9 しがみつくもの(1)

 背中と後頭部はじんじんと痛むものの、両肩を押さえ付けてくる力はさほど強いものではなかった。イサムが抵抗して腕を振るえば、手は簡単に払い除けられて、影は床に転がった。


『この野郎っ!』

 口をついて出た声は日本語の響きだ。


 押さえ付ける力がなくなって、イサムは立ち上がるとそのまま影に飛び掛かる。


 床に転がる影は馬車の御者をしていた男だ。手には何も持っていない。イサムは右腕を男の顎下に押し込むと首を圧迫し、左手で抜き放った短剣を男の頬に当てた。


『糞が。殺してやる』

「やめろっ……」

 両手で必死にイサムの右腕を押し戻そうとしながら、男が苦しそうに声を出す。


 自分から襲い掛かっておきながらやめろとは、一体どの口が言っているのか。イサムは右腕をさらに押し込むと、男を睨み付けた。


 男の頬に当てられた短剣がその重さで刃を滑らせて、一筋の傷を作る。自分の頬が血で濡れていることに気付いたのか、男の目には怯えの色が浮かんでいく。


 そんな男の目の変化に気付いた途端、イサムは自分の体が冷えていくのを感じた。

 頭にユーラの腕が飛ぶ光景を思い浮かべ、その怒りを重ねて行動に及ぼうとするが、それでも体は動かなくなっていく。

 イサムは男から視線を外すと、短剣とそれを握る自分の手を確かめるようにじっと見た。


「……震えているぞ。慣れないことを、するもんじゃない」

 男が震え声で口を開く。


 短剣は男の頬、その薄皮一枚を切ると、男から自然と離れていた。しかし依然として男の顔の傍らにはあって、刃を濡らす血を床に滴らせている。そしてその切っ先は男の言葉通りイサムの力みか、武者震いか、はたまた結果を想像しての怯えからか、細かく震え続けていた。


 視線は自身の震える手を見つめたままに、イサムは男から宥める声が飛んできたことを腹立たしく思った。人を脅したことなど一度もない。慣れていないのは確かだが、覚悟は済ませたはずだった。それなのに動かない体と、その躊躇が男に言葉を発する余裕を与えたかと思うと、自分の不甲斐なさに苛立ちが増していく。


 言葉を掛けても動きを見せないイサムに何を思ったのか、男が口元に笑みを浮かべた。それを目にした瞬間、イサムは頭の中を真っ赤に染めると、苛立つままに短剣を振り上げた。


