16 混乱の中でも

 男と視線を合わせたまま、イサムは動けずにいた。


「おい」

 イサムが黙っていると、男が出ていけとでも言いたげな声を発する。


 その声に現実へと引き戻されたイサムは、まず自分が部屋を間違えたのかと考えた。けれど思い返しても確かに隣室へ入ったはずで、それに何よりナリアから受け取った鍵で扉を開けたのだから間違いようがなかった。


 イサムが男の姿を目に捉えながら考え込むと、男は一向に出ていこうとしないイサムに痺れを切らしたようで、寝台から体を起こして立ち上がった。


 中肉中背、茶色の髪をした中年の男。その恰好は上半身の衣服がはだけているが、ズボンを穿いたままだ。最悪の事態には至っていなかったようで、イサムは取り敢えず安堵した。


 起きた男は不快な表情を崩さずに、そのままイサムへ足を一歩踏み出してくる。


「……こ、ここは俺の部屋だ!」

 イサムは思考を打ち切って、男を押し留めようと叫んだ。


 どう考えても、やはり結論は変わらない。自分がこの部屋の正当な使用者であって、不審者はこの男だ。

 男の堂々として悪びれない態度に一瞬たじろいだが、気持ちを強く持って男を睨み付けてみれば、男はイサムより体格が小さく、決して恐れを抱くような相手ではなかった。


 イサムの言葉に、男は足を止める。

 その表情からは険しさが消え、その代わりに怪訝そうなものへと変化した。


「宿の者からは聞いてないのか?」

「何を、勝手に人の部屋に入って、聞くことなどあるか! ユーラに一体何をしようとした!?」

「何をって、見ればわかるだろう?」

 イサムが怒鳴り散らしても、男は冷静に言葉を返してくる。


 男の言葉とその落ち着いたさまに煽られて、イサムは顔を赤く染め上げると腰の短剣に手を伸ばした。

 そんなイサムの動きに、男は目を見開いてようやく慌て出す。


「落ち着け! 教会が宿に女の世話を頼んだんだ! 俺も頼まれただけだ!!」

「世話を頼んでどうしてこうなる! 嘘を言うのも大概にしろ!!」

「馬鹿を言うな! 見ればわかるだろう!?」


 口の減らない男に、今度はイサムが一歩前に進み出た。

 しかし男はそれを押し留めるようとしてか片手を前へ突き出してきたが、後ずさりはしなかった。その目はイサムから逸らされることなく、しっかりとその視線を受け止めている。


 そのまま睨み合うこと数秒。


 男は依然として怯まずにイサムの視線を受け止め続け、一方のイサムは段々と不安が頭をもたげてくるのを感じていた。


 もしかしたら男は本当に何かを頼まれているのではないか。そんな考えが頭をよぎるが、他の客の部屋に入って寝ている者に手を出すなど普通は行うわけがない。男の繰り返した、「見ればわかる」という言葉。だが男の恰好と行動から見てわかるのは、男がユーラに手を出そうとしていたというイサムにとって知りたくもない事実だけだ。


「早く出ていってくれ」

 迷うイサムの手が短剣から離れると、男が再び口を開いた。

「俺は宿から頼まれているんだ。女のことを本当に思っているなら、それが女のためだ」


 この男は何を言っているのだろうか。あまりに理解の及ばないことを言うので、イサムは会話については完璧だと思っていた自身の異界の知識に欠損があるのかとさえ思った。今まで通じていたと思っていた会話も、誤解があったのかもしれないと一抹の不安を覚えてしまう。


 そうしてイサムが呆れて動けずにいると、何か勘違いしたのだろう男が再び寝台へ近付いていく。


「見られながら、やるのは好きじゃないんだがな」

 その言葉は男の冗談だったのかもしれない。


 しかし次の瞬間、男は大きな音を立てて無様に床へ転がり、イサムはそれを見下ろしていた。


「こいつは俺の女だ!!」

 寝台の脇に立ちながら、イサムは叫んだ。


 男はすぐに起き上がろうとはしなかった。何かに耐えるように床の上でしばらく動かず、それから不意に振り返ってイサムを見てくる。


 男の顔にはイサムへの敵意と怒りが浮かんでいた。

 只、真っ赤に染まったそれにも、イサムは気圧されなかった。


 男を睨み付けつつ、イサムは自身の顔に急激な熱の高まりを感じていた。それは男への怒りと、思わず叫んだ言葉への照れによるものだ。男を視界に入れて睨み合うと、紅潮しているだろう顔の熱はより一層高まっていく。

