3 修道士(3) 

 人騒がせな獣による、無駄に落ち着かない夜が明けた。

 獣が去ったあの後、女は荷物をイサムの傍まで引き寄せると、今はそこで眠っている。


 イサムは眠る前の女といくつか言葉を交わしたが、いずれも無難な応対を心掛けた。

 この道を、巡礼路を進むことから巡礼者だと予想して、且つその醸し出す雰囲気と言葉から、この女は何かしらの宗教の関係者だとイサムは思った。異界の宗教がどんなものなのかは知らない。けれどこの道の先が司教都市と聞いた時に、ユーラが浮かべた顔を覚えている。険しい表情が印象深く、何か事情があるようだと、その時に思ったのだ。

 だがそれも考え過ぎだったのかもしれない。無防備に眠る女の姿にそんな思いも浮かびつつ、イサムはユーラが起きてくるのを静かに待っていた。


 ユーラが目を覚ましたのは太陽が昇り始めて、空が大分明るくなった頃だった。


「おはよう」

 眠りから覚めたユーラが上体を起こし、声を掛けてくる。


 目覚めの挨拶をしながらも、ユーラの視線は道の反対側へと向いていく。あの女を探しているようで、そこに誰もいないとわかるともう旅立ったのかと思ったのか、ほっとした様子でイサムに顔を向けてきた。途端、イサムの傍で眠る女が目に入ったのか、その表情がぎょっとしたものに変化する。


「その人、どうしたの?」

 ユーラの問いに、イサムは女へ目を向けた。

『夜に目を覚ましたんだ。道の向こうから獣が来て』

「え?」

『それで、獣が去った後に少し話したんだけど、神様の加護やら導きやら。多分、教会の人だと思うんだけど……』

 そう言いながら視線を戻すと、ユーラは渋い顔をしている。

「ねぇ、襲われたなら、どうして起こしてくれなかったの?」

『いや、あの、襲われたわけじゃないんだけど……』」

 返ってきた言葉に、イサムは虚を衝かれた。

「……そうね。イサムは蛇のことがわかるんだもの。動物や魔物の気持ちもお手の物よね」

『その、すみません』

 そして明らかにそれが嫌味とわかっても、イサムには謝る他なかった。


 自身が慢心していたことに気付かされる。環境に慣れていく中で油断しないようにしていたつもりが、心の何処かで自分は死なないと思っていた。

 そんなイサムの根拠のない自信に、ユーラは気付いたのだろう。先日怒られたばかりだというのに、イサムはますますユーラに頭が上がらなくなる思いだった。


『ソレにしても、キョウカイのヤツだとヤッカイね』

 まだ納得していないような表情を浮かべつつも、ユーラが話を戻してくる。


 潜めるような声で発せられたその言葉は、突如として日本語になった。

 久々耳にする他人の日本語の響きに、イサムはユーラが何と言ったのか一瞬わからなかった。


『あんまりカイワのナイヨウをシられたくないのよ』

 イサムが言葉を返せずにいれば、ユーラが補足するように言葉を続ける。


 その言葉を受けて立ち上がると、イサムはユーラを連れて、寝ている女から距離を取った。


『キョウカイはジュウカビョウにキビしい』

 だがユーラは次にそれだけ言って、会話を終わらせようとする。


 当然のことながら要領を得ず、イサムの顔には意識せずとも疑問が浮かんだ。それでもユーラは「詳しいことを話せば長くなる」と呟き、この場ではそれ以上語ろうとしなかった。

 そうなるとイサムは女へどう対応していいかわからず、黙るユーラに丸投げしようと心の内で決めたのだった。


 イサム達が話を終えると、その頃合を見計らっていたかのように女が目覚めてくる。


 上体を起こした女は寝起き特有のぼんやりとした様子だったが、すぐにイサム達の存在に気付いたのか、慌てて立ち上がった。そして自身の服に付いた土を払い、イサム達に歩み寄ってきた。


「おはようございます」

 女は笑顔を浮かべながら、イサム達に話し掛けてくる。


 朝日の下、イサムは初めてその女の姿をしっかりと確認できた。身長はイサムとユーラより頭一つ分ほど低い。小柄な体格を黒い外套が覆っている。フードも付いているが、今はそれで顔を隠してはいない。肩まで伸びた焦げ茶色の髪と瞳に白い肌を持ち、ユーラと同じ洋風の顔立ちだった。