「大丈夫ですか!?」

 御者台から荷台へとナリアが飛び込んでくる。


 その声を合図に、イサムは短剣を振り下ろした。

 イサムの目には自身の手が握る短剣と、顔を青ざめさせた男の目を瞑る姿が映っていた。


「慣れてないからな。手が滑る」

 口から自然と発せられたその言葉は、意趣返しだったのかもしれない。


 短剣はイサムの言葉の後を追うようにして突き刺さり、それに呼応するように短い悲鳴が上がった。

 それっきり荷台には沈黙が広がった。


 イサムはそれから目を離さずに、突き立った短剣から手を離すと半身を起こした。傍に立つナリアはじっと黙り、イサムに声を掛けてこない。


 静寂の中、イサムとナリアがしばらく動かずに間を置くと、それは動き出した。イサムの下で倒れた男が、恐る恐るといった様子で目を開いたのだ。

 イサムが半身を起こしたことで、男の視界を遮るものはない。

 男の目に入るのは天井である馬車の幌の暗がりだ。それを視界に収めたのか、次はきょとんとした様子で周りに視線を巡らした。

 その途端、男はぎょっと体の動きを止めた。男の顔のすぐ隣、そこの荷台の床に短剣が突き立っているのが目に入ったのだろう。それから逃れんばかりに慌てて上体を起こす。


 そんな男の動きをイサムとナリアは終始見ていた。

 そしてイサムは男が上体を起こす瞬間を見計らい、大きく振り被った拳でその顔面を殴り付けた。


「んぶっ!?」

 イサムの拳の直撃を受けて男は呻くと、再び上体を荷台に倒して動かなくなった。


 初めて本気で人を殴った。それでも心の内の苛立ちは払拭されず、イサムは自分の上辺だけの覚悟を思い知らされる。殴って得たのは殴り付けた拳に残る痛みだけだ。

 男に叩き付けられた体の痛みの上に拳の痛みが加わって、イサムの感じていた苛立ちは言いようのない空しさに変わっていく。


 イサムは床に突き立つ短剣の刃を確認すると、短剣を鞘に戻して立ち上がった。傍に立つナリアの距離が若干遠い気がしたが、それには気付かない振りをした。


 立ち上がったイサムが黙っていると、イアムとナリアとの間にはぎこちない空気が漂った。


「エビチリさんを運びましょう」

 ナリアがそんな空気を破るように、次の行動の指示を出してくる。


 イサムが頷くと、二人は男をその場に残してユーラを運ぶために荷台から降りた。


 武装した男達と竜の戦闘はまだ終わっていないようで、時折怒号が遠くに聞こえる。只、馬車から見える草原の炎は大分小さくなっていた。

 そして草原の遠くには男達と竜の戦闘を避けるように、草をかき分け、波立たせながら、馬車に迫ってくるものがいた。


「急ごう!」

 どちらからともなく声を上げて、二人は気を失ったままのユーラを荷台へと運んだ。


 ナリアは荷台にユーラと荷物を運び終えると、すぐさま御者台に向かう。

 そしてしばらくした後、馬車はゆるゆると動き出した。


 かっぽかっぽと状況にそぐわないのん気な音を響かせて、馬がゆっくりと馬車を牽いていく。

 イサム達がユーラを運んでいた速度よりは速いのかもしれないが、悠々と並足で進む馬が牽く馬車は焦れるほどに遅かった。

 イサムが荷台から顔を出して外の様子を窺えば、草原を進み、近付いてくる音がする。その音にイサムは一層焦りが増していく。

 そして焦りを感じていたのは、イサムだけではなかった。


「何か荷物を捨ててください!」

 御者台からナリアの張り上げた声がする。


 その声に、イサムは荷台の下ろしやすい位置の荷物に手を掛けた。途端、足首が何者かに掴まれる。


「や、やめてくれ」

 弱々しい声がした。


 先ほどの、草原での出来事が頭をよぎり、右足の甲が一瞬うずく。イサムは慌てて足首を掴む手を振り払おうとして、その足で手の持ち主を蹴っ飛ばした。

 しかしそれでもその手を振り解くことはできず、手の持ち主はさらにイサムの両足にしがみ付いてきた。


「わたしの、私の用意したものなんだ。いくら掛かったと、す、捨てられたら困るんだ……」


 縋るような声を上げるのはイサムが殴り付けた男だ。もしかしたら意識を失った振りをしていたのかもしれない。


 男に両足を掴まれて、イサムは体勢を崩して尻餅をついた。そのまま男が殴り掛かってくるかと身構えるが、男はイサムの傍で床に膝と手を付いて動かない。


「あいつらの、仲間じゃないのか?」

 動かない男に、イサムは訝しげに問い掛ける。

「只、物を用意して売っただけだ! だがまだ金を、金を受け取ってないんだ」

 男は顔を上げて、だから荷物には手を付けてくれるなと、イサムに目で訴えてきた。


 短気を起こさなくて良かった。イサムは男の姿を見ながら心底そう思った。情けないと思った自分の判断を、手の平返しに心の内で称賛する。


 そんな内心を悟られないようにイサムはすくと立ち上がると、いまだ立とうとしない男の後ろ襟を掴み、荷台から男の顔を突き出させた。


「何をっ!?」

「見ろ」

 抗議の視線を向けてくる男に、イサムは外を見るように促した。


 馬車の後方、伸びる道の途中で蠢く影がある。

 草原に燃える炎の明かりはここまで届かず、その姿は星明かりに薄ぼんやりとしか見ることはできない。けれどイサムがそれを見間違えるわけはなかった。

 そしてその影が足を止めて群がるのは、騎士の倒れていた場所だった。


「そんなばかな……」

 迫る事態に気付いた男の呟きが聞こえてくる。


 後方だけではない。道の脇の草原からは馬車と並走しつつ、音を立てて迫るものがあった。


「このままじゃ追い付かれる」

「わ、私が馬車を動かす!」


 先ほどよりも近くなっている蠢く影。イサムもまた動揺する中、男は御者台へ向かってよたよたと荷台を進んでいく。

 イサムは男の背中を見送ると、荷台に横たわるユーラの姿を確認してから再び視線を外へと向けた。


 馬車に迫るのはやはり竜だ。

 大半は武装した男達に足止めされているのか、道に姿を現しているのが数匹に、草原に身を隠しているのもいくらかいて、馬車の後方を追って来ている。

 小さな体躯で馬車を止めることは無理なようで、それぞれがイサム達の出方を窺うに留まっていた。


 イサムは馬が襲われないことを祈りながら、外の光景と竜の姿をじっと見ていた。


 馬車の速度は変わらずに良くも悪くも安定していた。

 男が御者台へ向かった意味はあったのか。むしろナリアが危ない目に遭うのではないか。しばらく経っても変化がなくイサムが不安になった時、ようやく馬車の速度がぐんと増す。


 御者がナリアから男に交代したのだろう。イサムは急な速度の上昇に、荷台にしがみ付くようにしゃがみ込んだ。


 馬車はどんどんと速度が上がり、一旦は竜を引き離した。

 しかし竜は馬車を追い掛けることを諦めず、竜も速度を上げると馬車の後方に陣取り始める。


 速度が上がったことで馬車の振動は激しくなり、イサムはその揺れに立ち上がることができずにいた。ひしと荷台にしがみ付いたままで外と迫る竜を見ていると、距離を詰めてくる竜と視線が合う。

 竜はイサムと視線が合うと、視線を外さずに走る速度をより増した。そして勢いそのままに、馬車までほんのわずかな距離にまで迫ってくる。


 竜が荷台に飛び込んでくるのではないか。イサムがそんな想像に冷や汗をかいていると突然、イサムの頭上を越えて馬車から外に向かって物が投げられた。

 放物線の先には竜の姿があったが、竜はそれを難なく避ける。


 イサムが後ろを振り返れば、そこには何かの詰まった小さな袋を手に持つナリアが、馬車の揺れにふらつきながらも立っていた。

 イサムの注目など関係なしに、ナリアはその手に持つ袋を再び外へと放り投げる。


 放られた二つめの物体も竜に直撃することはなかった。だが竜はそれを避けるために減速したのか、馬車と竜との距離は先ほどよりも開き始める。


 イサムは弾かれたように立ち上がった。荷台の中を投げられそうなものを探して、よたつきながら漁っていく。


 そうして荷台から、イサムとナリアによっていくつかの袋と大きな箱が一つ放られた。

 放られたものが竜に当たったのか、それとも荷を捨てて馬車の速度が上がったのか、気が付けばいつの間にか竜の姿は遠くなり、それもやがては見えなくなった。

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