 感情の高ぶりに目には薄ら涙が浮かび、視界がにじんだ。涙によって、男の姿を上手く捉えることができなくなる。顔の熱は引くことを知らず、そのためか左目がひどく疼き、にじんだ視界の端は赤く染まっていく。それでもイサムは男を睨むことを止めなかった。


 熱の高まりに呼応するかのように、目の疼きが強くなる。

 そしてイサムが疼きを堪え切れずに左目を強く瞑った瞬間、ぼとりと何かが床に落ちる鈍い音がした。


 イサムは一瞬自分の眼球が溶け落ちたのかと錯覚した。


 音が聞こえた途端、顔の熱が引いていく。イサムが落ち着きを取り戻して確認すれば、目は両目ともしっかり利いていた。


「ひっ!?」

 床から男の引きつったような声がした。


 そちらに顔を向けると、男の声に続いて聞き覚えのある音が耳に届く。


 イサムの視線の先、床に座り込んだ男の前に一匹の蛇がいた。緑色の蛇だ。見慣れた姿形をした蛇は鎌首をもたげ、男に向かって大きな威嚇音を発している。

 寝台に視線を移せば、そこには先ほどの喧騒などなかったかのように、静かにユーラが眠っていた。体に掛けられていた毛布は脇に寄せられており、無理矢理脱がそうとしたのだろう服が体半分まで捲り上げられて、白い肌にへそが露わになっていた。


 イサムは他に暴行の形跡がないことを確かめてから、素早くユーラの服の乱れを直し、その体に毛布を掛けて一息つく。そして寝台の端に腰掛けると、途端に自分が愚かしく、情けなく思えて、頭を抱えた。


 どうしてユーラを一人にしてしまったのか。獣化病の者に対するこの世界の扱いを、イサムはわかった気になっていた。

 差別的な扱いや、何が起こってもおかしくない予兆は、ちゃんと注意していれば気付けたはずだった。これはナリアやエルスロに判断を託し、イサムが自分で考えることを放棄したことによる結果だった。最悪の事態にまでは至らなかったのは、たまたま運が良かっただけでしかない。


 当事者の男は突然の蛇の出現に驚いて、とうに部屋を飛び出ていった。

 そして男を追い出した当の蛇は、寝台の傍でとぐろを巻いて休んでいる。


 蛇の出現に驚き、混乱しているのはイサムもまた同じだ。どうしてこの場に蛇がいるのか。この蛇は、草原で別れたあの蛇と同一なのか。頭には疑問が次から次へと湧いて出るが、その答えを出す術をイサムは持っていなかった。

 只、驚愕すべき事態であっても、イサムの現状での優先順位は蛇よりもユーラの方が高かった。

 この蛇が、あの蛇と同一のものである予感はある。何処から現れたのかも予想がつく。けれどそれに確信が持てない今、蛇にばかり気を取られているわけにもいかなかった。


 寝台に腰掛けたまま、イサムは再びユーラの様子を確かめる。


 出会った当初に比べて髪が伸び、首半ばまでだったものが今は肩にまで至っていた。

 思い返せばユーラと出会ってから、もうすぐ二ヶ月ほどになる。さほど長く同じ時間を過ごしたわけではないのに、それが濃密であったがためか、イサムはユーラとの付き合いが大分長いものに感じられていた。


 ユーラはどう思っているのだろうか。その顔を見てもわかるわけはない。そう思いつつも、イサムはユーラの顔を覗き込み、そこで気付いた。


「起きてたのか……」

 イサムの声に、わずかにユーラの顎が動く。


 ユーラの目尻には涙が溜まり、また涙の流れた跡もあった。

 イサムはユーラの顔に手を伸ばすと、それを指で拭う。


「大丈夫だ。俺が守る」

 それは自然と口をついて出た言葉だったが、イサムに否定する気は起きなかった。

「頼りない……」

 ユーラがぼそりと呟いた言葉は手厳しい。

「何よ、俺の女って……」

 そう言い終えたユーラの口元には小さな笑みが浮かぶが、イサムは再び頭を抱える他なかった。


 その時、扉を叩く大きな音が部屋の中に響いた。

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