


 単なる暴走だと思う。本人もかなりテンパってたから、冷静になってれば、今頃恥ずかしさで悶えてるんじゃなかろうか。


「あたしも、真一が浮かれてたくらいで喜んでる場合じゃないよ……」

「……?」


 その言葉がどういう意味なのか、聞けなかった。だって、美久の顔が……むっちゃ怖いから。なにやら悲壮な決意をしたような表情に感じられて。


「…………」

「…………」


 気まずい。なんで美久を相手にしてまで、こんな空気を味わう羽目になるのだろう、と困っていると。


「……だけど、香織ちゃん、本当に真一のことが好きなんだね」


 緊張した空気をほぐすためではないとは思うが、美久がしみじみとそう言ってくれたおかげで、なんとか呼吸は楽になった。このあたりはつきあいの長さゆえか。


「……好かれる心当たりがない」

「転校してきて心細くて、なおかついじめられて泣いてたときに、颯爽と助けてくれる人がいたら、そりゃ好きになるって」

「……そうなの?」

「まあ、最初から好感度が高い、という条件は必要だけど」


 ……そういうもんか、ゲームみたいな話だ。そうすると、香織はチョロイン分類になるんだろうか?


「……なら、美久のピンチを俺が颯爽と助けたら、美久は俺に惚れるのか?」


 いかにもチョロインとは遠そうな美久に、わざとそう言ってみる。


「うーん……感謝はすると思うけど、今さらじゃないの? あたしたちの場合は。親愛マックス」

「……そうかもな」


 思わず二人で笑ってしまった。美久のピンチを俺が助け、俺の窮地を美久が救う。そんなことは、今まで何回繰り返してきたかわからない。

 笑うことで重い空気を完全に跳ね返した、ように思えたが……笑い終えると、美久は思案顔になってしまった。


「んー、でも……そういう流れだと、あたしも早く壊さないとダメね……」

「……なんのことだ?」

「ううん、こっちの話。……もうこんな時間だね。真一、泊まってく?」


 そう言いながら、美久が自分のベッドをポンポンと叩く。……添い寝かよ。そんなわけにいくか。


「さすがにそれはまずいだろ」

「何がまずいの? 昔はよく泊まっていったじゃない」

「……俺たち、もう高校生だぞ」

「高校生だから何? 真一は、我慢できなくてあたしとえっちなことしちゃうの?」


 小悪魔みたいな美久の笑い。俺に対して、絶対優位に立ったときの表情だ。


「ば、ばっ、なんでそんなこと。するわけ、な、ないだろ」

「じょーだんだってば。そんなどもらなくても……」


 これ以上ここにいてもいじられるだけだと悟った俺は、早々に退散することを決意した。


「……帰るわ」

「あっ、真一、忘れ物だよ」


 そう言って椅子から立ち上がろうとすると、不意に呼び止められた。反射的に振り返ると。


「……ん?」


 ちゅっ。


「!!!」


 突然、美久が不意打ちで唇を重ねてくる。……頭の中が真っ白だ。


「んっ……」

「…………」

「……はぁ。宣戦布告、おわり。ふふっ」


 唇を重ねていた時間は、二秒くらいだったかもしれないし、五時間くらいだったかもしれない。全ての感覚を麻痺させるような、甘い……美久の唇の感触。

 だが、唇が離されると現実に戻され、俺は情けなく狼狽する。


「お、おま、突然……」

「うるさいニブチン。もうちょっと待つつもりだったけど……みすみす渡すわけにはいかないの」


 渡すわけには、って……? 混乱して真の意味はわからないが、とにかく俺のファーストキスは美久に奪われた。ずっと一緒に遊んでいた、幼なじみに。


「……宣戦布告って、誰にだ」

「そうだね、幼なじみの呪縛と、真一と、香織ちゃんと、その他もろもろ」

「…………」

「あたしだって、真一と休みにお出かけするときは、人並みに浮かれるんだから」

「…………」

「だから……次は、真一のほうから、誘ってほしい……な」


 美久にそう言われて、俺は壊れたロボットのように、ただコクコクと頷(うなず)くしかなかった。

 美久の流し目に……ドキドキしっぱなしの自分がいるのは、なぜだ。幼なじみって……どんな関係だ。思考が追いつかない。


「……うん、約束。じゃ、また明日。……謝らない、からね。真一も同じ気持ちだって……信じてる」

「………………また明日」


 バタン。


 俺は、そう絞り出すのが精一杯だった。


 美久の部屋の扉を閉めたあと、何やら叫び声とジタバタする音が聞こえたが、いったい何の音なのかを推測する思考力は、今日の俺にはもう残っていない。


 おじさんに挨拶をし、美久の家を出る。

 自分の家に戻る途中で、何回、自分の唇に指を当てただろうか。


 俺は初めて知った。


 キスって…………えっちだ。

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