「私はナリア。聖教会の修道士です」

 女はそう口にしてから、両手を胸に一礼した。

「昨晩、彼に助けて頂いて……。よろしければ、お名前をお聞きしても?」


 教会というのは異界でもこのようなものなのか。イサムがナリアと名乗った者の言葉と姿に抱いたのは、日本で抱いていた教会への印象と大差のないものだった。

 ユーラの様子を窺えば、案の定、女が教会の者だとわかって苦い顔をしている。


「……エビチリ、エビチリ・ダイスキよ」

 そして放たれた言葉に、イサムは不意を突かれた。


 それが名前、偽名だと気付いて、一瞬固まった。思わずユーラを見るも、ユーラは真面目な顔でナリアの方を向いたままだ。なぜ偽名を使うのか。それ以上に、よりにもよってなぜその名前名前なのか。ユーラの考えに全く理解が及ばず、イサムは只々唖然となった。


 するとそんなイサムの足に、突然鈍い痛みが走った。

 気を戻して確かめれば、隣に立つユーラがイサムに身を寄せて、ナリアから見えないように足をぐいと踏んでいた。


 イサムは抗議の視線をユーラへ向けた。だがユーラは依然としてナリアへ顔を向けており、イサムの視線には横目でナリアの方を見るように促してくる。仕方なく指示された通りにナリアを見ると、そこでようやく自分を窺うナリアの視線に気が付いた。


「え、あぁ……、あの、ラーメン、ラーメン・ダイスキです……」

 慌てて口を開いたものの、自分の発した言葉が耳に入ってくると、その声は尻すぼみに小さくなった。


 一体自分は何を言っているのか。名乗った後、次第に顔が紅潮していくのをイサムは感じた。

 ユーラの名乗りに触発されたのか、意識の何処かが遠く離れた日本の地、その食卓を訪れていた。ここ数日、漫然と感じていた食への不満がここに来て暴発したのかもしれない。


「エビチリさんとラーメンさんですか。お二人は、ご姉弟……?」

 イサムの動揺など関係なしに、ナリアは会話を続けてくる。


 日本語を知るわけがなく、疑問に思わないのは当たり前だろう。だがそんなナリアの疑問を介さない態度が、イサムの羞恥心をより刺激して、苦しめてくる。


「親戚みたいなものかしら。同じ村の出身なんです」

「ああ、ダイスキ村ですか。名前があるなんて大きいんですね」

「え、えぇ……」


 イサムが悶えている間も、ユーラとナリアの会話は止まらない。

 二人の様子を窺えば、ユーラがナリアへの対応に苦慮しているように見えた。突飛な偽名を使った自業自得だと思うものの、このままではユーラの話に無理が出そうにも思えて、イサムは若干の焦りを覚えた。


「あの、ナリアさんは何処へ向かってるんですか?」

 そしてその焦りから、咄嗟に二人の会話へ割って入った。


 修道士がこの道を行くのだ。向かう先は八割方決まっている。それでもユーラのために間を空けようと声を発せば、思惑通りにナリアの顔がこちらへ向いた。


「私はカラトペの方に用事がありまして。ラーメンさん達はどちらに?」

「プレダを目指してます」

 思った通りの答えが返ってきて、イサムも素直に言葉を返した。


 途端、ユーラの足が再び動き、イサムの足に痛みが走る。

 イサムはその意味がわからず、非難交じりの目をユーラへ向けた。


「それだと途中まで一緒ですね」

 ナリアの喜色を含んだ声が聞こえたのは、イサムがユーラを見たのと同時だった。


 自分からぶつけたユーラへの視線が変化する。ユーラから向けられる咎めてくるような視線に、イサムは後悔しか浮かんでこなかった。


 ユーラの視線にイサムが押し黙り、辺りには静寂が訪れる。


 会話の途中での唐突な沈黙に、イサムは気まずさを感じた。けれど口を開けば状況をさらに悪くしてしまいそうで、自分からは動くに動けない。

 そこへ修道士の、神に仕える者の心の強さを見せ付けるが如く、ナリアが口を開いて静寂を破った。


「私は法術を使えますし、力になれると思います」

「プレダを目指しているって、そう言いましたよね」

 暗に同行したいというナリアの言葉に、ユーラは呆れた調子で即座に言葉を返していく。


 法術という言葉の響きに、またゲームみたいな言葉が出てきたとイサムは思うも、それ以上にユーラの悪意を感じさせる態度に驚いた。事情や話している内容がわからないために口を挟めないものの、それは見ていて気持ちのいいものではなかった。


「……失礼しました。それはお二方とも?」

「私だけよ」

「ならラーメンさんにもお話を伺わないと」


 口を挟めない会話に、イサムは他人事のような気分でそれを見ていた。そこへ急に話を振られても、言葉が出てこないのが必然だ。


「そう言われても……」

「私ならその顔の傷も治せますよ」

「……え?」

 適当な言葉で時間を稼ごうと思った矢先、ナリアの言葉にイサムの口から困惑の声が漏れた。


 ナリアが歩み寄って来ると、ユーラがイサムの隣から離れる。

 傍まで来たナリアはイサムの顔に手を伸ばし、イサムは反射的にその手から逃れようと後ろへ一歩下がった。


「逃げないでください」

 そう言うと、ナリアの指先がイサムの顔のしるしに触れた。


 イサムはちらりとユーラを目で窺うも、ユーラはご自由にどうぞと言わんばかりに腕を組み、ナリアの行動を眺めている。その姿はナリアが何もできないことを確信しているかのようだった。


 ナリアが何事かぼそりと呟いた途端、その指先が青白く発光する。


 首元の蛇が強張るのを感じた。イサムもここに来て怖くなり、体は強張らせながら眩しさもあって目を瞑る。けれどナリアの指先が触れる箇所がむず痒く、一体何が起きているのか気になって仕方がない。


「あれ?」

 ナリアのそんな声と同時に、目蓋の裏から感じていた光が消えた。


 イサムが恐る恐る目を開ければ、ナリアが不思議そうな顔でこちらを見ていた。既にその指先はしるしから離れている。

 自分の顔に手を運び、イサムは顔を撫でるように確かめた。指先がしるしのあるところに至ると、その動きをゆっくりと慎重なものにしていく。しかしそんな行動も空しく、触れるのはいつも通りの盛り上がり。顔のしるしは残ったままだ。


「すみません。消えませんでした……」

「は?」

 イサムが問う声を上げても、ナリアから言葉は返ってこない。


 あの大袈裟な光は何だったのか。確かに奇跡めいた光だったが、ユーラの魔術を何度も目にしていれば新鮮な驚きはない。只、見知らぬ相手なのに期待を抱いてしまったのか、口から漏れた声はイサムの思った以上に大きいものになった。

 だがナリアには響いていないようで、イサムから離れると一人で「おかしい」と呟いている。


「傷じゃないから、消えないのは当然よ」

 まだ首を傾げているナリアに、ユーラが声を掛けた。

「法術が万能じゃないのはあなたも知ってるはず。同行しても必ずその力が役に立つわけじゃないわ。それにあなたも、私と一緒に行くのは嫌でしょう」

「いえ、そんなことは……。それに、普通の傷や病気ならお役に立てるはずです」

 意外そうな表情でイサムを見ながら、ナリアはユーラへ言葉を返し続ける。


 何かと拒絶するユーラと食い下がるナリアの構図は、その後もしばらく続いた。

 「どうして」や「なんで」といった類の言葉を、二人はお互いに浴びせ合っている。蚊帳の外のイサムは首元の蛇に構いながら、その終わりを待っていた。


 すると決着を付けるのを諦めたのか、二人の視線がイサムへと集まった。


 イサムに向けられたのは、自身に同意することを確認してくるユーラの視線に、縋ってくるようなナリアの視線だった。二人のそれはイサムに答えを出すことを強要しながら、また自分に反対することを許さない雰囲気を醸し出している。


「……進む道が同じなら、一緒に進めばいい」

 そんな二人からの圧力を感じつつ、イサムはほんの少しばかり考えてからそう答えた。


 ナリアへの同情だけではない。それはユーラの見せた悪感情が受け入れ難く、気のせいだったと思いたいがための、子供染みた感情からの結論だった。


「ありがとうございます」

 ナリアは頭を下げて礼を口にすると、足早に自分の荷物の下へ戻っていく。


 荷物の整理を始めたナリアをある程度目で追ってから、イサムは黙っているユーラへ向き直った。


『怒ってる?』

「別に」

 ユーラの声が素っ気なく聞こえる。


 出発の準備をするためか、ユーラはそれ以上何も言わずに荷物の方へ歩き出す。只、イサムの前を横切る際、イサムの足を思いっきり踏み付けていくことは忘れなかった。


 ユーラが出発の準備を始める中、イサムはその横で自分の準備に取り掛かることが躊躇われ、動く二人をぼんやりと見ていた。


 偽名を名乗るくらいだ。聖教会に対して、ユーラは何かあるのだろう。だが友好的な態度の見知らぬ者に、いきなり攻撃的になるものではない。それはユーラもわかっているようだった。

 今、近くで荷物をまとめるユーラとナリアの間に流れる空気は、攻撃的なものを感じさせない。だがユーラには友好的に接する気もないようで、時折向けられるナリアの視線を完全に無視していた。


 そんな二人を眺めていると、イサムはある事実に思い至った。


 ナリアという新たな同行者に名乗った手前、あの偽名を使い続けなければいけなくなったのだ。先ほど感じた羞恥心が蘇り、ここに至って同行することを決めたことを、イサムは少し後悔した。


 あの偽名は何なのか。ユーラも食への不満を感じていたのか。そんなことを考えながら、イサムも出発の準備をするために動き出す。


 そうして同行者を一人増やして、イサム達は再び森の道を進んでいく。

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